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第一章 朝のグループホームは戦場だ。 「ヒサコさん、牛乳あっためましたからね。ゆっくり、急がずに飲んでくださいね」 「ああっ。ユキエさん。花瓶にジャムを入れちゃダメですよ」 「あれ、ゴロウさん。このパンそんなに固いですか――わあ、下の入れ歯がない。どこではずしちゃったんだろう」 職員は、入所者といっしょに食事をとる建前になっているが、正直、噛んで味わった覚えなんてない。ほとんど丸飲みだった。 食事が終われば、薬の時間。早番の人と協力しながらのトイレ介助とおむつ交換が終わって、ようやく落ち着くまでに、一時間なんてあっという間に経っている。 九時に日勤の人たちと交替。申し送りして、日報書いて、ようやく夜勤が明ける。 ノートパソコンから顔を上げた。事務スペースからは、リビング全体が見渡せる。 ここはビルの四階だ。屋上庭園に面した大きな窓から、暖かな陽の光が差し込んでくる。 入所者たちは、それぞれお気に入りの場所に座り、思い思いにコーヒーを飲んだり、スタッフと折り紙をしたり、テレビを見ていたりして過ごしている。 事務スペースの隣には、ベッドと洗面台つきの11畳ほどの個室が九室、ずらりと並ぶ。 ここが、僕が働く『グループホーム・ミルトス』のユニットだ。 九人の入所者。うち二人が男性、七人が女性。 要介護度は、1が二名、2が二名。3が三名、4が一名。要支援2が一名。 グループホームは、正式には『認知症対応型共同生活介護』と言う。 スタッフとともに少人数で共同生活をすることによって、できるだけ日常に近い生活の中で穏やかに暮らしてもらうことができる。 『ミルトス』は、1ユニット九名が2ユニット、計十八人が入所している。それぞれのユニットリーダーのもとに、四交代制でケアスタッフ五人が働く。 僕はその中でも、格下も格下。三月に大学を卒業したばかりの新米職員だ。 たった今入力し終えたばかりのパソコンの画面を再び見下ろして、ため息を吐いた。 昨夜は、はじめてのたったひとりの夜勤だったのだ。自分が情けなくなるくらい、こわかった。あの老人たちがこわいなんて、誰に言っても信じてもらえないだろうけれど。 「ユルくん」 ユニットマスターの山名さんが、僕を手招きした。 山名ハツミさん。介護支援専門員、介護福祉士、ホームヘルパー1級という、そうそうたる資格を持つ、介護のプロ中のプロ。 年はたぶん40歳くらい。バレリーナみたいに髪をきゅっと後ろでまとめて、目元がきりりと吊り上がって、いかにもできる女だ。 やさしいけれど、仕事には厳しい。どんなに小さな失敗でも、この人の目からは隠せない。 「疲れてるだろうけど、ちょっとだけ面談しよか」 「はい」 僕たちは廊下に出て、エレベータの隣にある会議室に入った。「コ」の字に組んだ会議机の角に、斜めに向かい合って座る。 ちなみに、僕の本名はユズルだ。譲と書いてユズル。けれど、真ん中の「ズ」が呼びにくいからと言って、この人が僕を「ユルくん」と呼び始めた。今や、ホーム長をはじめ、一階のデイサービスの職員たちまで、僕のことを「ユルくん」と呼ぶ。 何を言われるんだろうか。昨夜は、ミチコさんの介助にもたもたと手間取ったせいで、ヒサコさんのトイレ誘導が遅れて、失禁させてしまった。 十時間以上、たったひとりで九人を見るのは、やはり思った以上に大変だった。 「ユルくんは、ときどき、『あっ』とか『わあ』とか大声を出すよね」 「あ、はい」 「クセなんだろうけど、あれで入所者の皆さんがびっくりしてる。ユルくんはセント・バーナードみたいだから、威圧感があるの」 なぜに、セント・バーナード……。 「それと、ずっと言おうと思ってたから、ついでに言うね」 ハツミさんは、両指を組み、身を乗り出した。 「ユルくんはいつも目が笑ってない。入所者は、ことばで理解するんじゃない。相手の表情で理解するの。ものすごく敏感。どんなに上手に隠していても、「いやだな」とか「めんどくさいな」と思う気持ちは、すぐにバレる」 僕はうつむいて、答えられなかった。 