第2章 「未来への設計図」(2)                   BACK | TOP | HOME




 栂野(つがの)副園長は、毎朝【すずかけの家】の敷地内の宿舎のまわりの広い林を、ぐるりと散策しながら登校するのが日課だった。三月の空気はまだ冬のままだが、桜の枝は一雨ごとに花の芽で重みを増し、春の準備をしている気配を漂わす。
 三月からこちらに来ることにしてよかったと思う。正式な辞令は四月からだが、卒園生たちを厳粛に送り出し、また新入生を万全の準備をもって迎えたかったのだ。
 【すずかけの家】の子どもたちは、良い子たちばかりだ。とても素直だし、何よりもすばらしく理解力がいい。将来の日本を背負って立つ子どもたちの姿を目の当たりに見ることができるとは、何という幸せだろう。
 おや、前方から駆けてくるのは、園児たち。6歳児クラスのふたりだ。名前もしっかり覚えている。
「おはよう。カナイくんとルカちゃん」
「あ、おはようございます。副園長先生」
「早起きだね」
「はい、ここの木の高いところに、メジロのつがいが巣作りをしてるので、3D望遠カメラで撮影しようと思って来ました」
「ほう、もうそんな季節なんだね。どれどれ」
 栂野は子どもたちの指差す方向に、うんと体を伸ばした。
「見えにくいところにあるのに、よくわかったね」
「セフィ先生が最初に見つけて、僕たちに教えてくれたんです」
「へえ、セフィ先生が」
「人間よりずっと目がいいから」
 そのとたん、片方の女の子が乱暴に同級生の腕をつかみ、しゃがんで何やらこそこそと話を始めた。
「カナイの馬鹿っ。そんな言い方したら、ばれちゃうじゃん!」
「あ、そ、そうか」
「絶対にセフィ先生の秘密を守る。それが【すずかけの家】40人の血の掟なんだから」
「わかってるよ。もし先生がロボットだってことがバレたら、追い出されちゃうもんな」
「何をこそこそ、内緒話してるんだい?」
「は、はいっ」
 肩越しににゅうっと覗きこんできた栂野先生の顔に、子どもたちは尻餅をつきそうになった。
「セフィ先生がどうとか。何の話かな」
「い、いえ、どうとかなんて言ってません。気のせいです!」
「確か、ロボなんたらと聞こえたんだけど」
「ろ、『ロボ』なんかじゃありません。『ラブ』です!」
「は?」
「セフィ先生と胡桃先生は、『ラブラブ』だって話してたんです!」
「ああ、そうだったのか」
 にっこり笑って栂野先生がその場を去ってしまったので、ふたりはほうっとため息をついた。
「死ぬかと思った」
「なんとかごまかせたみたいだな」
 だがふたりは、背中を向けて歩き出した副園長のこめかみが、ぴくぴくとひきつっているのを知らなかった。
「そうですか。胡桃先生と『ラブラブ』ねえ……」


「セフィ先生、ちょっと」
「はい、なんでしょうか」
 体育館の裏手からの栂野の手招きに、セフィロトは急いで走った。
「体育館の管理責任者は、体育科正教師である椎名先生と、補助教師であるあなたですね」
「はい、そうです」
「聞くところによると、こっち側の倉庫はほとんど使われていないそうですが、あまりに整頓がなっていない。万が一子どもが怪我をすると大変なので、早急に改善をお願いしたいのです。椎名先生にはほかの用事をお願いしてありますので、体育科補助教師であるあなたに、代わりになんとかしてもらいたい」
「わたし一人でですか?」
「もちろんです。それも今日中にですよ。いいですね」
 セフィロトは、パズルのごとくもつれたネットや、どこから手をつけても全体が崩壊しそうなほど、ごちゃごちゃに積まれた体育用具を呆然と見上げながら、思った。
 ……もしかすると、わたしは副園長先生に嫌われているのかもしれない。
「お返事は?」
「はい、承知しました」
「よろしい」
 立ち去りかけた副園長は、ふと足を止めて振り向いた。
「ところで」
「はい」
「セフィ先生の苗字はいったい何というのですか? あなたもいくら外国人とは言え、ここは日本なのですから日本の伝統を守って、苗字で呼ばれていただきたいものですな」
「そ、そうですね」
 セフィロトは途方に暮れて、自分の視覚解像度が50%ダウンしたような心地になった。
「でも、わたしには苗字がないので……」
「苗字がないって、あなた、どこぞの皇族ですか?」
「そうではないんですが……。あのそれじゃ、『古洞』ではいけないでしょうか?」
「『古洞』は、古洞胡桃教諭のお名前じゃありませんか! いくら先生のお宅に下宿しているからって、まさか結婚しているわけでもあるまいし」
「結婚?」
 とたんにセフィロトは頬を紅潮させ、うっとりと自分の世界に引き込まれていく。
「そうか。結婚したら、胡桃とわたしは同じ姓になるのでした……」
 その瞬間、栂野の回りの空間に、流氷が割れるのに似たきしみが鳴った。
「とにかく、あなたの苗字はいったい、何なんです!」
「困りました。まさか、『AR8』は苗字ではないですよね」
「はあ?」


