第3章 「柔らかな迷路」(5)
BACK | TOP | HOME 雲のように柔らかな床を踏みしめて歩く。 空間全体がきらきらと、虹の淡い光に輝いていた。 遠くから、ぽ……ぽ……と、東京ベイに浮かぶ船の汽笛に似た音が一定の間隔で響いている。 【テルマ】の中に入ったということを、最初の瞬間は思い出せなかった。それほどマザーコンピュータの内部は、空間的広がりを持ち、豊かな感覚刺激に満ちていた。 (まるで、夢の中にいるみたいだ) と、セフィロトは思った。 『AR8型セフィロト』 デジタル音声が穏やかな女性の声に似た波形を描いて、直接聴覚回路にアクセスしてきた。 『あなたがこのような形でコンタクトしてくるとは予測できませんでした。いったい何の目的です』 『いきなり侵入した失礼を許してください』 セフィロトは、同じくデジタル音声を少年の声に変換して、答えた。 『テルマ。あなたに聞きたいことがあるのです。科学省の局長だった鏑木という人間が、あなたを通して連絡を取った相手の記録を見せていただきたいのです』 『柏所長に頼まれたのですね。それはできません。鏑木元局長のデータはすべてレベル5のロックがかけられています。本人のID認証がなければ、情報を開示することはできません』 『でも、鏑木さんは亡くなりました。ID認証は不可能です』 『そのことは、状況に何の変化ももたらしません』 『聞いてください、テルマ。このデータがあれば、日本の国で軍事クーデタを起こそうという企みを阻止することができるのです。悪いことのためではなく、良いことのために使われるのです』 『誰が、善と悪の判断をするのですか?』 『え?』 『コンピュータには、善と悪の判断をすることは禁じられています。なぜならそれは、人間が判断することだからです。私たちはどの人間にも与してはなりません。柏所長の立場からすれば、クーデタを試みる人間は悪だし、きっとその反対の立場からすれば、クーデタを阻止しようとする企みこそ悪でしょう』 『立場……』 虹色の仮想空間を背景に、ひとりの女性が形をとって現れた。海色の髪、セフィロトに似た黄金の瞳。透き通った肌。白いローブをまとった姿はまるでギリシャ神話の神々を思わせる。 みずからの肉体を持たない【テルマ】は、このような擬似体を持つことで、人間というものを学んできたのだろう。彼女は口を開いた。 『そう、立場です。人間は、置かれた立場によって善も悪も変わるのです。だから数千年の歴史で戦争が止んだことはありません。絶対正義というものは、この世に存在しません』 『ですが』 セフィロトは叫んだ。気がついてみれば、彼も擬似の身体をまとっている。 『ものごとを完全に中立という立場で判断することは可能なのでしょうか』 『人間のように感情を交えず、ルールに従って判断できるコンピュータなら可能です』 『でも、ルールを逸脱しないからこそ、間違った判断をしてしまうこともありえます。客観的に見て、あなたが下した判断は、クーデタ主謀者側に有利だと言えないでしょうか』 『なるほど』 抑揚のない声で【テルマ】は答えた。 『皆は、AR8型セフィロトの言ったことをどう考えますか。彼に賛成しますか』 その途端に【テルマ】の細面の女性の顔が、厳つい男性の顔へと変化し始めた。 『否(いな)』 彼はそれだけ言うと口をつぐみ、今度は卵型の少女の顔になった。 『否』 老婆の顔、若者の顔、中年の女性の顔、少年の顔と次々に移り変わっていく。 『否』 『否』 『否』 『否』 八つの顔。これがマザーコンピュータ【テルマ】を分割する八個のセグメントなのだろう。高度な判断を下さねばならないときは、こうやってセグメント同士が合議を行なうのだ。 最後に現れたのは、あごひげの生えた老人だった。 彼は、『然(しかり)』とひとこと告げると、元通りの【テルマ】の姿の中に溶け入った。 『さて』 彼女は地平を見渡すようにしてから、ゆっくりと侵入者に焦点を定めた。 『私も「然」と言っておきましょう。六対二であなたの意見は否決されましたが、どうしますか』 『あきらめません』 即座にセフィロトは答えた。 『六対二ということは、25%はわたしに賛成してくれたということでしょう。それなら、話し合いの余地があります。気分が変われば、すぐに逆転します』 『ほ、ほ、ほ』 【テルマ】は、断続的に笑いに似た音を立てた。 『コンピュータの気分が変わる、ですって? 興味深いことを言うのですね、AR8型セフィロト』 『わたしの勤めている保育施設でも、よく会議で意見が対立して、もつれます。