シャワーの水を出しっぱなしにしていたことに気づき、チェリルは苦笑した。
すっかり無駄づかいに慣れてしまった。人間というのは、これほど易きに流れやすい生き物なのだ。
ジェイという少年の体の中で目覚めてから、一ヶ月が経った。
祖父の代から財をなしたキングスレイ財閥の令息。マンハッタン郊外の大きなお屋敷に住み、たくさんの使用人を雇い、いくら熱いシャワーを使ってもボイラーが壊れないほど贅沢な生活を享受する。
上流階級の子女ご用達のボーディングスクールに在籍する高校三年。軽々と飛び級できるほど成績優秀、品行方正な彼の、生涯ただひとつの不運が、運転していた車が信号無視のトラックと衝突したことだった。
三ヶ月の意識昏迷のあいだに、いったい何が起きたのかわからない。気がつけばチェリルが彼の体に入り込んでいた。
シャワールームから出て、ふかふかのバスタオルで体をぬぐう。
ふと、鏡に目をやった。毎日眺めていれば、男性の体に対する抵抗は無くなったが、さすがに今でも下半身を注視することはできない。
この一ヶ月、栄養士による健康管理とトレーナーのリハビリによって、やせ衰えた体はほぼ元通りになった。
恵まれた容姿をしていると、あらためて思う。上流階級の男は美しい女性を選り好みする財力があるから、子どもは遺伝的に美男美女が多いと聞いたことがある。
チェリルは、自分のそばかすだらけの肌や、低い鼻を思い出して、しょげた気分をあわてて頭の中から追いやった。
――第一、こんな目つきの悪い男より、私のほうがずっとマシ。
鏡の中のジェイは、いつも鳶色の冷たい目をしていた。
体を動かしているのはチェリルなのにと不思議に思うが、どんなに鏡に笑いかけても、目だけは笑っていない。
そういえば、部屋で見つけたどの写真を見ても、彼が笑っている写真は一枚もない。
――こんなに金持ちなのに。何不自由ない生活だったはずなのに……幸せじゃなかったのかな。
着替えをすますと、部屋の中央に置かれたグランドピアノの前に座り、白と黒の鍵盤の上に不器用に指をすべらせる。
話を聞けば、本物のジェイはピアノの名手だったらしい。
チェリルにとっては、ピアノなど異世界のものに等しいが、この体の持ち主は、自分の一部のように自在に操っていたのだろう。
大切な絆を壊してしまったようで、いつもピアノを見ると、申し訳なく思うのだ。
朝食のために階下に降りると、先に食卓についていたキングスレイ夫妻が「おはよう」と声をかけた。
「おはようございます」
会釈して、自分の席につく。そういえば、この両親も毎朝、息子を抱きしめたりはしない。
下町にはラテン系が多いせいか、彼女の知る限り、親子でも挨拶のときは必ずキスをする。チェリルの飲んだくれの父親ですら、機嫌がよいときは、子どもたちのほっぺたにヒゲだらけの顔をこすりつけてきたものだ。
上流階級とは、こんなものなのだろうか。家族や友人でやたらとベタベタ触れ合うのは、下品なことなのだろうか。
なんだか、さびしくなってしまう。
「ジェイ」
ナプキンをテーブルの上に置きながら、キングスレイ氏がこちらを見ている。
「もう体力も戻ったようだな。今日から会社に来い」
「か、会社?」
――聞いてないよ! いきなり会社って何。ジェイはサラリーマンだったの?
「あなたったら」
キングスレイ夫人は、眉をひそめて夫を見た。「まだ大事を取って、高校も休学しているほどですのよ。何もそんなに急がなくとも」
「どうせ、ゆくゆくは、この子のものになる会社だ。覚えさせておきたいことが山ほどあるのに、もう三ヶ月も無駄にしてしまったのだぞ」
「そんなことを言って、ジェイをあなたのような、家庭を顧みない人間に育てるおつもりなのね」
「くだらん。何を言っている」
冷たい応酬と、険悪な空気に、チェリルは気が気でない。
「あ、あの、僕は大丈夫だから!」
元気よく立ちあがると、母親の肩に手を置いた。「いろいろ忘れているから、早く思いだしたいんだ。きっとお父さんも、僕の体を気遣って、最初は簡単な仕事だけにしてくれるよ。そうだね?」
「あ、ああ」
「心配しないで、お母さん。愛してるよ」
頬にキスすると、キングスレイ夫人は目玉が飛び出そうなほど驚いている。「ジェイ、あなた……」
「あ、しまった」
――上流階級の人間は、こんなことしないんだっけ。
運転手つきの黒塗りのリムジンに乗り込むと、キングスレイ氏はひとことも口を利かずに、会社の書類をめくり始めた。
横から覗いてみるのだが、まるでちんぷんかんぷんだ。
ため息をつく。
『事故のショックと、それに続く三ヶ月の昏睡のせいで、一時的に記憶を喪失しているようです』
ラザフォード医師がそう診断してくれたおかげで、しばらくは言い訳がたつけれど、だんだんと疑われるに違いない。
キングスレイ夫妻や、使用人たちから、「あれ?」という目で見られるたびに、心臓がドキッとし、胃がきりきり痛む。
――もし、このままずっと、この体から出られなかったら、どうしよう。
お金持ち学校に通い、会社の後継者として難しい勉強をさせられ、ゆくゆくは家庭を顧みない社長になり、美しいレディと結婚し……。
――無理、ぜったい無理! 女の子と結婚するなんて!
