第3章 「柔らかな迷路」(4)                   BACK | TOP | HOME




 セフィロトはとうとう車の中でも無言を通した。
 その日にかぎって教員会議が長引き、遅くなったついでに【すずかけの家】の食堂で夕食を取ったために、帰りは9時近くになってしまった。
 本当は昼からずっと表情が冴えない理由を早く訊ねたかったのだが、帰宅途上でふたりきりになってもセフィロトは何も言おうとしない。
「疲れたよね」
 家のドアを開けてリビングに入ったとき、私は労わるように彼の背中にそっと触れた。
「明日は休みだから、今晩はゆっくりしよ?」
 言い終わらないうちに、いきなり抱きすくめられた。
 照かりはいつのまにか元通りに暗くなっている。セフィロトが【エリイ】にそう命じたのだろう。
 私の上に注がれる彼の金色の瞳は、恐いほど強く輝いていた。
「胡桃」
 こんなセフィロトははじめてだった。有無を言わせぬ激しさで、私の唇を割って押し入ってくる。
 あたたかく乾いた舌が私の口の中を丹念にさぐった。
 セフィロトの口腔には、唾液は分泌されない。食べた物はすぐにタンクに送られて、口の中のカスも電気分解処理されてしまう。
 それに比べて、私の口の中はきっと、さっき食堂で食べた中華風スープの味がしているだろう。
 今日は五月にしては暑かったから体も汗臭いはずだ。ロボットであるセフィロトからすれば、人間である私の体は、ねばねばと分泌液にまみれて汚い。
「セフィ」
 私は彼をそっと押し戻した。
「シャワーを浴びたいわ。見たいテレビも始まるし、ね、コーヒー淹れて待っていて」
 セフィロトは私の動作を拒否と感じたようだ。表情を強ばらせて、うつむいてしまう。
「胡桃は、わたしのことを避けるのですね」
「そうじゃないわ、ただ……」
「わたしが、命を産み出すことのできないロボットだから、ですか」
「……どういう意味?」
「栂野先生がおっしゃっていました。ロボットはいつでも廃棄処分できると。永遠に価値あるものを後世に残すことができない存在だと」
 一本調子の、怒りにくぐもった声。
「胡桃とも話していましたね。人間は結婚して命を育むのが、本来のあるべき姿だって。栂野先生のおっしゃっていた『永遠に価値のあるもの』というのは、生命のことなんでしょう?」
 セフィロトは、私と栂野さんの会話を聞いていたのか。
「わたしはただの機械だから、胡桃と結婚しても、命を産み出すことなどできない」
「セフィ、違う!」
「違いません。だから胡桃は、栂野先生との結婚を考えているんでしょう」
「そんなまさか。何を馬鹿なこと言ってるの?」
「馬鹿なことじゃありません。少なくとも栂野先生は考えていたじゃないですか。胡桃といるとあれほど脈拍が速くなっていたのに。聞いたでしょう?」
「セフィ」
 私は彼を力の限り、抱きしめた。バランスを崩してふたりでペタリと床に座り込む。
「落ち着いて、セフィ、落ち着いて」
 髪をゆっくりと撫でてあげる。
 私はようやく、おぼろげに悟り始めていた。彼は私と栂野先生のことを完全に誤解している。けれど、ただの嫉妬とも言い切れないものが、その根底にはある。
 古くて大きな傷が、セフィロトをさいなんでいるのだ。それは彼の奥、ずっと深いところに隠されていたトラウマ。
 私の夫だった、古洞樹の記憶の中に。
 セフィロトはしばらく私の腕の中で彫像のようにじっとしていたが、やがて力尽きたように言った。
「ごめんなさい、胡桃。わたしの言っていることは完全に非論理的で支離滅裂でした」
「いいの。わかってる」
「わたしはただ、栂野先生にヤキモチをやいただけなんです。あなたを責める理由なんか、これっぽちもないのに、あんなに怒鳴ったりして」
「ちがうの。あなたにそうさせているのは、樹なの」
「古洞博士?」
「樹が生きていたとき、私たちは今と同じように言い争いをしたのよ」
 セフィロトから視線をはずす。彼の目を見て話すには、あまりにつらい思い出。
 嗚咽を何度も飲み込んでから、私は二年前のことを話し始めた。