たぶん、山名さんの言うことは、本当なのだと思う。 「ユルくんは、ここで働くのがいや?」 「……いやです」 だって、望んで就いたわけでもないのに。どうして好きになれる? ずっと幼稚園の先生になりたかった。大学は、教育学部の幼児教育専攻だった。教育実習を受けさせてもらった幼稚園で「ぜひ来てほしい 」と言われていて、自分でもそのつもりだった。前途には、洋々たる未来が拓けているはずだった。 けれど、先方がまさかの定員割れ。経営を縮小せざるを得なくなり、新人を雇うことができなくなったと言われた。 あわてて就活を始めたけれど、新卒の募集はほとんどなかった。どこの幼稚園も似たり寄ったりの事情。少子化のために、経営は苦しくなる一方だ。 「ここに就職させていただいたときに、ふんぎりつけました。一生懸命がんばって、介護の仕事にうちこもうって。でも――」 「でも?」 「心のどこかが納得していない……のかもしれない」 「うん」 ユニットリーダーは、組んでいた手をそのまま上に挙げて、うーんと伸びをした。「子どもの頃からの、大きな夢をあきらめたんだものね」 僕は唇を噛んだ。自分の気持ちを自分で認めてしまったとたん、ガラガラと音を立てて、世界がとめどなく崩壊していくようだった。 ――だめだ。もう、ここでは働けない。これ以上は、がんばれない。 「わたしね、ユルくんはすごいと思っていたんだよ」 山名さんの声色がふうわりと明るくなった。「よく気がつくし、おむつ交換も動じないし、さすがに先生を目指していただけのことはあるって」 顔を上げると、彼女は笑っていた。いつもは切れ上がった鋭い目つきなのに、そのとき僕に注がれた眼差しは、本当にやさしく笑っていて、まるでお日さまに包み込まれているようだった。 「四年間、大学で学んできたことも、ユルくんの持って生まれた特性も、ここで十分生かせていると思う。それでも、ここで働くのはいやかなあ?」 「……」 「幼児とお年寄り、気持ちの上で何がどう違うの?」 「何がどうって」 あたりまえじゃないか。 「だって、子どもたちには未来がある。希望がある。昨日はできなくても今日、今日はできなくても明日は、確実に成長していきます。でも、ここの入所者さんたちは――何度同じことをしても、その端から忘れていってしまう。まるで積み上げては崩れるトランプの塔みたいに、昨日より今日、今日より明日と、どんどんできないことが増えていく。――なんだか、むなしくなってしまうんですよ。未来が見えない」 言ってしまった。最後通牒。それを言っちゃケアスタッフじゃないだろうという、後戻りのできない禁句を。 「うふふ」 叱責されるかと思っていたら、山名さんは意外にも、楽しそうに笑った。 「ユルくん、十年前の私を見ているみたい」 「ええっ」 「私も、この仕事に就いたときは、毎日、同じ愚痴を言ってたような気がする」 彼女は立ち上がった。トレパンに包まれた、ほっそりしているのに肉付きのいい腰を僕に向けて、廊下に面した窓から、吹き抜けの天井をじっと見上げる。 「入所者さんたちには、ちゃんと未来があるよ」 「え?」 「未来だけじゃない、現在も。過去も。私たちには想像もつかないくらい豊かな時間を、あの方々は持ってる。時間を飛び越えていく超能力だって」 「超能力?」 振り向いた山名さんは、意味ありげにほほえんで言った。 「ユルくんは、今はまだ余裕ないと思う。毎日の日課を必死に、流れ作業でこなしているだけだと思う。でも、気をつけて観察してみて。そう、今から一週間。全身を耳にして話を聞いてあげて。きっとわかるから――入所者さんたちが時間旅行に旅立つ瞬間が」 第二章 ツトムさんの朝は、「出陣式」で始まる。 先輩の誰かが、朝の身支度を冗談でそう呼んだという。それまで面倒くさがってなかなか起きなかったツトムさんが、「さあ、出陣式ですよ」と言ったとたんに、ぱっと起きるようになったらしい。 着替え、洗顔、髪を梳いて、上下の入れ歯をはめると、顔つきがきりりとする。確かに、鎧兜に身を固める武士のふぜいだ。 「さ、出陣しますよ」 愛馬ならぬ愛用歩行器を押して、個室からリビングに出てくる。 