頭を抱えていると、ビルの前に車が停まった。
重役専用のエレベーターに乗り、三十階という途方もない高さまで昇る。
通されたのは、革張りの椅子が並ぶ広い会議室だった。壁面は総ガラスで、ミッドタウンの高層ビル群が間近に見える。
「やあ、ジェイ。全快おめでとう」
「意識が戻らないと聞いて、ずっと案じておったのだよ」
白髪の重役らしき老人たちが、次々と彼に握手を求めてきた。
「ご、ご心配おかけしまして」
チェリルは、窓の外の超高層の風景に足がすくんで、一歩踏み出すのもやっとだ。
なるべく窓のほうを見ないように視線を落としながら、父親の隣に座る。
「それでは、本日の定例会議を始める」
キングスレイ氏は、おどおどした息子のほうを振り向きもせずに、さっそく議題に入った。
「ニュージャージーの工場の買収の件は、どうなっている」
最初は何を言っているか、さっぱりわからなかったが、ところどころ聞き取れる言葉がある。さっき自動車の中で横から覗いた書類が脳裏によみがえり、蛍光マーカーで塗ったようにくっきりと浮かび上がって来た。
――ジェイは、この言葉を知っていたのかしら。
不思議な魔法を見ているような思いで、チェリルは黙って会議を傍聴していた。
「それでは、次の議題に移る。貧困地区の再開発計画について」
社長秘書たちが書類をそれぞれの席に配り、議長役の重役が読み上げる。
「対象地区は次の通り。リッチモンド街、バウリー街、カナル街の16丁目から南。アップル街12丁目から18丁目まで――」
「え、えーっ!」
チェリルは大声を上げそうになり、あわてて口を両手で押さえた。
――カナル街と言えば、私の家があるところじゃない!
「74年秋までに、中高層ビルディング六棟を含むビジネスパークとショッピングモールを建設する予定です。来年二月までに用地確保を終え、六月までに住民の強制退去。年内に整地と基礎工事を終える予定です」
――じ、冗談じゃない。それじゃ、カナル街がなくなってしまう。私の家も、働いていた雑貨店も、角の花屋もパン屋も。
「待ってください!」
全重役の視線が、いっせいにジェイに注がれた。
「あそこに住む住民たちにだって、生活があります。いきなり強制退去と言われても困るんです」
「ジェイ」
キングスレイ氏が不思議なものを見るような眼で、息子を見上げた。「座りなさい」
「えー、住民補償の件ですが」
議長は、額の汗をハンカチでぬぐってから、書類をめくった。
「別紙の表のとおりの予算を立てております。個別に立ち退き料の交渉をするため、特別チームを編成する予定です」
「お金の問題じゃないんです」
チェリルはまた腰を上げ、熱心に言い募った。
「この地区に住んでいる人たちは、貧しいなりに助けあって暮らしています。商店は、近隣の人たちを相手にニ十セント、五十セントの商いをして日々の生計を立てています。互いに足りないものを融通し合ったり、祝い事があると近所にご馳走をふるまったり、ひとつの有機体として、いえ、ひとつの家族として機能しています」
参加者たちは、あんぐりと口を開けて聞いている。
「だから、個別に補償交渉をしても、ダメなんです。バラバラにではなく、街全体がそっくりと移住できるような形を考えていかないと、商店は客を失い、人々は生きる意欲を失います」
しばらく、会議室は沈黙に陥った。
誰かのため息とともに、がさがさという書類の音が響く。
「この議題は、次までの検討事項とする」
キングスレイ氏が押し殺した声で宣言し、その日は散会となった。
下りのエレベータに乗ったとたん、チェリルはがくがくと膝が震え、立っているのもやっとだった。
――私ったら、なんていうことを言ってしまったんだろう。
必死だった。私の家が壊されて、立ち退きになってしまうと聞いて、できないなんて言っていられなかった。
私はこのときのために、ジェイの体に入り込んだ。確かにそう思えた。
――それに、私だけの力じゃない。
ジェイが助けてくれた。むずかしい言葉でもすらすら言えたのは、そのためだ。
そういえば、今まで考えたことがなかったけれど、ジェイの意識って、どこにあるんだろう。
この体の中で眠っている?