「胡桃。何度話し合おうと、結論は同じだ」
 樹はいつも、冷ややかに答えるだけだった。
「避妊を止める気はない。俺の遺伝子の持つ短命因子を子どもに受け継がせる可能性があるかぎり、子どもを作ることは罪悪だ」
「罪悪だなんて」
 私はことばの無力を感じながら、反論を試みた。
「短命因子が遺伝すると決まったわけではない。私は賭けてみたいの。あなたと愛し合った証がほしいと願うのは、いけないこと?」
「その子がいつ死ぬかわからない恐怖に、日々おびえながらか!」
 一度だけ、樹はひどく取り乱したことがある。テーブルの上に乗っていたコーヒーカップとソーサーを全部床に払い落としてしまった。
「その子どもは俺と同じ苦しみにのたうち回るんだ。人を愛すれば愛するほど、自分だけこの世からいなくなるかもしれない恐怖を噛みしめるんだ。おまえは、その子の苦しみを平気で見ていられるというのか」
「そんな……」
「子どもが欲しいなら、魁人に頼めばいい。あいつなら、いつでもおまえの頼みを聞いてくれるさ。俺は、喜んでおまえと離婚してやる!」
 まるで悪夢のような時間だった。
 私たちはお互いに傷つけ合い、ぼろぼろになって――そして、それ以来二度と子どものことは口にしないと約束を交わした。
 私たちの結婚生活で唯一の、悲しい記憶。
 今から考えたら、どうして私はあれほど子どものことにこだわってしまったのだろう。樹の気持は痛いほどわかっていたのに。
 樹はほんとうは誰よりも、自分の命を次代に託すことを願っていた。【第12ロット世代】の残酷な運命がそうさせなかっただけなのだ。
 だから、セフィロトを創った。そして、セフィロトの人工知能に自分の記憶のすべてを書き込んだ。あのときの辛い思い出さえも丹念に。
「セフィ、聞いて」
 私は、半分目の前のセフィロトに、半分あのときの夫に語りかけるようにして、ささやいた。
 もし、やり直せるなら、あのときに戻ってやり直したい。
「子どものことは、何も考えなくていい。確かに人間にとって子どもを授かることは大きな喜びだわ。でも、それができなくても、いいのよ」
「……でも」
「私にはそれよりもっと大切なものがある。それは、あなたよ」
「だって、わたしはロボットなんです」
「ロボットでいいの。命を産み出せなくたっていい。次代に何も遺せなくていい。あなたがいいの。あなたじゃなきゃ、ダメなの」
 熱い涙があふれてくる。樹にとうとう言えなかったことばを今セフィロトに向かって言うことで、私たちはつらい思い出から癒されようとしている。
「胡桃……」
「愛してる、セフィ」