「おはようございます。ツトムさん」 ユニットリーダーの山名さんが、テキパキと配膳しながら、ほがらかな大声をあげた。夜勤をこなして、よくそれだけの元気があるなと思う。 相変わらずの、こぼれ落ちそうな笑顔だ。 『ユルくんはいつも目が笑ってない』 きつい指摘を受けてから三日。意識すればするほど、自分が笑えていないのがわかる。 円テーブルでは、準備が先にできた三人のおばあちゃんたちとサキさんが席について、食事を食べ始めた。 手が空いた僕が、コーヒーを注いで回る役目だ。 「ありがとう。おいくらですか」 ミチコさんが優雅に会釈する。 「いえ、お気づかいなく。お金はいりません」 「まあ、そう。ありがとう」 この会話も、毎日繰り返されているものだ。中程度の認知症の入所者たちにとっては全てが初めてであり、とまどうことばかりなのだ。そして、僕たちスタッフはロングランの芝居を演じる役者のように、根気よく同じ台詞を繰り返すことになる。 認知症の人は、アルツハイマーによる脳の萎縮や血管障害で、記憶中枢をそこなわれている。 最初は、持ち物をなくすといった初期の物忘れから、エピソードそのものを忘れてしまう深刻な記憶障害へ進んでいく。ときには、数秒前のことさえ忘れてしまうのだ。 スタッフは、そういう入所者にどうやって関わりを持てばいいのか、どうやって理解すればいいのか。 僕はさっぱりわからなくなっていた。絶望しかけていた。 山名リーダーが言った、『今から一週間、全身を耳にして話を聞いてあげて』という命令にも、僕はまだ、きちんと向き合う余裕がない。 午前は早番、日勤合わせて三人のスタッフが常駐しているはずだが、ひとりが風呂介助につきっきりで、もうひとりが厨房や事務所に連絡に走ってしまえば、結局はひとりで全員を見ることになる。 ユキエさんの姿が見えないので、個室を覗くと、なんとカーディガンを三枚も着こみ、ありとあらゆる紙袋に私物をいっぱい詰めて両手に持って、ベッドに腰かけている。 いったいいつのまに荷造りしたのだろう。 「タクシーを呼んで」 表情が固く、目がすわっていて、いつもと明らかに違う。 「どこへ行くんですか」 「家に帰らないと。もうすぐ息子が小学校から帰ってくるから」 「でも、ユキエさんの家はここですよ」 と言っても、効き目はない。否定したり説得したりすると、ないがしろにされたと感じて、かえって状態は悪くなる。 「わかりました。すぐにタクシーを呼びますから」 僕はユキエさんを助けて、ベッドから立ち上がらせた。「あ、重いから僕が運びますね」 電話をかけに行くふりをして、事務スペースの隅に紙袋を隠した。 「ユキエさん、タクシーが今混んでいるそうです。もう少しだけ、椅子に座って待っててくださいと言ってます」 僕はユキエさんを椅子に座らせ、とっておきの美味しいお茶を入れた。そばに座っていたヒサコさんが折り紙で箸袋を折っていたので、「すごい、上手だな」とおおげさにほめちぎった。 その場にいる人たちを巻き込んで、お茶を飲みながら箸袋を山ほど作っているあいだに、11時になり、昼食の準備が始まった。 ユキエさんは結局あれから、タクシーのことはもう何も言わなかった。 (あれ、そう言えば) と気づいたのは、昼食のときだ。 事務スペースのノートパソコンを開き、ユキエさんのデータを見る。 『ミルトス』に入所するまでは、ユキエさんは市内のS町のマンションで、息子一家と同居していた。 息子さんは、58歳だ。当然ながら学校に行く年齢ではない。 (あのときのユキエさん、息子が学校から帰ってくると言っていたっけ) 唐突に、山名さんが言っていたことを思い出した。 『気をつけて観察してみて。きっとわかるから――入所者さんたちが時間旅行に旅立つ瞬間が』 そういうことか。 僕は、研修のときにもらった教科書を取り出した。 その夜、出勤してきた山名さんに、ユキエさんのことを申し送ると、笑って答えた。 「ユルくん、うまいじゃない。一番高い玉露を入れるところなんか、ツボ押さえてる」 「飲みたかったんですよ、僕が。喉がカラカラで、どうしたらいいかわかんなくて」 「ユキエさんも飲みたかったと思うよ。