第5章 「昨日と明日のはざまで」(3)             BACK | TOP | HOME




 私が帰宅したとき、テーブルの上には、すでに豪華な夕食が整えられていた。
「おかえりなさい」
 セフィロトは、楽しげに皿を並べている。「すごいでしょう」
「今日は、何かの記念日だった?」
「いえ。そういうわけでは。ただ、今日はすごく気分がいいんです。何もない日にこうやって楽しむのも、たまにはいいものでしょう」
 今朝、私が出かけるときはあれほど落ち込んでいたセフィロトが、見違えるように明るくなっている。
 あまりの変わりように、私は首をひねった。
「今日、どこかに行ったの?」
「さあ、どうだったでしょう。忘れました」
 セフィロトは私を抱きしめて、軽いキスをすると、くるりと私の身体を向こうに向けた。
「早くお風呂に入ってきてください。オーブンに入っているローストビーフが、ちょうどその頃には焼けていますから」
「え、あ、うん。待って。先にメールだけチェックしてしまうから」
 私は、【エリイ】の元に行った。
「メールお願い」と言うと、【エリイ】は待ち構えていたように、画面を表示する。
「あら。セフィ宛にメールが来てるわよ」
「誰からですか?」
「それが、よくわからないの……変ね。いたずらメールではないみたいだし。
『柏所長が戻ってきた』
何これ? 文章はこれだけ」
 それを聞いたとたん、セフィロトは笑顔を消した。
「……胡桃。すみません」
「え?」
「急に出かけなければならない用事ができました」
「柏さんのところ?」
「はい。すぐに戻りますから。先に食べておいてください」
「いいわよ、少しなら待ってるわ。いっしょに食べましょう」
「すみません」
 セフィロトは、また屈託ない微笑を取り戻した。
「そうだ。明日は胡桃も休みでしょう。久しぶりに映画でも行きませんか?」
「いいけど……」
 私は、口ごもった。
「セフィは、あの……もう平気なの?」
「なにがです?」
「【すずかけの家】のこと……」
「ああ、そんなこと、ですか」
 彼はクスクスと笑い出した。「もうとっくに忘れました。じゃあ、行ってきます」
 私は戸惑いながら、彼の後姿を見送った。
 彼は、いつものセフィロトではない。
 いつもと違う。あまりにも、違いすぎる。