それとも、私がこの体に入ったのと同時に、どこかに抜け出した? まさか彼は今、チェリル・メイソンの体の中に入っているのだろうか。
ああ、自由に外を出歩けたら。カナル街に様子を見に行けたらいいのに。
「ジェイ」
リムジンに乗り込んで家に戻る途中、キングスレイ氏がまっすぐに前を見つめながら、言った。
「驚いた。おまえがあんなことを考えていたとは」
「あの、いえ。僕も驚いたというか、なんというか」
「おまえは、私の仕事には全く興味がない――いや、憎悪しているようにさえ見えたからな」
「憎悪……だなんて。まさか」
あわてて答える。「何百万ドルもの大金を即決で動かし、何千人の社員の生活をになう責任を負っている。お父さんの考えひとつで、たくさんの人が幸福にも不幸にもなる。それだけの重圧に耐えているお父さんは、すごいと思います」
父親は息子をまじまじと見て、それから書類に目を落とした。「そうか」
「ふわあ」
チェリルはベッドから起き上がると、無防備な大あくびをした。
ゆうべは夜の更けるのも忘れて、ジェイの蔵書の一冊を読んでいたのだ。読書と言えば、コミック雑誌か挿絵入りの恋愛小説しか読んだことがないチェリルが、こんな難しい本を面白いと感じるとは意外だった。
――やっぱり脳細胞の構造が違うのかなあ。
顔を洗い、クロゼットの服を選んで着替え終えたころ、ノックがあり、メイドが入ってきた。
「お目覚めのお茶です。それと今日の朝食は、旦那さまのご意向で、テラスにご用意させていただいております」
「ああ、わかった。わざわざありがとう」
にっこり笑うと、メイドはぽっと頬を染め、お辞儀をして立ち去っていった。
「ジェイの女たらし」
チェリルは、ぶっと頬を膨らませて、鏡を睨みつけた。
ついこのあいだまで、氷のようだと思っていた鳶色の双眸は、いつのまにか陽光を思わせる温かな光を帯び始めた。
「ま、性格が丸くなったのは、私のおかげだけどね。感謝しなさい」
使用人たちが、『お坊っちゃまがお変わりになった』と噂していると、診察に訪れたラザフォード医師が笑いながら教えてくれた。
「以前はヘタをすれば、使用人はモノ扱いだったそうだね。言葉をかけることなど全くなかったそうだ」
「そ……そんなにひどかったんですか」
モノ扱いなんて、できるわけがない。チェリル自身が働くことのつらさを知っているのだから。自分の代わりに誰かが働いてくれると思っただけで、感謝のことばが口をついて出てしまう。
それって、本当は上流階級らしくないことなのだろうけど、でも人間としては当然だと思う。
階下に降り、大広間から庭のテラスに出た。
キングスレイ家の庭は、まるでセントラルパークのように広々としていて、ハドソン川が朝の光を浴びて白く光っているのが眼下に見える。
「おはよう。ジェイ」
「おはようございます。お父さん。お母さん」
チェリルはキングスレイ夫人にキスをして、白木のガーデンチェアに腰を下ろした。
「ジェイ。このあいだの話だが」
父親は、パンケーキの上のバターとメイプルシロップを塗り広げながら、話した。
「立ち退き住民のためには、郊外の新興住宅地にタウンハウスを用意し、コミュニティごとに優先的に入居できるようにした。それなら文句はなかろう」
「ええっ。ほんとですか?」
「重役どもは、金がかかりすぎると反対したがな。これを新しい立ち退きのモデルケースとして新聞記者に大々的に記事を書かせる。わが社にとっても良い広告になる。おまえは、それを計算に入れていたのか?」
「え? ええっ。その」
「これは、おまえの初手柄だ。記念にしろ」
――そんなつもりはなかったのにな。ただ自分の家のことを考えただけで……。
チェリルは居心地悪く、紅茶を意味もなくかきまぜた。
「さて」
キングスレイ氏は満足げに椅子にもたれ、手を組んだ。
「今朝こうしているのは、とても大切な客を迎えるためだ。おまえにとってな」
「僕にとって?」
「あなたも、よく知っている女性よ」
夫人も、目尻を下げて微笑んでいる。「子どものころシンシア・ワズワースと一緒に遊んだのを、覚えている?」
「少しは、その、なんとなく」
「天使のように綺麗な貴婦人になって。本当にあなたは幸せ者よ」
「……」
なんだか、とてもイヤな予感がしてきた。
思わず見やると、大広間の掃き出し窓から、大きなバラの花束を抱えたブロンドの少女が現われた。
「全快おめでとう、ジェイ」
ぼんやりと見つめ返していると、彼女は花束を差し出した。「元気になれてよかった。あなたのフィアンセとして、この日をどんなに祈って心待ちにしていたか」
「はい?」
――ふぃあんせ、とおっしゃいましたか?
恵陽さま主催企画「Other's plot plan」
に提出した自プロット作品です。