いっしょに暮らしてると、スタッフも入所者も、バイオリズムが似てくるし」 「それより」 僕は声をひそめた。 「あのとき、おっしゃった『時間旅行』の意味がわかりました」 「そう?」 「時間軸の移動のことですね?」 山名さんは、「うわお」とおおげさな感嘆の声を上げて、親指を上に向けた。「よく研修で教えたこと、覚えてたね」 認知症を発症すると、直前にあったことが思い出せなくなる。断片的に過去の記憶が失われていく。 そのため、過去の一時期――たとえば、自分がもっと若いころや、子ども時代の過去を、現在と混同することがあるのだ。 「ユキエさんは、子どもが小学校から帰ってくると言ってた。だから、今から五十年前くらいにさかのぼっていたんですね」 「うん、それなのに、いくらスタッフが『あなたは今おばあさんになって、介護施設にいるんだよ』って説明したって納得できないよね。鏡を見たって、『このおばあさん誰』ってことになる。息子さんが会いに来たって、『うちの息子はこんなおじさんじゃない』って言う。ときには、『まだ結婚もしてないのに、息子なんかいない』って言うときもある」 「それが時間旅行――」 「いつも同じ時代に行くわけじゃないし、次の瞬間には、パッと別の時代に移っているかもしれない。でもケアする人間がそれを知っておくのは、とても大切。時には、スタッフはその時代の人間になりきって、話を合わせなきゃならないこともある」 「そんな……でも、それって騙すことになりませんか」 山名さんは微笑んだ。涙袋がぷっくりと膨れて、まるで少女のように若々しい。 「騙して心を傷つけるのなら、決してしてはいけない。でも、この場合は誰かが傷つく?」 「……いいえ」 「あと四日、観察を続けてみて」 このところ、いっしょに組むことが多いサキさんが、「ちょっと、ユルくん!」と言いながら、ずかずかと詰め寄ってきた。 サキさんは、三十歳すぎの中堅の職員だ。ほがらかで、ちょっと小太りで、本人はそのことを気にしてご飯をうんと減らしているのだが、おやつは誰よりもたくさん食べているという人だ。 「ひとりに関わるのはいい。でも、うちには九人の入所者さんがいるの!」 僕は、山名さんに言われたとおり、ひとりひとりの観察を続けていた。今日は朝からツトムさんの後ろに張りついて、ひとことも聞き漏らすまいと会話に耳をすましている。 けれど、そのあいだ、ほかの八人は全部サキさんが見ることになってしまうと怒られたのだ。全部まかせきりにしたつもりはないんだけどなあ。 「私たちは、一匹の羊を探しに行ってばかりいられないんだよ」 「なんです、それ」 「聖書、聖書のたとえ話だよ」 そう言えば、この『グループホーム・ミルトス』はキリスト教系の団体が経営している。もちろん、介護保険施設である以上、宗教色はないが、ときどき教会のメンバーが来て歌を歌ったり、クリスマスには、牧師がサンタクロースの衣装を着て現れるらしい。ケアスタッフの中にもクリスチャンが何人かいるらしく、サキさんもそのひとりだ。 「私、聖書の中で、あの話が一番きらい。だって、群れから抜け出した一匹の羊を探しに行ってるあいだ、九十九匹はほったらかしになっちゃうなんて、不公平だよ、無責任だよ」 頬をふくらませて、サキさんは力説する。 架空の話にそんなに熱くなれるのもすごいと思うが、その気持ちはわからないではない。 僕たちはいつも、圧倒的に足りない人員の中で、なんとか日々をやりくりしている。話に聞くと、僕たちはまだマシなほうで、もっと大変な勤務シフトのところもあるらしい。 スタッフは本当は入所者さんひとりひとりの話を座ってじっくり聞き、その心に寄り添いたい。だけど、それをしてしまうと、その分ほかの人にかける時間が少なくなってしまう。 だから、やりたいことと、やっていることの矛盾を感じながら、お年寄りたちの消え入りそうな声を、忙しく手を動かしながら、廊下を走りながら、おざなりに聞いてしまうのだ。 「すみません」 「ま、いっか。誰でも一度はかかる、はしかみたいなもんだからね」 「はしか?」 「別名、『寄り添いたい病』」 サキさんは大きなため息をついた。 