第4章 「誇りある生き方」(2)                   BACK | TOP | HOME




 先ほどまでの悪ふざけが嘘のように、ジョアン・ローレル博士は少し憂いを帯びた美しい横顔をセフィロトに見せたまま、じっと思いに耽ってしまった。
「ジョアンって、いつも人前で見せている姿とは違って、本当は繊細な女性なのよ」
 胡桃はいつか、そう言っていたが、今セフィロトも同じことを感じた。ひどく孤独で、ひどく頼りなげで、自分を支えるのがやっとに見える。
 シーダは、自分のマスターがそういう状態にあることに気づいているのだろうかと、ふと思った。
「ローレル博士。息子さんと離れて暮らして、寂しくはありませんか?」
 訊いたあとで、すぐに後悔した。彼女はたちまち、強さの仮面をまとってしまったからだ。
「なぜ、あなたがそんなことを心配しなきゃならないの?」
「いいえ、ただ、博士が日本に来られてもう二ヶ月になります。わたしは、休暇で【すずかけの家】の子どもたちと三日会わないだけで、会いたくてたまらなくなるので」
「それは、執着行動ね。愛情ではないわ」
 ジョアンは含み笑った。「別れの準備をしておかなくては、自分がつらいわよ」
「どういうことですか」
「考えてごらんなさい、自分の耐久年数を。あなたが今知っている人間はあと百年もすれば、すべて死に絶えてしまうわ。私もカイトも、あなたが愛するクルミも含めて、ね」
「それは――わかっています」
「少し離れることさえ苦痛と感じるような関係を育ててしまったら、あなたはひとりぼっちになったときに、自分を呪うに違いないわね」
 ジョアンは無感情な視線を彼にじっと注いだ。
「悪いことは言わないわ。今のうちにプログラムを書き換えなさい。何にも執着しないように。失って恐いものなど、作ってはダメよ」
「ローレル博士」
 セフィロトはジョアンの青い瞳の奥に、凍えるような塊を見た。
 この冷たさと絶望を、彼はよく知っていた。それは、胡桃に出会う前の古洞樹博士の心にあったものと同じだったのだ。
「そうやって誰も愛さないように心を閉じてみても、同じなのではありませんか。結局最後に自分を呪うようになるのは」
 ジョアンは、きっと眉を逆立てた。しかし、すぐに元の小ばかにしたような表情に戻った。
「驚いたわ、あなたの今の思考はロボットのものじゃないわね。それがイツキの作った人格移植プログラムっていうやつ? お願い、脳波信号を一度トレースさせてくれない?」
「犬槙博士の許可がなければ、お断りします」
 ジョアンは立ち上がって、ゆっくりと研究室内を歩き回った。少し所在なげな仕草だ。
 そして、言った。
「私もね、かつてはあなたのようなロボットを作りたいと思っていたわ。人間の心をわかってくれる、限りなく人間に似せたロボットをね。そして、19のとき、私と同じ理想を持つ男と恋に落ちたわ。彼はイツキやカイトにまさるとも劣らない天才だった。ダグと言って――ああ、名前なんてどうでもいいの――、私が行っていた大学付属の研究センターに所属していた」
 口から、フッとしのび笑いが漏れる。
「毎日、彼と寝食をともにしてロボットの研究にのめりこんだ。私たちにとって、愛し合うこととロボットを作ることは、ひとつのことだった。試作ロボットの基礎データを取るかたわらで、何度も何度もキスをしたわ」
 ジョアンは、喉にできた何かのかたまりを、苦労して飲み込んだ。
「その結晶が、SR11型。シーダのひとつ前の自律改革タイプで、とても可愛いヒューマノイドだった。彼女はよく笑い、よく泣き、あらゆることに細かい気遣いを見せて、私たちの素晴らしいパートナーになってくれたわ。ダグと私は二年間、自分の子どものように彼女を愛した。――やがて、私たちに本当の子ども、フィルが生まれるまでは」
