第4章 「誇りある生き方」(3)                   BACK | TOP | HOME




「セフィ先生、今晩ちょっと付き合ってくださいませんか」
 勤務が終わったとき、栂野教諭は有無を言わせぬ口調で、セフィロトをドライブに誘った。
 首都高速を一時間ほど走ると、ランプを降り、車はうねうねとした山間の道路を走り始めた。
 サマータイムで空はまだまだ明るいとは言え、鬱蒼と茂る木々に頭上をおおわれた細い道には、すでに闇が這いよっている。
 胡桃は昨日、セフィロトと結婚するつもりであることを、栂野に打ち明けたらしい。
(まさか山奥で車から降り、「森を散歩しませんか」と誘われて、セラミックバットで後ろから殴られ、埋められる、なんてことにはならないでしょうね)
 このごろ刑事ドラマを見すぎのセフィロトは、助手席でついあれこれ想像をたくましくしてしまう。
 車はやがて、前触れなく山道の路肩に停止した。
「ここから少し、森を散歩しませんか」
「ひ〜っ」
「え、どうしました?」
「あ、いえ。何でもありません」
 セフィロトは先導する栂野教諭の五メートルくらい後ろについて、へっぴり腰で歩いた。
「すみません。歩きにくい山道を歩かせてしまって。自動車でぐるりと県道を回るより、こっちのほうが近道なんですよ」
 栂野が指差した森の切れ目の向こうには、病院のような数棟の建物があった。
 夕日に照らされた丘をゆっくりと登っていくと、からからと芝生を刈る軽やかな音が聞こえてきた。
「あっ――」
 老人たちが散策している庭で、きびきびと水やりと芝刈りをしているのは、まぎれもなく、【すずかけの家】で廃棄処分になったCCL2型掃除ロボットではないか。
 思わずセフィロトが栂野先生の横顔を見ると、彼は照れ隠しに無理に渋い表情をした。
「ここは、わたくしの先輩が勤めている医療法人経営の、高齢者用ケアホームでしてね。プログラム更新費用をあちら側で持ってもらうという条件で、譲渡しました。なあに、どうせ天下り用の医療法人ですから、それくらい負担してもらって、ちょうどいいんです」
「じゃあ……CCL2型は、ずっとここで働けるんですか?」
「そういうことです。100人以上の施設ですから、掃除ロボットも【すずかけの家】よりずっと働き甲斐があるでしょう」
「……」
「誤解しないでください。別にロボットが可哀そうとか、そういうことではありません。使えるものをむやみに廃棄処分にするのは、子どもたちの環境教育上も良くないことですからね。この施設にリサイクルされたことは、いずれ園の朝礼で発表するつもりでした。その前にまず、あなたにお知らせしておこうと思って」
 夏の夕風に乗って、CCL2型の元気な声が聞こえてくる。
「気ヲ、ツケテクダサイ。ソコヲ歩クト、刈ッタバカリの芝ガ、ぱじゃまニ、クッツイテ、シマイマスヨ」
「ああ、なんでしたら、【すずかけの家】の子どもたちと、ケアホームの高齢者との交流会を考えてもいいかもしれませんね。セフィ先生。プランを立ててくださいますか?」
「副園長先生――」
 セフィロトは、栂野教諭の首に両手を回して抱きついた。