介護の仕事に初めて就く新人は、忙しい業務の中で自分を見失いそうになり、『これじゃいけない、入所者さんに寄り添わなきゃ』と一念発起して奮い立つのだという。そして、無理を重ねて、へとへとになってしまう。 「入所者さんの心に寄り添える奇跡なんか、一年に一度あるかないか。清潔なお部屋で気持ちよく起きてもらって、おいしくご飯を食べて、気持ちよくトイレして、お風呂でさっぱりしてもらう。それでいいと割り切るしかないんだよ」 「けど」 それでいいのかな。だって僕たちは、動物園の飼育係をしているわけじゃない。相手は人間なんだ。気持ちよいだけでは満たされない何かを、人間なら誰でも持っているはずだ。 それとも――そう心の中でつぶやいたら、泣きそうになった――相手が人間だと思っていたら、介護はやっていけないのかな。 第三章 昼食が終わり、できる人には後片付けを手伝ってもらって、トイレ介助やおむつ交換が終わると、つかのまの平和が訪れた。 個室でお昼寝をする人。テレビの韓流ドラマを見る人。 そして一時からは、日替わりでいろいろなプログラムがある。 希望する人は、一階のデイケアセンターに降りていって、陶芸や習字、童謡唱歌など、好きな教室に出席することもできる。 週に一度は、近所のクリニックから医師と看護師が訪問看護に来てくれるし、歯医者さん、薬剤師さん、理学療法士や作業療法士さんも定期的に訪れる。 それぞれの入所者さんたちを専門家に託して、ほっと安心できるひとときでもある。時には、先生とケンカして機嫌をそこねてしまった人をなだめるために、よけい忙しくなることもあるけれど。 入り口のチャイムが鳴り、誰かと思って出てみると、小さな女の子が立っていた。 いや、訂正。本当は小さな子などではなく高校生だったのだが、僕には、とても小さく見えたのだ。 彼女は、にらみつけるようにして僕の体を上から下まで眺めると、 「でかい。セント・バーナードみたい」 と、生意気な口調で言った。「じゃ、あなたがユルくんね」 ――い、いきなり、何なんだ。 「きみは」 「山名ハツミの娘。母が洗面道具忘れてたから持ってきた」 えええっ。 山名さんに娘がいたなんて初耳だ。 て言うか、独身って聞いたぞ。独身、彼氏募集中って、自分で吹聴してた。 「え、ええと、山名さんは今連絡会議中で……渡しとくよ」 「いい。待たせてもらう」 彼女はすたすたと中に入り、さっさとキッチンでインスタントコーヒーを入れ始めた。 「アリサちゃん」 「わあ、マサコさん。名前覚えててくれて、うれしいなあ」 一番症状の軽いマサコさんと、手を取り合っている。 なんで、スタッフの僕よりも、入所者さんとなじんでるんだ。もしかして、この子、僕の知らないあいだに、ここに入りびたってる? 「目の前で立ってられるとうざいから、座ったら?」 気づくと、彼女は円テーブルにマグカップを置いて、頬杖をついて僕を冷ややかな目で見ていた。 小柄な女性用につくられたテーブルと椅子なので、僕にとっては、かなり小さい。無理して腰かけると、まるで「三匹のクマ」の子グマの椅子みたいだ。 「あ、あの」 と僕は言った。 「何?」 「部外者が入ってきてもらっては、ちょっと……」 「入所者の家族が、面会に来るのは自由なんでしょ」 「それはまあ」 「じゃあ、スタッフの家族だって面会に来ていいじゃん」 そんなものだろうか。 「やっぱ、聞きしにまさるユルキャラだね。その間の抜けたしゃべり方」 「山名さんが、そう言ってんの?」 いささかムッとした思いで、そう問い返した。 「ホームに、ユルくんって呼ばれてる子がいるって聞いただけ。じゃあユルキャラだねって言ったのは私。わかった、ユルキャラ?」 「やめろよ。その呼び方」 「だって、ズルキャラよか、よっぽどましでしょ」 僕は一瞬、口ごもる。 「そりゃ、そうだけど」 アリサちゃんは、「あはは」と天井まで突き抜けるような笑い声を上げた。 「母親が職場の人間関係について、家でしゃべるの珍しいんだ」 くりっと大きな瞳を細めて、彼女はニッと笑った。