「まったく、この学園は……」
 ぶつぶつ口の中でつぶやきながら、栂野副園長が職員室に入ってくる。
「あ、副園長先生もご一緒にいかがですか。今みんな、差し入れのお菓子でお茶を飲んでいたんですよ」
 胡桃がコンピュータ制御給湯マシンのほうへ行きかけると、片手で制止して、
「いや、けっこう。自分でやります。部下の教師にお茶くみをさせるのは、2142年度の教育省通達で禁止されておりますからな」
 きびきびと自分でお茶を入れて、席に座る。
「【すずかけの家】で唯一つ気になるのは、教師と生徒がべたべたと、まるで同級生みたいな口調で話していることです。もっと教師の側が教える者としての威厳をもつべきではないでしょうか。
教師が威厳と指導能力を失い、ただの「ともだち先生」になりさがった結果、21世紀初頭の一連の【教室崩壊騒動】が起こったのです。その轍を二度と踏むべきではありません!」
 職員室がしんと静まり返る。一番近くの机にいた胡桃がなだめるように答えた。
「でも、栂野先生。確かに配慮は必要ですが、これはこれで子どもたちとのあいだに、とても話しやすいムードがあってよいと思うのですが」
「親しみやすさと舐められることを混同してはなりません。第一、子どもたちはもとより、教師同士までも教師をファーストネームでよぶのは、日本の伝統に反すると思うのですよ。このあたりもそろそろ意識改革を始めていこうと思っています」
「はあ」
「みなさんも、これからは互いのことを苗字で呼ぶように。セフィ先生のこともきちんと『エーアールハチ先生』と呼んでくださいね」
 周囲の教師たちが、一斉にお茶をぶーっと吹き出した。
「エーアールハチ?」
「まったく彼の先祖はどこの出身なんでしょう。聞いたこともない苗字です」
「あ、あの、栂野先生」
 胡桃は横隔膜がぶるぶる震えるのをこらえながら、副園長の机のわきに立ち、申し出た。
「セフィ先生の姓は日本人には発音しにくくて、彼はそのことをとても気にしているのです」
「まあ、確かに」
「だから、私たち相談してセフィ先生と呼ぶことにしたんです。これからも特別に、そう呼んでいただけないでしょうか」
「それなら仕方ないですね。特例として認めることにはやぶさかではありませんが」
 彼は吐息をつくと、彼女のほうをちらりと上目遣いで見た。
「ところで、古洞先生」
 ぐっと声を落とす。
「子どもたちのあいだに、あまりよくない噂がはびこっているようですよ」
「はい?」
「教師たるもの、誤解を与えるような言動は慎まなければなりません。特に男女の惚れた腫れたについては」
「は、はあ」
「わたくしは別にそんな噂、真に受けてはおりませんよ。でも本当のところはいったいどうなんです?」
 胡桃が危険を感じてのけぞるほど、ぐいと身を乗り出してくる。
「へ?」
「だから、あなたとセフィ先生のことですよ」
 そのとき後ろのドアから、セフィロトが入ってきた。胡桃と栂野の異常接近を目撃して、ちょっと意外そうな表情をしたが、それでもすぐ笑顔に戻って、歩いてくる。
「副園長先生。倉庫の片付けが終わりました」
「え。も、もう? そんなバカな」
「本当です」
 栂野先生は脱兎のごとく職員室を飛び出し、体育館のほうに駆けて行った。そして放心した面持ちで戻ってきた。
「いったい、どうやってあれだけごちゃごちゃの体育用具を、ひとりで短時間に……?」
「はい、わたしの生まれたところも似たような環境でしたので、片付けは慣れているんです」
 セフィロトはそう答えて、胡桃にむかってこっそりウィンクをしてみせたのだった。
   



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