 次のことばを吐き出すまでに、かなり長い間ジョアンは天井を仰いでいた。
「ダグも私も、人間の子どもがこんなに手がかかるとは知らなかった。毎日朝から晩までフィルの世話に明け暮れたわ。そして本当に彼は可愛かった。SR11型がどんな状態でいるか、目を配るゆとりはなかったの」
 セフィロトは全身を緊張させて、ジョアンの口から出る恐ろしいことばを待った。
「ある日、私たちが子ども部屋に入ったとき、SR11型がフィルの首を持ち、宙吊りにしようとしているのを見た。あの子は嫉妬したの。私たちの愛情が自分からフィルに移ったと感じてしまったの。私たちはそれほどまでに、ロボットに精巧な心を与えてしまった……。
ダグは、止めようとしたわ。SR11型にむしゃぶりつき、反対に頭を打ち砕かれ、死んだ。翌日、あの子は研究センターで極秘のうちに廃棄処分にされ、ダグは事故死と発表された」
「どうしてですか。だって」
 セフィロトはたまらなくなって、叫んだ。「だって、すべてのロボットには暴力を禁忌とするプログラムが――」
「あの子には、それはなかった。高度な心の発達に、そんなものは妨げになると私たちは考えたの」
「そんなことは、ありえません。禁忌プログラムのチップが組み込まれていなければ、国際ロボット統括機構の発行したライセンスが受けられず、ネットワークにアクセスしたときに強制停止コマンドがかけられてしまいます」
「だから、ダグは天才だったと言ったでしょう」
 ジョアンは意味ありげな微笑みを浮かべた。「あの子には、強制停止コマンドは効かなかったの」
「そんな……」
 セフィロトは、力を失って椅子に崩れ落ちた。
「だからね。AR8型セフィロト。私はもう二度と、あなたのようなロボットは作らない。SR12型シーダをあの子のようにはさせない。ロボットは人間のサーバントでいいの。人間と同じ心を持つべきじゃないのよ」


 今年の関東地方はいつもより早い梅雨入りで、このところずっと雨が降り続いている。
 【すずかけの家】でも子どもたちは園庭に出られず、朝から部屋遊びばかりしていた。
 暇をもてあました6歳クラスにせがまれて、セフィロトは八人全員を散歩に連れて行くことになった。人工皮膚の防水コーティングのおかげで、ちょっと前まではしたくてもできなかった雨の日の外歩きができるようになったのだ。
 みんな思い思いに合羽や傘を装備して、森に出かけた。
 明け方まで激しかった降りが、今はしとしとと柔らかい雨に変わっている。
「小鳥たちって、雨の日はどこにいるのかなあ」
 ずっとメジロの観察を続けているルカちゃんが、空を見上げながら言った。
 灰色の天から落ちてくるしずくは、時折止まったように見える。セフィロトは子どもたちといっしょに、傘の下から腕をのばして、雨を受け止めた。小さいが確かな重みが手のひらに当たって、くぼみに集まってくる。
 森の落ち葉を靴で踏みしめると、じくっと水が染み出てきた。この水を含んだ層が、地面とその下の木々の根を優しく包むのだろう。
 森を一回りしたあと、園庭の隅の自然菜園で、黒い合羽を着込んだ栂野教諭がしゃがみこんでいるのが見えた。
 あの人には近づきたくない。そんな冷えた感情を抱いて校舎に戻ろうとしたとき、セフィロトは胡桃のことばを思い出して立ち止まった。
『相手を観察して、その人の良いところを見つけてくるのよ』
 子どもたちの手を引いて方向を変え、菜園に歩み寄った。
「なにをしていらっしゃるのですか。副園長先生」
 訊ねると、栂野先生は休まずに土の上で手を動かしながら、答えた。
「稲わらの具合を見ているんですよ」
「稲わら?」
「ナスやキュウリのうねの下に敷きます。そうすると葉に土ハネもしないし、直射日光による温度の上昇を防ぐこともできるのです。梅雨に入ってすぐに敷いておいたのですが、ゆうべの風と雨でだいぶ散らばってしまったようです」