 30分ほどして、ソファの上でひとりで悶々と考え込んでいると、チャイムの音が聞こえた。
 インターフォンの向こうの人影を見て、驚愕する。
 SR12型シーダ。ジョアンの作ったロボットだ。
「どうしたの、シーダ。ジョアンといっしょじゃないの? ひとり?」
「AR8型セフィロトは、いますか」
「ああ。今、出かけてるの」
 シーダはしばらく、押し黙った。
「とにかく、入って」
 私はドアを開け、上がってきた彼女を招じ入れた。
「胡桃さん」
 そのときのシーダの顔は、感情筋がないとは思えないほど、深い悲しみの色をたたえていた。
「セフィに何か用事だったの?」
 ソファに座るように勧めたが、彼女は頑なに首を振った。
「胡桃さんに、お話ししたいことがあります」
「なにかしら」
「ローレル博士が来日した、本当の目的についてです」
 本当の? 目的?
「日米共同プロジェクトのためではなかったの?」
「それは、表向きの理由です。博士は脅されて、日本に連れて来られたのです」
「……誰に?」
「チャイニーズ・マフィアのある組織にです。博士の息子のフィルが、半年前から彼らに人質にされています」
「なんですって?」
「人質、といっても、フィル自身は何も知りません。中等学校の寮で元気に暮らしています。ただ、母親であるローレル博士は、彼に会う自由も話をする自由もありません」
「なんてこと……」
 私は、口の奥でうめいた。ジョアンにまとわりつく暗い影、人に心を許さない冷たさは、そこから生じていたのか。
「組織の連中は、博士に研究を完成させるように命じました。そしてそれが完成すると、日本へ行くように仕向けました。博士が拒否すると、フィルを殺すと脅しました。博士は仕方なく、彼らの命令に従っています。決して本心ではないのです」
「シーダ」
 しばらく身じろぎもしなかった私たちふたりは、ようやく互いの顔を見合わせた。
「こうして私のところに来たのは、ジョアンの命令?」
「いいえ、わたしの勝手な行動です」
 彼女は、このうえなく恥じ入っているように、うなだれた。
「わたしは、どうすればよいかわからなかったのです。ロボットとしてのわたしに課せられた務めは、マスターであるローレル博士を守ること。博士とフィルを守ること。それ以外の選択はありえませんでした。でも……」
「でも?」
「セフィロトがわたしに教えてくれたことが、思考回路から消えませんでした。
『いつも【なにかをしたい】という気持ちにしたがって、自分の行動を決めてきた』
そうセフィロトは言いました。わたしは自分にずっと問いかけています。『わたしは【何がしたい】のだろう』と。
わたしは、博士に悪い組織に味方をしてほしくない。悪いことをしてほしくない。セフィロトに殺人など犯してほしくない。――だから、ここに来て、すべてを話したいと思いました」
「待って、シーダ」
 私は、あえいだ。「セフィロトが……なんですって?」
「ローレル博士は今日、組織に命じられて、セフィロトの人工知能から禁忌チップを取り除きました。博士が作ったチップと交換したのです。それには暴力に対する禁忌はありません。代わりに、強制プログラムを組み込んであります。『柏所長を殺せ』という……」
 私は、小さく悲鳴をあげた。
「セフィはたった今……柏所長のもとに出かけた……!」
 シーダがつぶやいた。「遅かった」
 私は、【エリイ】に飛びついた。
 犬槙さんに連絡することが、たったひとつ今の私に思いついたことだった。


