Dream ドリーム



01



 ある日、チェリル・メイスンは見覚えのない部屋で目を覚ました。

 最初に視界に入ったのは、透明なチューブだった。先にガラスの瓶がぶらさがっている。点滴? これが点滴というものに違いない。
 起き上がろうとしただけで全身に激痛が走り、力を抜いて、しばし喘いだ。おそるおそる片方の腕を目の前にかざすと、巻きつけられた包帯の中に、チューブの先がつながっている。
――病院? ……ううん、違うわ。
 ゆっくりと首を巡らす。
 ベッドの背板は、精巧な木彫り。出窓にレースのカーテンが揺れている。外に見えるのは、淡い青空と鬱蒼と茂る木々の梢。
 緻密な模様のシルク織りカーペット、優雅なフォルムのソファ。部屋の中央にでんと置かれた黒光りのするグランドピアノを見れば、いくら彼女でも、ここが普通の病院でないことはわかる。
――でも、どうして、こんな豪勢な部屋に?
 いったい何が起きたのか、さっぱり思い出せない。けれど、もし事故か何かに会って、間違ってここへ運び込まれたのだと仮定すれば。
――いくら請求されるんだろう。
 その日暮らしの悲しさ。まっさきに考えるのは、お金のことだ。今月はもう、明日八人が食べるパン代すら満足にないのだから。
――ああ、そうだ。弟や妹たちはどうしているだろう。私がいなくなって心配しているはず。戸棚にはもう何も食べるものがなかったから、ひもじい思いをしている。
 一刻も早く、家に帰らなければ。
 できれば、誰にも見つからないように、こっそりと。もし見つかれば、とても払いきれないような治療費や部屋代を請求されてしまうだろう。
 チェリルは、そろそろとベッドから這い出て、床に足を降ろした。パジャマのズボンから覗く自分の脚は、驚くほど細く骨ばっている。
――私って、こんなに痩せてた?
 立ち上がろうとして、ベッドに崩れ落ちた。力が入らない。いったい、どうしたというのだろう。
 一日や二日で、体はこんなにはならない。もしかすると、もう何日も意識を失って、ここに寝ていたのだろうか。
――ますます、大変。とんでもない費用を請求される。早く逃げなきゃ。
 渾身の力をこめて、立ち上がる。点滴の針は、そっと肘から引き抜いた。あふれでる血をぎゅっと包帯で押さえ、よろけるように歩きだす。
――とにかく、着替えなきゃ。私の服はどこ?
 なんて広い部屋だろう。ようやくソファにたどりつき、それから壁にたどりつく。壁を伝うようにして、クロゼットらしき扉に向かう。
 開けて、ぼう然とした。
 何十着という服がぶらさがっている。上質なウールのジャケット、軽くて暖かそうなセーター、光沢のある絹のシャツ。
 だが、すべて男ものだ。
 そして、クロゼットには、作りつけの大きな鏡があった。その鏡面にひとりの少年が映っている。
 おそるおそる後ろを見るが、誰もいない。
 あたりまえだ。この部屋には、チェリルしかいないのだから。
「うそ……」
 震える手を伸ばして、鏡に触れる。向こうから伸びてきた手と鏡面の上で完全に合わさったとき、チェリルは認めるしかなかった。
 この鏡の中の少年は、自分であることを。
 17歳の少女、チェリル・メイソンは、見知らぬ部屋に入り込んでいたばかりではない。見知らぬ少年の体の中に入り込んでいた。

「まあ、ジェイさま」
 突然、甲高い悲鳴のような声が、背中から聞こえた。
 振り返って見ると、紺色のメイド服を着た女が、入り口の扉から走り去っていく。
――しまった、見つかっちゃった。
 あわてて逃げ出そうとするが、足がもつれて、分厚いカーペットの上にころげこんだ。
 起き上がろうともがく間に、白衣の集団が部屋に飛び込んできた。
「ジェイ!」
 医師らしき男性が、後ろにいた男たちに早口で命じると、たちまち両側から抱きかかえられ、元のベッドに寝かされた。
 心臓が口からはみ出しそうな不安と恐怖の中でも、ただひとつの慰めは、彼らが、この少年を知っているらしいことだった。
 少なくとも、不法侵入者として逮捕されるという事態だけは免れた。
「気分はどうだね」
 先ほどの医師が、彼に微笑みかけた。
「ああ、思うように体が動かないことを心配してはいけないよ。なにしろ、きみは三ヶ月ものあいだ眠っていたのだから、当然なんだ」
「さ、さ、三ヶ月?」
――三ヶ月と言ったの? この人は。
 三ヶ月のあいだ、私はここで眠っていた?
 じゃあ、弟や妹たちは? もし父さんが、いつものように飲んだくれていたら、誰があの子たちの面倒を見るの? 店を無断で休んでクビになったら、どうやって食べるものを買うの?
「ジェイ!」
「帰して、私を家に帰して!」
「落ち着きなさい。何を言ってるんだ」
「誰か、あの子たちを助けて」
 そう叫んだきり、チェリルは男の手の中で、崩れるように気を失った。

