第4章 「誇りある生き方」(1)
BACK | TOP | HOME 「さ、もっと飲め」 「もう飲めませんてば」 【すずかけの家】から首都高速で二つ目の下町繁華街。【東都】の純和風の居酒屋に連れてこられたセフィロトは、檜造りのカウンターで体育の椎名先生と数学の小松先生に両方からはさまれ、逃げられずにいた。 「後輩のくせに、俺のおごりが飲めないのかあっ」 「これ以上飲んだら、食物用タンクの許容量を超えてしまいます。逆流しても知りませんよ」 「げ、人間で言えば吐くってことか。汚ねえ」 「汚くなんかありません。電気滅菌処理したタンクから戻るだけですから、もう一度飲むことだってできます」 「うえ。おまえは牛か」 「椎名。いいかげんに、セフィにからむのは止めろよ。いくらアタックしても、さくら先生が振り向いてくれないからって」 「うるせえ。俺の悩みはもっと高尚なことだ」 小松先生に図星を差されて、椎名先生は真っ赤な顔でカウンターに突っ伏した。 「あー。ときどき教師なんて、やってられねえと思うときがあるよ」 「ああ、俺も思うぞ」 「上と現場の考え方のあまりのギャップに愕然とする。俺たちは、機械部品をベルトコンベヤの流れ作業で作ってるんじゃないぞ、人間を育ててるんだぞと、教育省のお偉方に言ってやりたい」 「そのとおりだ。通達の電磁ディスク一枚寄こすだけで、毎年ころころ指導方針を変えるなと怒鳴り込んでやりたい」 ふたりはセフィロトをはさんで、酒飲み特有の抽象的で非生産的な会話を始めた。 「だいたい、俺はあの副園長も気に食わないんだ。正式赴任してまだ三ヶ月なのに、水木園長をさしおいて、我が物顔だ」 「ああ、現場を知らないエリート官僚に、何がわかる」 「セフィ、おまえもそう思うだろう?」 「え、わ、わたしですか?」 「おまえだって、栂野が大っ嫌いだろう? なんせロボットを親の仇みたいに思ってるヤツだから」 ふたりは返答を迫るように、ぎゅうぎゅう両側から押してくる。 「は、はい」 「嫌いなんだな」 「ええ……まあ」 彼らは、ひとりの聖人を地獄に引きずり落とした悪魔みたいにカラカラと笑い、ばんとセフィロトの背中を叩いた。 「それでこそ、俺たちの仲間だ。さあもっと飲め」 「だから、もう飲めませんって言ってるのに」 「逆流しそうなら、トイレで出して来い」 「はああ……」 セフィロトは、とんでもない「男の付き合い」という世界を見せつけられて、困惑しきっていた。 セフィロトが帰宅したのは、結局12時近くだった。 「遅い! 服が焼き鳥くさい! キスが酒くさい!」 彼の帰りを待ちながらプリプリ怒っていた私は、彼の顔を見たとたんに感情を爆発させた。 夫の樹は、友だち付き合いが少ない上に、お酒に関してまったくの下戸だったから、飲みに行ったことなど一度もない。こんな風に置いてきぼりにされることに、私は慣れていないのだ。 「すみません」 ツンケンする私に、セフィロトは神妙な調子で謝った。 「きっと、それ以上に悪臭を放っているのは、わたしの心だと思います」 「え、どういうこと?」 私はようやく、セフィロトがさっきから、ひどく落ち込んでいるのに気づいた。 「椎名先生や小松先生と、いったいどんな話をしてたの?」 「だいたいが、仕事の愚痴だったんです。最初は適当に相槌を打っていたんですけど、そのうちに【すずかけの家】の、ある先生の悪口になってしまって……」 ははあん。「ある先生」が誰のことかは、容易に想像がつく。 「で、セフィはその悪口にも、ふんふんって相槌を打ったわけね」 「どうして、わかるんですか」 「そりゃ、わかるわよ。お酒の席って相手の言うことに逆らえないもの。でもね、それだったら本心からの同意ってわけじゃないわ。別にいいじゃないの」 「まったく本心じゃないことだったら、良かったんですけど――」 「……ああ、なるほど」 「みんなで人の悪口を言って盛り上がるのはとても楽しいことだと、そのときは思いました。でも帰り道でひとりになって考えたとき、体のどこかがチクチクと痛いのです。楽しいと感じていた自分が、とても汚くてイヤになったのです」 セフィロトの心の発達は今、良心や罪悪感の問題に直面しているのだな、と思った。 人は、怒りや憎悪の勢いで悪に走るときもあるが、こうやって静かな悪意を心に育てながら、ほくそえむときもある。セフィロトの無垢で真っ白な心のページには、そんな一滴のシミでさえ大きなものとして映るのだろう。 「セフィ。