 セフィロトは、男たちの荒い息に取り囲まれていた。
 血の匂いがする。木田が鼻血を出しているのだろう。
 武藤は、光線銃のエネルギーパックを装填しなおし、ふたたび銃口をセフィロトに向けた。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。
 セフィロトは人工知能の隅でそう考えながら、静かに立っている。
「お願いです。柏所長。よけようとしないでください。余計に苦しませてしまいます」
 そう言っている自分の声も、まるで誰かのセリフのようだ。いつか、そんなことを言う犯人が出てくる刑事ドラマを見たかもしれない。
「ばかやろ。殺されるってときに、よけねえヤツが、どこの世界にいる」
 柏所長は、デスクの向こう側に身を屈め、体力を温存している。もうすでに、利き腕の左腕は骨にひびが入っているはずだ。
「おい、教えてくれよ、セフィロト。いったい誰にそんなプログラムを仕込まれた」
「わかりません」
 ほんとうに、セフィロトにはわからなかった。いったいどうしてこんな状態になっているのか、何も覚えていない。
 すべてを忘れられれば楽になると思っていたのに、そんなのはウソだった。あるのは、ただ不条理に対する恐怖だけ。
 武藤と木田が一斉に銃を放ってきた。
 難なくかわすと、そのまま踏み込んで、机を飛び越える。瞬時にして、柏所長の首筋をつかむと、ぐいと持ち上げた。
 誰かが赤ちゃんのフィルを、こうやって殺そうとしたんだっけ。そうだ。確か、あれはシーダの前身、SR11型。
 武藤が撃った光線銃が、セフィロトの背中に当たった。
 衝撃で、少し前によろけそうになったのを見逃さず、柏所長が身体をひねって、彼のわき腹を蹴り上げた。
 セフィロトの手から逃れた柏は、机の上でごろりと一回転して、反対側に身を隠した。
「このタコ。よく見て撃て。こいつがよけたら、今のは俺に当たってたろう」
 武藤に向かって怒鳴っている。
 セフィロトはその身体をもう一度捕らえようと、机の上に飛び乗った。
 すかさず、木田が狙って撃ってくる。
 巨大な樫の机が、瞬時にして真っ黒に焦げた。人間なら今の一撃で死んでいるだろう。
 ふたたびの静寂。ふたつの銃口にぴったりと狙いを定められたセフィロトは、机の上に片膝をついたまま動きを止めた。
「信じかけてたのに。やっぱりロボットなんか、信じるもんじゃない」
 悔しげに、木田がつぶやく声がした。
「なるほど、これでようやく奴らの狙いがつかめたよ」
 柏は机の陰から這い出しながら、ひきしぼった声をあげた。
「暴力禁忌プログラムの改造か。おまえの今の状態が、日本中のロボットに及ぶということなんだな」
「はい。そのとおりです」
 セフィロトは、無感動に答えた。
「わたしは、禁忌チップそのものを交換されましたが、単純な人工知能を持つロボットなら、プログラムはもっと簡単に改ざんできます。コンピュータ・ネットワークから強制コマンドを発信するだけでいい。国防省の【シリル】がまず乗っ取られ、【シリル】を通して全ネットワークに、ロボットの禁忌解除の強制コマンドを発信する。それが、今回のクーデタ計画の全貌です」
「ありがとよ。セフィロト。もし俺が生き残れたら、おまえに勲章を授与してもらうように頼んでやるよ」
「それは、無理だと思います」
 セフィロトは、足元の焦げた机を両手でぐっと掴んだ。机は一瞬でばらばらに壊れ、その木片の乱舞する中、ふたたび柏に飛びかかろうとする。
 三つ目の影が、彼の進路を阻んだ。
「……っ!」
 長身の白衣の男が、柏の前に立ちはだかって、両腕を広げた。
「こいつを殺すなら、まず俺からやれ」
「犬槙博士……」
「いけすかない奴だが、こんな奴でもおまえに殺されるのを見るくらいなら、自分が殺されるほうがマシだ。無事にあの世に着いたら、樹に二、三発殴られてくるよ」
「あなたを殺すなんて、そんな……」
「【被造物】が手を汚すことほど、【創造者】を苦しめる行為はないんだぜ。セフィロト」
「……すみません」
 セフィロトは、悲しげにうなだれた。
「おまえは、なぜ心に巣食う怪物と戦おうとしない」
「できません。この強制プログラムは解除不能です」
「胡桃ちゃんからの伝言を伝える。たったひとことだ。――『あなたなら、できる』」
 セフィロトはハッと顔を上げた。
 彼がまだ造られて間もない頃、科学省の監査を受けたことがあった。混乱して何も答えられない彼に、胡桃はキスして、言ったのだ。『あなたなら、できる』と。
「落ち着いて、考えてみろ。おまえは、自律改革型ロボットだ。書き換えられないプログラムなどない」
「これだけは……ローレル博士が作ったこの改造チップだけは、書き換えは無理です」
「ジョアンだと……?」
 犬槙の眼鏡の奥の瞳が一瞬、驚愕に見開かれた。
「本当は、人を殺したくなんか、ない」
 セフィロトの手が、ぶるぶると震える。
「でも、わたしは柏所長を殺さなければならないんです」
「自分が何をしたいか、何をしたくないかを、よく考えろ。そして、それに従って行動するんだ」
「わたしのしたいこと――」
「そうだ」
 彼はぼんやりとした目で、部屋を見回した。木田を、武藤を、柏所長を、そしてもう一度犬槙博士に視線を注いだ。
「わたしは――柏所長を、殺したくない」
「そうだ、その調子」
「早く、家に帰りたい。胡桃といっしょに、ご飯を食べたい。【すずかけの家】のみんなに、会いたい」
「それから?」
 セフィロトは、すっと表情を消した。
 そして、柏所長めがけて、弾丸のような拳を突き出した。
「セフィ!」


 シーダに先導してもらい、【応用科学研究所】の一般人立ち入り禁止の最上階まで、ようやくのことでたどり着いた私は、所長室の扉を開いた。
 その中では、信じられない光景が広がっていた。
 



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