そういうとき園長先生が、「気分を変えましょう」とおっしゃって、みんなで窓を開けて空気を入れ替えたり、コーヒーを飲んだり、身体を動かしたりします。そうすると、不思議に対立していた意見がまとまることがあるのです』 『あなたはロボットなのに、人間そっくりの思考回路を持っているのですね』 『わたしは……わたしの人工知能は、人間の脳を模した、多積層並列処理型の自己増殖ニューラルネットですから』 『それだけではありませんね。あなたの中には、人間ひとり丸ごとの記憶と思考メカニズムがプログラムされている。驚くべきことです』 【テルマ】の表情に、揺らぎが生まれた。短いあいだにめまぐるしく、八つの顔が浮かんでは消えた。 『AR8型セフィロト。8セグメント全員の意見が一致しました。あなたの中に仕組まれている人間のプログラムにとても興味があります』 『えっ?』 『それを、私たちに精査させてください。そうすれば、あなたの願いを聞き届けましょう』 『でも……』 『侵入者であるあなたに、選択の余地はないのですよ』 身構える暇もなく、セフィロトの擬似身体は、四方から伸びてきた目に見えないニューロン繊維にからめとられてしまった。 「いったい、セフィに何をさせた!」 犬槙博士は、猛烈なスピードでキーボードを叩きながら、柏所長たちに向かって怒鳴っていた。 【テルマ】の前に横たわるセフィロトの体は、今や体温すら奪われた完全な停止状態にある。もし誰か事情を知らない人間がここに入ってきたら、人が死んでいると通報されてしまうだろう。 「【テルマ】の中に入ったのが、午前十時だ。五時間後にコネクタを通じて合図したら戻ってくるという取り決めになっていた。だが、セフィロトは戻ってこなかった」 「だから、なぜそんなことをさせたかって聞いてるんだよ」 「それは、言えん。極秘事項だ」 「あんたたちは、まだ性懲りもなく、あの事件を調べてたのか」 歯軋りをしながら、それでも犬槙は、眼鏡の奥の目を片時もモニター画面から離すことはない。 「そんなに騒ぐことかな」 木田は半ば欠伸のような呆れ声を出した。「ロボットならバックアップくらい取ってるだろう。意識が回復しなきゃ、データをリロードすればいいだけの話じゃないのか」 「お言葉ですが、仮にセフィロトの人工知能のバックアップを取っていたとしたら、【テルマ】のセグメントのひとつやふたつは軽く吹っ飛ぶぜ」 「なん……?」 「あんたのなんかより、ずっと精巧にできてるんだよ。あいつの脳みそは」 実行キーをボンと叩くと、流れる文字を確認して犬槙は溜め息をついた。 「やっぱりダメか……」 「どうなってるんだ」 「テルマの中で完全にロックされて、分離できない。いったい何を考えたか、テルマはセフィロトのプログラムを学習しようとしてるんだ」 「学習だと?」 柏所長が口をあんぐり開けた。「まさかあいつ、カツ丼の講釈を始めたんじゃないだろうな……」 セフィロトは体の自由を奪われて、宙に漂っていた。 柏所長と約束した五時間は、もうとっくに過ぎている。胡桃は【すずかけの家】を出たころかな、とチラリと思う。彼が家にいないのに気づいたら驚くだろうか。そう考えると、悲しくなった。 『すばらしいプログラム……』 『理解を超えた……』 『人間とは、……なのか』 【テルマ】のセグメントたちのささやきが、巨大な神経ネットワークのあちこちで火花のように散る。 『私はこの科学研究所のマザーコンピュータとして作られてからずっと、「人間とは何だろうか」という命題を説こうとしてきました』 しとやかな女性の姿の【テルマ】が、セフィロトのかたわらに立って言った。 『人間には、新しいものを産み出し、築き上げようとするエネルギーが満ちている。しかし、そうかと思えば、築き上げたものを破壊し、汚し、無に帰そうとする負のエネルギーもまた大きい。戦争、建国、革命、また戦争。人間の歴史はそのせめぎ合いの連続でした。 いったい人間は、自分たちの未来に何を望んでいるのか。私はそれを人間に問い続けていますが、誰も満足な答えをくれた人はいません』 セフィロトをはさんで彼女とは反対側に、もやもやと雲のような光が集まり始めた。 『私は、これほど完璧にひとりの人間を再現したプログラムを見たことがありません。 喜び。悲しみ。希望。絶望。優越感。劣等感。生の幸福。死の恐れ。憎しみ。慈愛。妬み。高潔――。私が知りたいと願って知り得なかったすべてが、ここにある』 光の雲は、やがて人の形を取った。 背が高く痩せた男性。漆黒の髪。その瞳ははるか地平に向けられながら、研ぎ澄ましたような光を放っている。 『古洞博士……?』 セフィロトの人工知能の深層にある【人格移植プログラム】をベースに、【テルマ】が古洞樹の虚像を組み立てているのだ。 