 翌日、セフィロトは柏所長に呼び出され、【国立応用科学研究所】へ向かった。
 まっすぐ所長室に行くと、広くがらんとした部屋には、柏所長ばかりでなく、科学省の武藤栄作と木田勇人も待っていた。
「ずいぶん急な呼び出しですね」
 セフィロトが、そう控えめに抗議すると、
「相変わらず、ロボットのくせに偉そうなことを言う奴だ」
 と、木田が不快を口の端ににじませた。
「おまけに、さっきからずっと不機嫌なツラしやがって。人間らしく成長すると余計な機能までついちまうものなんだな」
「保育所を突然休ませて、すまなかった」
 柏はそっけない調子で、セフィロトにあやまる。
「こっちの都合でこうなった。事前の打ち合わせなしに突然実行したほうが、秘密が漏洩する危険が少ないものでな」
「わかりました。で、今日はなにを?」
「【テルマ】の中に潜入してもらう」
「潜入、ですか?」
 セフィロトは目を見張った。
 【テルマ】とは、【国立応用科学研究所】のマザー・コンピュータである。
 日本国内でも数台しかない、第11世代コンピュータで、その内部は8つのセグメントに分かれ、それぞれが同時に別々の働きをすることが可能という、人間の思考など到底及ばない機能を備えている。
「この研究所の一部が軍事クーデタの通信中継基地のひとつとして、秘かに鏑木(かぶらぎ)局長に利用されていたことがわかった」
「え――、本当ですか?」
「ああ、科学省本部のマザーコンピュータ【レイチェル】の精密なトレースからやっと判明した。【テルマ】を中間に介在させて情報をロンダリングし、科学省や国防省の他のクーデタ主謀者たちと極秘の通信を行なっていたらしい。だが、その相手が誰なのか、どんな内容なのか、その形跡をつかむことは目下のところ全くできていない」
「はい」
「【テルマ】に口を割らせるのが一番手っ取り早いはずだ。だが、当事者のID認証がない限り、機密情報を漏らすことは絶対にありえないらしい。とんでもない頑固さだ。脅したりすかしたり、いろいろやってみたが、通常の尋問はまったく通じなかった」
「【テルマ】は、カツ丼なんかでは落とせないでしょうしね」
 突拍子もない発言に、武藤と木田が目を剥く。セフィロトはこの頃、【エリイ】に入っている大昔の刑事ドラマを見るのが趣味なのだ。
 柏所長はにやにや笑っている。
「そこで、白羽の矢を立てたのが、おまえだ。おまえの人工知能と【テルマ】を直接、超高速コネクタでつなぐ。相手側に知られないように用心しながらテルマと交渉して、主謀者の名前を聞き出してきてくれ」
「それはいいのですが……なぜ、わたしなんですか?」
 セフィロトはいぶかしげに眉をひそめた。「たとえば、【レイチェル】のほうが、わたしより数十倍処理能力が高いはずです。交渉役なら、そっちのほうが――」
「それはもうやってみたんだよ」
 柏は、いらいらとペン先で机を叩く。
「だが所詮、同じコンピュータどうしだ。あらゆる手を尽くしているように見えても、結局は同じ土俵の上での相撲になっちまう。……ああ、相撲が廃止された今は、これは死語だな。だが、おまえは違う。コンピュータに近い人工知能でありながら、人間並みの判断力も想像力も持ってる。とんでもないフェイント攻撃ができるはずだと俺は踏んだ。……さっきの『カツ丼』のようにな」
「……カツ丼でいいのですか」
 しかたがない。クーデタ計画の全貌を暴くために協力すると、以前に柏所長と約束してしまったのだ。そのことが胡桃や他の愛する人たちを守ることになるのだと説得されて。
 だが、ひどく気の進まない任務だった。
 セフィロトの心には、昨日からずっと、大きな石ころのような未処理の命題が残っている。人間で言うならば、『サイアクの気分』だ。
 胡桃は、普通の人間の男性と結婚したほうが幸せになれるのではないか。あれほど子どもが好きな胡桃が、自分の子どもを望まないはずはない。
 どんなに胡桃が愛していると言ってくれても、その気持をロボットである自分は拒否すべきなのではないか。
 犬槙博士。栂野副園長。胡桃のことを大切に思っている男性はたくさんいるのだから。


 武藤の先導によって、彼らはいくつものフロアを降り、いくつものドアをくぐっていく。そのたびに厳重な認証チェックを受けさせられる。
 研究所の所員でも入れる人間が限られている、最高機密地帯に彼らは入り込んでいるのだ。
 やがて、驚くほど天井の高い部屋に入った。
 古代のジグラットのごとく何層にも組み上げられた円錐形の壮大な塔。無数の目のようなランプが明滅し、絶え間ないハミング音を上げている。
 これが超量子マザー・コンピュータ、【テルマ】の本体だ。
「やあ、おはよう。テルマ」
 柏所長が、気さくな調子で声をかける。
『おはようございます。柏所長。おはようございます、武藤さん、木田さん。武藤さんは少し顔色が悪いですね。ゆうべは飲みすぎたのですか』
 【テルマ】には、研究所全体をカバーする視覚と聴覚の認識機能がある。そうやって馴染みの人間と挨拶を交わしている様子は、まるで年配の伯母が甥たちを気づかっているようだ。
 【テルマ】のアイカメラはひとりひとりを舐めるように動くと、最後にセフィロトに向けられた。
『おや、あなたは犬槙・古洞ロボット工学研究室で作られたロボットですね、AR8型セフィロト』
「今日はセフィロトときみに、少し世間話をしてもらいたくてね」
 柏所長は【テルマ】相手にことばを続けながら、一方でせかすような仕草でセフィロトに合図した。
 一刻も時間を無駄にせず、コンタクトを始めろということだ。
 セフィロトは手早くシャツの袖をまくりあげると、右腕のつけねを木田に示した。
 ほとんど目立たないが、そこにはごく小さな穴が開いている。ここから充電装置と接続したり、通信回線を引き込めるようにもなっているのだ。
 コネクタとの接続を終えると、台の上にゆっくりと仰向けになる。
 コンピュータと会話したことはあるが、コンピュータの中に意識ごと入り込むというのは、初めての体験だった。
 【テルマ】の中で、いったい何が待っているのだろう。
 小さな胸騒ぎをいだきながら、セフィロトは静かに目を閉じた。


 その日遅くまで研究室にいた犬槙博士は、帰宅しようとした矢先に柏所長からの電話を受け取った。
 想像もしなかったような内容だった。
 セフィロトが【テルマ】の中に潜入したきり、十時間以上経っても戻ってこないというのだ。




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