私は昔、ニュージーランドで教会の日曜学校に通っていたの」 彼をソファに座らせると、私は彼の手を取って話し始めた。 「最初は英会話の練習のために通ってた。そこでは牧師さんが毎週説教をしてくれるのだけれど、必ず終わりにこうお話しなさるの。 『もし先週一週間、誰かとケンカをした人がいたら、すぐに走っていって、その人にあやまっていらっしゃい。もし、カゲで誰かの悪口を言ったり、心の中で悪く思った人は、今ここで神さまにあやまりましょう』って」 「キリスト教の神というのは、創造者のことですね」 「そうね。それからこうもおっしゃった、『次の一週間、悪口を言った相手を観察して、その人の良いところを見つけてきてください』」 「良いところを見つけるのですか?」 セフィロトはちょっと意外そうな顔をした。 「そう。一度試してみたら? 悪口を言った相手を一週間観察してみるの」 確かに、ロボットのセフィロトにとっては、ロボット嫌いの栂野副園長に良いところを見つけるのはむずかしいかもしれない。 でも、彼は本当は、尊敬できる人だと私は思っている。立場の違いに囚われずに、そのことをセフィロトも気づいてくれたらいいのだけれど。 犬槙博士は昼過ぎになってようやく起き出すと、顔も洗わない寝ぼけまなこで、ホームコンピュータの前に座った。 そして、眼鏡をあわててかけなおした。 一通のメールがポストに入っている。それには、こう書いてあった。 『わたしを創ってくださった方へ わたしはきのう、ある人の悪口を言ってしまいました。ごめんなさい。 セフィロト』 「なんだ、これは」 いくら頭をひねっても、犬槙にはその意味がわからなかった。 【国立・応用科学研究所】の庭の木々も、そぼ降る雨に打たれて頭を垂れている。 呼吸をしなくてすむセフィロトだったが、今日は何度となくため息をつくことを繰り返していた。 今日の柏所長からの呼び出しは、それほどに気が進まない。 あの最上階のだだっぴろい所長室に入ったとき、所長は案の定、その気の進まない話題を真っ先に切り出した。 「【テルマ】から得た情報の暗号解読はどうなってる」 「すみません」 どうにも答えようのない問いに、セフィロトはしぶしぶ答えた。「まだもう少し、時間がかかりそうです」 「もう少しとは、具体的には何時間だ、何日だ、何ヶ月だ」 「……検討がつきません」 ここまで来たら、認めざるを得ない。 【テルマの暗号】とは、一ヶ月前に応用研究所のコンピュータ【テルマ】の中に侵入したときに、彼女から渡された軍事クーデタ主謀者に関する情報だ。規則上どうしても、他人に情報を開示することができないマザーコンピュータは、特別に暗号の形でセフィロトに提供してくれたのだ。しかも、ほかには絶対に漏らさず、セフィロトだけで解読することを条件にして。 第10世代コンピュータで三年かかるという暗号は、確かに膨大な解析が必要だった。 この一ヶ月、自由になる時間のほとんどをその解析に費やしてきたセフィロトだったが、やはり彼ひとりの人工知能には荷が重過ぎる任務らしい。 「解析自体はほぼ九割終わっています。ただ、肝心のキーワードになることばが発見できません」 それさえ見つかれば、芋づる式にすべての暗号が解読できるはずなのだ。 「それなら、さっさと科学省の【レイチェル】に応援を頼めばいいじゃないか」 木田が、苛立った口調で言う。 「ですが、それだと【テルマ】との約束に反します。嘘をついたことになってしまいます」 「別に約束破ったって殺されることはないだろう」 「コンピュータのネットワーク全体に、もう二度と信用してもらえなくなります」 「機械には機械の仁義ってもんがあるんだろうよ。もう少し待ってやろうぜ」 武藤のフォローは、セフィロトの肩を持つというより、からかうような含みがあった。 「悔しいが俺たちは、おまえの解読を待つ以外に打つ手がないんだ」 柏は椅子からぐいと身を乗り出して、セフィロトの顔をにらみ上げた。 「おまえが人間なら、首をぎゅうぎゅう絞めても急かせるところだが、息をしてないロボットにそんなことをしても意味がない。ただ、できるだけ急いでくれ。このところ、どうもヤツらの動きがキナくさい。プンプン匂いやがる。何か大掛かりな動きを始める予感がするんだ」 「わかりました。どうもすみません」 セフィロトは少し惨めな気持で頭を下げた。 「ちょっと待て」 柏所長は、立ち去ろうとする彼の背に鋭い声を浴びせた。 「もし、今のおまえみたいな不景気なツラをした部下がいたら、ふんづかまえて飲みに連れていくところだ。いったいどうした?」 