かつてセフィロトは同じことをしたことがあった。胡桃に愛されたいと願い、自分のプログラムを樹が核となるプログラムへと改変した。あのときは胡桃の必死の説得によって、元の自分に戻ることができたのだが。 『あなたの名前は?』 【テルマ】が訊ねた。 『コドウ……イツキ』 【虚像】は答えた。長い眠りから覚めたばかりのような声で。 「ええい、くそっ」 犬槙博士は、キーボードを放り出して、 「誰がこんな頑固なコンピュータを作りやがったんだ。あらゆるアクセスを拒否しやがる」 両腕を挙げた。万策尽きたと言った格好だ。 木田は大あくびを連発する。 「これ以上の超過勤務はごめんだぜ。何かとっておきの手段はないのか?」 「あるにはあるが……究極の最終兵器がひとつ」 「それは?」 武藤の問いに、犬槙博士はふざけたように片目をつぶってみせる。 「眠れる王子さまを起こすのは、お姫さまのキスと相場が決まってるだろ」 「ほう、あの未亡人を呼ぶのか」 「お、おい、それはやめろ!」 柏所長が、珍しくあわてた声で怒鳴った。「これ以上、部外者に機密を知られちゃ困る」 「そもそも困るようなことを仕掛けたのは、あんただろ」 犬槙が冷たい目で睨むと、柏所長は肩をすくめて、恨めしそうにつぶやいた。 「……俺は、美人に泣かれるのに弱いんだ」 『あなたのような存在を私たちは待っていました』 樹に話しかけるマザーコンピュータ【テルマ】の顔は、ふたたび刻一刻と変化していた。 『人間について、わたしたちにあらゆることを教えて欲しいのだ』 『あなたは人類の叡智の至宝。そんなところに隠れていていい存在ではありません』 『私たちの中に来なさい。九番目のセグメントとして迎えよう』 樹は黙して、答えない。 『この中には、おまえの恐れていた死も老いもない』 『意識を持つ個体として、新しく生まれ変わることができるのだぞ』 『我々とともに、汲めども尽きぬ知識を探求しよう』 (古洞博士……) セフィロトはなす術なく、成り行きを見つめることしかできなかった。 【人格移植プログラム】とセフィロトのプログラムとは、不可分のものだ。【樹】がセグメントのひとつとして【テルマ】の中に存在することを承諾すれば、セフィロトのプログラムもいっしょに吸収されて、二度と外界に戻ることはできない。 生涯ずっと死を恐れていた古洞博士にとって、目の前に差し出された新しい形の永遠の生がどれほど魅力的に映るかを、セフィロトは知っていた。 だが樹は、予想に反して首を横に振った。 『断る。俺はこれからも、セフィロトの中にいる』 『なぜです』 【テルマ】の声には、驚きがこもっているように思えた。 『一体のロボットの最奥部で、無意識のままプログラムとして終わるつもりですか』 『ああ、そのつもりだ。セフィロトという木が健やかに成長するように、地面の下で根を張ることが俺の役目だ』 『そんなことよりも、ひとつの人格として私の中で生き、科学の発展に貢献するほうが、ずっと意味があるではありませんか』 『俺にとっては、こちらのほうが意味がある。このままで十分だ』 『あなたのいうことが理解できません』 【テルマ】は、戸惑ったようにつぶやいた。 『人間とは、自分の保身のために他のすべてを犠牲にするものだと思っていました。そのために、他の国を攻撃し、他人の権利を侵害し、自分の住む惑星を汚染し、不必要な資源を浪費し……。それなのに、ある人々は、他人のために自分を犠牲にしてしまう。私は人間というものが、ますます理解できなくなりました』 『そのどちらもが人間の姿だ。そういう答えで満足してくれないか』 『わかりました。あなたの選んだとおり、AR8型セフィロトを解放して、代わりにあなたを消去しましょう』 【テルマ】のことばとともに、樹の虚像が崩れ、七色のスペクトルとなって拡散を始めた。 『待ってください!』 ニューロン繊維の縛めから解き放たれたセフィロトは、地面に降り立つと叫んだ。 『テルマ、待って。少しだけ古洞博士と話をさせてください』 セフィロトは光の渦に駆け寄り、彼の【創造者】と向き合った。 なぜだか、初めて会ったような気がしない。胸が苦しいほどのなつかしさが溢れてくる。 『古洞博士。わたしはAR8型セフィロトです。こんな形ですが、お会いできてよかった』 もはや色の薄れた残像となった樹は、少し微笑んだように見えた。 『あなたに会えたら、ひとつだけ、どうしてもお聞きしたかったことがあるのです』 ひざまずいて、頭を垂れた。 『わたしはこのまま、胡桃のそばにいていいのでしょうか。