 ふたたび意識を取り戻したとき、誰かが枕元に座って、泣いていた。
「ああ、ジェイ。目を覚ましたのね」
 焦点が定まったとき、彼女を見降ろしていたのは、ハンカチをにぎりしめている金髪の中年女性。その隣には、焦茶色の髪の男性が寄り添うように立っている。夫婦だろうか。
――やはり、さっきの夢の続きだ。これは絶対に何かの悪い夢。だって、ありえないもの。れっきとした女の子である私が、どこかの見知らぬ男の子の体の中に入りこんでしまっただなんて。
「ジェイ。わたしたちが見えるか」
 男性の問いかけに、彼女はシーツをぎゅっと握りしめながら、おそるおそる、こっくりとうなずいた。
「ああ、神さま!」
「奇跡のようだ」
 妻は夫の胸にすがりついて、いっそう大きな声で泣き始めた。
――たぶん、この少年は彼ら夫婦の息子。
 チェリルは、胸がきゅっと痛むのを感じた。
 私は、この人たちをだましていることになるのだろうか。本当のジェイはここにはいない。この体に入っているのは、チェリル・メイスンというまったくの別人なのだもの。
 ああ、どうして、こんなことになったんだろう。家族が待つ本当の家に帰りたい。いくら二部屋に六人で住んでいる、すきま風の吹きぬける、ひどいボロ家でも。なつかしい、私の家。
――夢なら、覚めて。早く覚めて。
 チェリルのぎゅっと閉じた瞼から涙があふれ、ひとしずく零れ落ちた。
「まあ、この子ったら」
 夫人は泣き笑った。「泣いているの。もう大丈夫よ。ひどい事故だったけど、あなたは助かったの」
「失礼。少しよろしいでしょうか」
 という低い声とともに、誰かが手首に触れる感覚を覚えた。
「ドクター・ラザフォード」
 夫婦は立ちあがり、入れ代わりに先ほどの白衣の男性がベッドのかたわらに立った。
 気を失う前に一瞬見ただけなのに、知った顔に会うと不思議にほっとする。
「気分はどうだね」
 灰色の目を細めてやさしく微笑みかける医師に、知らず知らず微笑み返した。
「いいです……ラザフォード先生」
 と用心深く答える。医師の名前は、さっきの会話で聞いて覚えている。
 それにしても、これが私の声だなんて。少しひび割れた、固いテノールの声。やはり、この体は男の子のものなんだと、あらためて思い知る。
「脈もしっかりしている」
 医師は椅子に腰をかけ、じっと彼女の顔をのぞきこんだ。
「きみは三ヶ月前、自動車を運転していてトラックと衝突事故を起こしたんだよ。覚えているかね?」
「……いいえ」
「それ以来、きみは意識を失った、厳密にいえば、意識レベルがひどく低下した状態だった。瞳孔の対光反応は正常で、発語もあるのに、見当識が失われている。たとえて言えば、魂が抜けたような状態におちいっていたのだよ」
 魂が抜けた状態。
 それでは、ジェイの魂が抜けてしまった――そういうことなのだろうか。そして、そのあとに、どういうわけか私の魂が入り込んだ。
――ダメ、わけがわからない。
 混乱している感情を読んだのか、医師はぽんぽんと、子どもをあやすように彼女の手の甲をリズミカルに叩いた。
「一度に多くのことを理解しようとしても、パニックを起こすだけだ、ジェイ。ゆっくりと少しずつ受け入れていけばいい。時間はたっぷりとあるのだから」
「……はい」
 そのリズムに引き入れられるように、チェリルは目をつぶった。

 次に目を覚ましたのは、夜。窓の外は暗く、室内の明かりも消えている。看護師らしき人がやってきて、脈をとる間も、チェリルは眠っているふりをした。
 彼女が出ていくと、ゆっくりと起き上がる。
 ベッドの縁に座ったまま、慎重に考えた。なんとかして、ここから抜け出し、家に帰らなければ。
 家族は、私がチェリルだとわかってくれるだろうか。下手をすれば、どこかの頭のおかしい少年だと思われてしまうだろう。
――ううん、根気良く説明すれば、きっとわかってくれるはず。最初は信じてくれなくとも、私でなければ知らないことを話せばいい。たとえば、リズのお尻のホクロとか、サミイがおでこの傷を作った顛末とか。
 そうっと音を立てないように、クロゼットの扉を開けた。
 ブルックスブラザーズにブリオーニ、彼女でも名前だけは知っているような有名ブランドのものばかりだ。いったい、一枚いくらするのか見当もつかない。下町の雑貨屋で一週間働いても、とうてい追いつかないほどには違いないけれど。
 適当なシャツとパンツを選んで身につけた。長い間寝たきりで痩せてしまったせいか、少しぶかぶかだが、しかたがない。
 鏡を見ると、すらりとした上流階級の少年が立っていた。父親と同じ焦げ茶色の髪、理知的な鳶色の瞳でまっすぐに彼女を見つめ返してくる。
――へえ、さすがにお坊っちゃまだ。
 育ちの良さがにじみでている。この手は、あくせく働いたことも、人を叩いたり殴ったりしたこともないんだろうな。
 この人がうらやましい。私にないものを全部持っている。
 心から彼を愛し、泣いてくれる両親。豪華な部屋。専属のおかかえ医師や使用人まで。
 私とは大違いだ。母親を早くに亡くし、飲んだくれの父親にぶたれながら弟妹の世話をし、きれいな服も買えず、学校にも行けずに、あくせく働いていた私とは。
――神さまは、あまりにも不公平だ。
 乱暴にクロゼットの引き出しを開けると、手紙の束が入っていた。