 栂野は、細かくちぎったわらを地面の上で丁寧に均しているのだった。
 知識のない人が見たら、ただのゴミのように見えるだろう。そんな小さなものが、野菜を病気や乾燥から守っているのだという。
 さきほどの森の落ち葉もそうだ。もう命を失った腐りかけの落ち葉が、大地を豊かに潤している。もし掃除ロボットがいたら、散らばってしまった稲わらや落ち葉など、要らないと判断してきれいに掃いてしまうだろう。
 セフィロトは、胸がきゅっとつまるような思いに駆られた。
「先生。僕も手伝う」
 カナイくんが副園長の隣にしゃがみこんで、自分もせっせとわらを敷き始めた。
「わたしも」
 他の子どもも加わった。
「ありがとう、みんな。助かります」
 栂野先生は太い眉を思い切り下げて、にっこり笑った。その笑顔を見て、セフィロトは自分の心の中に、静かな雨のように何かが降り積もるのを感じた。
「副園長先生。あの……」
 昼休みが終わり、藤棚の下のベランダに、濡れた合羽や傘をそれぞれ干して、子どもたちが中に入ってしまったあと、セフィロトは栂野の背中に呼びかけた。
「なんでしょう」
「今日、お話を聞いて――わたしは自分が間違っていたと思いました」
「どういうことです?」
「子どもたちがああやって自分の手で土に触れながら、全身で自然を感じていくことはとても大切です。掃除ロボットが必要ないとおっしゃる考え方に、わたしは今まで反対でした。でも――」
 彼はきゅっと唇をかみしめた。
「今日、先生のお考えがわかったような気がします。失礼なことを言って、申し訳ありませんでした」
 セフィロトは深く深く、頭を下げた。
「そうですか」
 栂野はひとこと、ぽつりと答えただけだった。


 栂野教諭は藤棚のベンチで頭を抱えて座っていた。
「どうなさったんですか」
 私が近づいていくと、彼は弱りきったという顔を上げて、苦笑いをこぼした。
「セフィ先生には、まいりました。どうしてあの方は、ああいうことが平気で言えるんでしょう」
「え?」
「わたくしは今までの人生を教育省の官僚として、ことばの裏の裏まで読む世界に生きてきました。だから、他人を心から信じないように努めてきたし、どんなに美しいことばを聞いても、偽善としか捉えられなかった。そんな自分に絶望して、ここに逃げてきました。でも――でも、セフィ先生のことばには、まったく裏がないのです。わたくしはいったい彼にどう接したらよいか、わかりません」
 私は、栂野先生の言うことが理解できるような気がした。私もセフィロトと接するときに、いつも自分の心の醜さを知らされてきたから。
「先生。私はこの世の中に醜さが存在するのは、意味あることだと思うんです」
「なぜですか?」
「だって、醜さがなければ、美しいものの素晴らしさはわからなかったでしょう。自分自身が汚れているからこそ、美しいものにあこがれるのが人間なのではないでしょうか」
「……」
「セフィは、自分の心に生まれた醜い感情に気づきました。そして、そのことをとても悲しみました。だからこそ、セフィの話すことばは掛け値なしに美しいのだと思います」
「古洞先生、あなたは――」
 栂野先生は、何度も言いよどんで、それから言った。
「あなたは、セフィ先生を心から愛しておられるのですね?」
「はい」
 私は、迷いなくうなずいた。「愛しています。時が来たら結婚することを考えています」
「そうですか……」
 彼は藤棚からゆっくり落ちる水滴を見つめながら、目をしばたいた。
「おっしゃってくださってよかった。わたくしも、これで迷いがふっきれました」




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