 東京ベイの海は、梅雨の合間の陽光に照り映えてキラキラ光っている。
 私とセフィロトは、休日と晴れ間が重なった幸運にじっとしていられなくなって、戸外に出た。
 近所とは言え、ベイエリアの公園を散策するのは本当に久しぶりだった。それほどに私たちは、新年度の行事に長いあいだ忙殺されていたのだ。
 私たちは、強い陽射しを和らげてくれるユリノキの樹陰を選んで、芝生の上をゆっくりと歩いた。チョウチョに似た大きな葉に濾過され、透明な木漏れ日が震えるようにまたたいている。
「あ、桑田さんだ」
 私よりずっと視力がいいセフィロトが、遠くから歩いて来る二人連れを見つけて、走り出した。
 元・F1エンジニアだったという桑田さんは、去年の秋に奥さまを亡くされてからは、介護ロボットのCA4型キヨとふたりで仲良く暮らしている。
 声のとても大きな人で、しょっちゅうキヨを大きな声で叱り飛ばしているが、キヨは平気でお世話をしている。ちょうど奥さまが、怒鳴られてもいつもニコニコとしていらしたのと同じだ。
「桑田さん、こんにちは。お元気でしたか」
 駆け寄って挨拶すると、桑田さんはポカンとした表情で、皺がれた声で答えた。
「おや、どちらさんでしたかな」
 セフィロトは、数秒のあいだ絶句した。
「わたしはご近所に住んでいるセフィです。もうずいぶんお会いしていないですけど」
「それはそれは、お世話になります」
 のんびりとした口調で、桑田さんは頭を下げた。そしてキヨに手を取られて、ひょこひょこと、おぼつかない歩みを始めた。
「わたしのことを、お忘れになったのでしょうか……」
 その後姿を、セフィロトは茫然と見送っている。
「まさかそんな。本当にいったい、どうなさったのかしら」
 私にも、訳がわからない。だって、足取りから何から、今までせかせかと動いてらした桑田さんとは、あまりにも違いすぎる。別人と会ったようだ。
 そのとき、私の耳に桑田さんとキヨの会話が聞こえてきた。
「段差ガ、アリマス。危ナイデス」
「どうもご親切に。あなたはどなたです」
「ワタシハ、きよデスヨ」
 あまりのことに立ち尽くしている私たちに、公務員の制服姿をした中年男性が近づいてきた。
「あの、失礼ですが」
 彼はひょいとお辞儀して、IDカードを差し出した。「わたしは、区の介護課の丘野と申しますが、よかったらお話を聞かせていただきたいのですが。あなたがたは今の男性と、どういうお知り合いですか」
「私たちはこのエリアの住人で、古洞といいます」
 私は、同じようにIDカードを見せて、自己紹介した。
「去年から、ここでときどき桑田さんと会って、お話ししたり、お弁当をいっしょに食べたりしていました」
「そうでしたか」
「いったい桑田さんは、どうなさったんですか?」
「今から二ヶ月ほど前、脳卒中の大きな発作を起こされましてね」
 介護課の職員は、桑田さんの少し曲がった背中を見つめながら、言った。
「残念ながら発見が遅れて、病院に通報があったときは発作から24時間以上が経過していました。以前から、区の提供する健康診断をことごとく拒否なさる方でして、発作前もかなり身体の不調があったはずなのですが、じっと我慢なさっていたのでしょう」
 セフィロトと私は、声もなかった。
「ご存じのように発作から数時間以内に治療を受ければ、後遺症の残ることはほとんどありません。だが、桑田さんのようにいったん手遅れになってしまうと、完全に壊死してしまった脳細胞を生き返らせることは、今の医学でも不可能なのです」
 静かだが、少し悔しそうな口ぶりだった。
「桑田さんには認知障害と身体障害が残りました。特に認知障害は重篤で、若いときのこと以外は忘れておられ、数分前のことも覚えていません。介護課としては、ケアホームに入所が必要かどうか検討中です。こうやって観察しているのですが、すべてを忘れた今のほうが、かえって穏やかな生活をなさっておられるように見えるのが不思議です。皮肉なことですが」
 丘野さんは、一礼すると去っていかれた。
「もっと、気をつけていればよかった……」
 セフィロトが力なく言った声を聞いて、私は胸がつまり、涙が堰を切るのを感じた。
 仕事が忙しかったのにかまけて、桑田さんに声をかけることをすっかり忘れていた。
 三ヶ月前までは、あれほどお元気だったのに。今は声にも張りを失い、まるで桑田さんではなくなってしまった。
 年を取るということは、なんと哀しいのだろう。人は年老いて、名誉も功績も、積み上げてきた努力も、取っておきたい記憶さえ、なにもかも失って死んでいく。
「私も……もしかして、ああなるのかもしれない。セフィのことも忘れて」
 老いていくのが、恐い。いつかセフィロトを置いて、私も死ななければならないのだ。樹が私を置いて死ななければならなかったように。樹はどれほど老いを恐れ、どれほど死にたくないと願ったのだろう。
 桑田さんとキヨは、円形広場の街路樹の下を、ぐるりと歩いて戻ってきた。ふたたび、彼らの会話が聞こえてくる。
「今度ハ、コッチヲ歩キマスヨ」
「ええと、あなたはどなたさん?」
「ワタシノ名前ハ、きよデス」
 たまらなくなって、私は顔を両手で覆った。
 セフィロトは、横でぽつりとつぶやいた。
「キヨはすごいです。もしわたしなら、胡桃に何度も『あなたは誰』と訊かれたら、怒ってしまうでしょう。絶望して、黙りこむかもしれない。でも、キヨはそうではありません。辛抱強く、訊かれるたびに、自分の名前を教えてあげている。決してあきらめない」
 そのことばにハッとして、私は顔を上げた。
「単純なプログラムだから、できることなのかもしれません。でも、それでいいのだと思います。人を愛することは、本当はとても単純なことなのですね。何度絶望しても、あきらめない。それだけで、よいのですね」
 木漏れ日の中を、桑田さんとキヨの背中が、ひょこひょこ小さくなっていく。
 こうやって歩行訓練をして衰えた機能の回復をしているのだろう。桑田さんにはまだ、良くなる望みがあるのかもしれない。
「わたしは、キヨと同じロボットであることを、誇りに思います」
「セフィ」
 セフィロトはにっこり笑って、手を差し出した。私はその手を握り返した。
「桑田さんとキヨが、ずっといっしょに暮らしていけるといいです」
「ええ、介護課の人も、きっとそう思っておられるわ」
「わたしも、何があってもずっと胡桃のそばにいます」
「私がどんなにヨボヨボになって、皺だらけになって、あなたの名前を忘れても?」
「そのたびに、ちゃんと教えますから。あきらめません、何十回でも何百回でも」
 私たちは並んだまま、何度も指をからみ合わせた。






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