『ジェイ・キングスレイ』
 彼の姓は、キングスレイというのだとわかる。
 住所は、マンハッタン郊外。大富豪の邸宅が立ち並ぶお屋敷町として有名な場所だ。
 掛け値なしに、桁違いの金持ちだ。なんだか無性にムカムカと腹が立ってくる。
――行きがけの駄賃にちょっとくらい金目のものをもらったって、バチは当たらないわよね。
 何か質屋で売れるものはないかと、引き出しを次々に開けていくと、黒革のサイフが見つかった。
 中を覗くと、札束が入っている。
「五……十……に、二百ドル?」
――だ、ダメ。いくらなんでも、そんなに盗んだら大泥棒だよ。チェリル。
 サイフに数枚だけを残してポケットに入れ、残りのお金は引き出しにしまった。
 彼女の靴のサイズのほとんど二倍はありそうなスニーカーを履くと、そうっと廊下に出る扉を開く。
「どこへお出かけですか。ジェイさま」
「ひゃああっ」
 おそるおそる見上げると、二メートルはありそうな屈強な護衛が、慇懃な目で見下ろしていた。
「あ、あの、散歩に行き……たいなと」
「ドクター・ラザフォードからは外出の許可を得ておりません」
 丸太のような腕がぬっと伸びてきて、彼女の肩をつかもうとする。肝が縮みあがった。
「や、やっぱり、いい。おやすみ!」
 できることはただ、まっしぐらにベッドに駆けこんで、お化けを怖れる子どものように、すっぽりと頭からシーツをかぶることだけだった。

「さっそく歩く練習を始めたそうだね。それも真夜中に」
 次の日の朝、ラザフォード医師は背中に聴診器を当てながら、愉快そうな声を出した。
「ね、眠れなくて――つい」
「三ヶ月も寝たので、もう十分というわけか」
 睡眠薬を処方しておこう、と、医師は万年筆でカルテに文字を書きつけた。
「けれど、体力がつくまで、ひとりの外出はまだ控えたほうがよいね。必要ならば、車椅子を用意させよう」
「いえ、そんな。そこまでしてもらわなくても」
「どこか、行きたいところがあるのではないかい」
 医師は柔らかく微笑みながら、じっと探り究めるようなまなざしで、チェリルを見つめる。
「最初に目覚めたとき、きみはこう叫んだんだよ。覚えているかね――『誰か、あの子たちを助けて』と」
「……」
「あの子たちとは、誰だね」
「あ、あの」
 チェリルは、脳味噌をフル回転させて、すばやく考えをまとめた。
「慈善活動なんです。事故が起きる前、下町の貧しい一家に寄付する約束をして」
「ほう?」
「あれから三ヶ月も経ったと聞いて、急に心配になって。きっと首を長くして待っていると思うんです」
「確かに、それは心配だね」
 ラザフォード医師は、うなずいた。「よければ、私が代わりに寄付の手配をしておこう。住所と名前を教えてくれるかね」
「マンハッタン区、カナル街62のメイスンファミリーです」
「寄付の額は」
「五ドル! い、いえ。ご、五十ドル!」
 医師は、いぶかしげに片眉を上げた。「たった、それっぽっちでよいのか」
「……では二百ドルで」
 ジェイの財布の全額を使ってしまったことに、しばらくチェリルは胸が痛んだ。
――けれど、これで弟と妹は当分、食べるに困らない。できれば、フードクーポンの形にしてもらって、父親が飲み代に使いこまないようにしておこう。
 チェリルは初めて、ジェイの体に入り込んだことをうれしいと思った。
 もしかすると、これからも、たびたびお金を送ってやれるかもしれない。そうしたら、あの子たちはお腹いっぱい食べて、暖かいウールの服も、サイズがぴったりの靴も買うことができる。
 こんな金持ちなんだもの。これからも、毎月五十ドルくらいもらったってバチは当たらないはず。
 そのためには、私はここから逃げ出すわけにいかない。送金のパイプ役にならなければ。
 私は今、大富豪の息子。金のなる木が植えられた花園へのカギを持ってるんだ。
 チェリルは、とうとう決意した。
――しばらく、ジェイのふりをし続けよう。ほんものの家族の幸せのために。

 

  恵陽さま主催企画「Other's plot plan」
に提出した自プロット作品です。