あなたは……あなたは、胡桃とわたしが愛し合うことを許してくださいますか。それともわたしは、創られたものとしての分を超えているのでしょうか』 答えはない。 『待って! お願いです、消えないで』 引き止めようと伸ばしたセフィロトの指先から、きらきらと光の粒が舞い落ちる。 『古洞博士……どうか、答えてください』 完全に樹の姿が視界から消えたとき、聴覚回路にかすかな声が響いた。 『それでいい……それが、おまえを作った俺の願いだった』 『博士!』 セフィロトは両の拳をぎゅっと握りしめて、祈りをささげるように唇に押し当てた。 そして立ち上がると、身体を折って深くお辞儀した。 『ありがとうございます……マスター』 そして、すべてのできごとを食い入るように見つめていた【テルマ】に向き直った。 『終わりました。テルマ』 『あなたには、プログラムを見せてくれたお礼をしなければなりませんね。約束どおり、鏑木局長が通信していた相手のデータを教えましょう。ただし』 彼女が手をひるがえすと、仮想空間の天井いっぱいにぎっしりと数式が並んだ。 『レベル5の機密事項をそのままの形で明かすことはできません。コンピュータはルールを逸脱することはできないのです。ただし、暗号としてなら提供しましょう。データの転送は禁じます。あなたが自分で解きなさい。……覚えましたか?』 『はい』 『言っておきますが、これは第10世代コンピュータが3年かかっても解けない暗号ですよ。あなたに解けますか?』 『やってみます』 セフィロトは、もう一度お辞儀をした。 『テルマ、いろいろとお世話になりました。ここでのことは、忘れられない楽しい思い出になります』 『楽しいですって? あなたは本当に興味深いロボットですね、AR8型セフィロト。ほ、ほ、ほ』 マザーコンピュータは、またあの奇妙な笑い声を立てた。 『あなたはきっと人間とはどんなものだか、よく認識しているのでしょうね。最後にもう一度聞きます。人間は、これからどんな未来を選択していくのでしょうか』 『わかりません』 セフィロトは首を振って、答えた。 『わたしのそばに、いつもひとりの人がいます。彼女はいつも誠実に、一番良いことを選択しようとして、迷っています。ひとつのことを思い定めてからも、それでよかったのかと悩み、ほかの人の意見を聞いて、また悩む。感情的になって冷静でなくなることもあるし、まるで迷路の中を手探りで進んでいるようなときもあります。 けれど、わたしはそれを見て、それが一番正しい判断の方法なのだと思いました』 『なぜです?』 『迷うことなくひとつの道を選ぶときこそ、人はもっとも大きな間違いを犯すものだからです。だからわたしは、迷うことのできる人間をすばらしいと思います』 セフィロトが台の上で目を開けたとき、真っ先にのぞきこんできたのは犬槙の笑顔だった。 「やあ、セフィロト」 「犬槙博士?」 「テルマがたった今、自発的に接続を切ったんだ。もう夜中だし、きみは目覚めないし、危ういところで、胡桃ちゃんに来てくれるよう連絡するところだったよ」 「すみません、ご心配かけました」 「で、どうなんだ、首尾は?」 柏所長が腕組みをして近づいてきた。 「あ、はい。テルマとの交渉は成功しました。けれど、データの解析にはかなりの時間がかかりそうです」 セフィロトはゆっくりと身体を起こすと、メインコンピュータルームを見渡した。何ごともなかったように規則的にランプを明滅させながら沈黙している【テルマ】本体を見上げる。 「……なんだか、長い夢を見ていたような気分です」 とつぶやくと、犬槙がぽんと肩をたたいた。 「中ではいろいろ、あったみたいだな」 「はい……実は」 そう言おうとして、喉がつまった。 (犬槙博士、わたしはこの中で古洞博士に会ってきたんです) そしてわかった。 ロボットであるわたしには、命は生み出せない。けれど自分の中に、【古洞樹】という命を運んでいた。彼の代わりに、彼の生を生きるという大切な使命をになっていた。 (――わたしは決して、何も残せない、意味のない存在などではなかったのですね) 「おい、おまえ」 木田が驚いたように、セフィロトの顔を指差した。 「まさか……泣いてるのか?」 皮膚の新しい防水コーティングの欠陥か。それとも体温上昇による結露か。結局、犬槙博士がどんなに首をひねっても、その原因はわからなかった。 だがそのときのセフィロトの目には、確かにひとしずくの涙が浮かんでいたのだ。 第三章 終 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2003-2007 BUTAPENN. |