飲みに連れていかれるのはもうごめんだ、とセフィロトは心の中でつぶやきながら、柏に向き直った。声には相変わらず脅すような凄みがあったが、表情は意外にやさしい。 「今のわたしのツラは、そんなに不景気でしたか?」 「ああ、世界大恐慌並みのな。いったい何を考えていた?」 しばらく自分の考えを分析してから、答えた。 「人間にもなれないし、かと言ってコンピュータのような精巧な頭脳もない。ロボットというのはなんと中途半端な存在なのだろう。そう思って、自分がイヤになっていたんです」 「よく自分のことがわかってるじゃないか。ちっとは見直したぜ」 木田が、嘲るように言った。 「ロボットでいるのが嫌か。人間になりたいのか?」 まっすぐな視線を向けて訊ねてきた柏所長に、セフィロトは驚いたように目を見張った。 「いくら望んでも、ロボットは人間になることはできません」 「質問に答えてないぞ。おまえは人間になりたいのか」 セフィロトはうつむいて、少し唇を噛んだ。 「そうであったら、どんなにいいかと……思ったことはあります」 「ふん、やっぱりおまえはダメだな。たかが機械だ」 柏は、口元をゆがめて笑った。 「自分の存在を肯定できないようなヤツは、他人を肯定することはできない。おまえには、あの未亡人に惚れる資格なんかないよ」 「え……?」 「自分に変えられることは変えてみせろ、変えられないことは受け入れろ、と言ったのは確か、ラインハルト・ニーバーだ。ロボットなら、人間の真似なんてしないで、ロボットであることを誇りにして生きてみろ」 柏のことばは、天地がひっくり返るほどの衝撃だった。 所長室を辞したあと、セフィロトは平衡機能が壊れたかと思うくらい、ふらふらしていた。 人間の真似などしないで? ロボットであることを誇りにして生きる? わたしは今までロボットであることを隠しながら、少しでも人間に近づこうと努力してきたのに。 それでは、ダメなのか。それでは、胡桃を好きになる資格がないと言うのか。 ようやく落ち着いて、D号棟を出て歩き始めたセフィロトの後ろから、「AR8型セフィロト」と呼ぶ女性の高い声がした。 振り返ると、ジョアン・ローレル工学博士が微笑みながら近づいてきて、傘を彼に差しかけた。 「ずぶ濡れになるわよ。いくらカイトご自慢の防水コーティングを施したからって」 「ありがとうございます。ローレル博士」 「ちょうどよかったわ」 ジョアンは彼の腕を取ると、有無を言わせず、さっき出てきたばかりのD号棟に引き戻した。 「ずっとあなたと話がしたいと思っていたの。少し付き合ってくれる?」 ジョアンの研究室は、「犬槙・古洞ロボット工学研究室」のほぼ反対側に当たるD号棟の12階Eブロックにあった。 コンピュータや作業台の配置などは、ほぼ犬槙の研究室と同じ造りだが、違うのは、このうえなく清潔で整っていることだった。 部屋に入って、その感想を率直に述べると、ジョアンは長い金髪を揺らして大笑いした。 「相変わらずだわね、カイトも。私と最初に出会った19歳のときから、ひどい散らかし屋さんだったわ」 その言葉のはしばしには、犬槙とケンカをしているときとは全く違う優しさがあって、愛情すらこもっているようにセフィロトには思えた。それが男女の愛情かどうかは、わからなかったけれども。 「シーダは?」 「今日は、ちょっと使いにやってるの。だから、この部屋には私たちふたりだけ」 ジョアンの青い瞳に、いたずらを思いついた子どものような光が宿った。 「座って」 言われたとおりに座ると、彼女は立ち上がってセフィロトの膝を椅子代わりにした。 そして、いきなりキスを落としてきた。 予想をはるかに超えた展開に、セフィロトは身動きすらできない。ジョアンはふたたび立ち上がり、手を唇に当てて微笑んだ。 「悪くないわね。イツキのキスの味にそっくりだわ」 「……」 「ふふ、嘘よ。私はイツキとキスなんかしたことないもの」 なおも、いたずらっぽい眼差しでセフィロトを観察し続ける。 「クルミとあなたは、いつもこうやってるわけね。セックスもするの?」 「い、いえ、わたしには性的機能はありませんから」 「あら、残念。試してみようかと思ってたのに」 このうえない冗談を言ったように笑うジョアンを見つめながら、セフィロトは、今から彼女が話そうとしていることへの漠然とした不安が、胸に満ちるのを感じていた。 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2003-2007 BUTAPENN. |