「あんた、ハツミちゃんにすごく気に入られてるよ」 リハビリに付き添っていたサキさんとミヤコさんのふたりも戻ってきて、「あー、アリサちゃん、ひさしぶり」と、すごく賑やかなおやつタイムが始まった。 その午後、不思議なことに、僕たちスタッフは信じられないほど楽だった。 三人が四人になった。それだけで、これだけ楽になるものか。入所者さんの細かい変化にも早く気づいて、早めに対応できる。 アリサちゃんが特別、何かをして手伝ってくれたわけではない。でも、その場所にいて、「おばあちゃん。元気出しなよー」、「このせんべい、おいしいよ」と声かけをしてくれるだけで、入所者さんも、いつもよりずっと生き生きした表情をしている。 笑いも出る。そう言えば、いつも入所者さんたちは、声を出して笑っているだろうか。 上から、あれこれと命令するのではなく、同じ目線でしゃべること。同じものをいっしょに見つめること。 そんな簡単なことを僕は、ド素人の高校生から、あらためて学んだのだった。 月に一度ほどは、近所の林さんという美容師さんがボランティアで『ミルトス』に来てくれる。入所者さんたちの散髪をしたり、肩のマッサージをしたり。全部無料だ。 林さんは、寝たきりの母親の介護経験があるという。でも、美容院を経営しながらの介護は無理で、最期は特別養護老人ホームで看取ってもらった。それから、お年寄りのために少しでも何かがしたいと、うちに来てくれるようになった。 「罪滅ぼしなのよ」と、笑って話してくれた。 今日はミチコさんが特製の椅子に座って、髪を切ってもらっている。 ミチコさんは、とてもおしゃれだ。いつもレースのショールを肩にかけて、服装が決まらない日だと、気に入るまで何度も着替えをする。 赤地に小花模様のケープをふわりと肩にかけて、輝く銀髪のような髪にはさみを入れられるあいだ、ミチコさんは目を細めて心地よさそうな表情だった。 「ミチコさん、ご機嫌だねえ」 美容師さんの声で、気がついた。ミチコさんが鼻歌を歌っているのだ。 よっぽど気持ちがいいんだなと思いながら、その場を離れようとして、僕は立ち止まった。 閉じた唇の奥から出てくる鼻歌はメロディにもなっていなくて、何の歌かなんて、聞いただけではわからない。 かろうじて、リズムがそれっぽかっただけ。 それでも、それが何の歌かわかったのは、赤いケープが闘牛士みたいだなあと僕も思っていたからなのだ。 『トレアドール、 構えろ、 トレアドール、 トレアドール 戦いのさなかに黒い瞳がおまえを見つめる夢を見よ そして 愛がおまえを待っている夢を トレアドール、 愛が、 愛がおまえを待っている! 』 ビゼーのオペラ『カルメン』に出てくる「闘牛士のテーマ」だ。 僕は、腕の皮膚が軽くあわ立つのを感じた。周囲にはりめぐらされていた透明な糸に、ふいに気づいたという感覚。その糸が次々とハーモニーを奏ではじめたという感覚。 ミチコさんは赤いケープを見て、カルメンの闘牛士を連想した。そして、その歌を今思い出している。 僕は、パソコンのところへ飛んでいって、ミチコさんのデータを出した。 『昭和○年 ○○音楽大学声楽科卒』 そう。ミチコさんは結婚するまで、プロの歌手だったのだ。 そのことをスタッフは知っているから、ときどきミチコさんをカラオケルームに誘い、童謡や歌謡曲を「いっしょに歌いませんか」と誘うのだが、一度も加わろうとしたことはなかった。 「もう、歌えませんのよ」 穏やかに、でも頑なに拒むミチコさんの姿に、認知症は声楽家から歌まで奪ってしまったのかと悲しく思っていた。 でも、もしかしたら。ミチコさんは今でも、歌いたいと思っているのかもしれない。 僕はその夜、山名さんの許可を得て、ミチコさんのご家族に電話をした。 「はい。確かに母は若い頃、舞台に立ったことがあるらしいです」 電話口に出てくれたのは、ミチコさんの長女にあたる娘さんだった。 「その舞台は、『カルメン』ではありませんか」 「どうでしょう。あ、そういえば、写真を見せてもらったことあります。そんな感じの衣装でした」 見つかった。僕は拳をぎゅっと握りしめた。 入所者さんが時間旅行に旅立つ瞬間を、やっと見つけたんだ。 音楽療法士の堂島さんが、その日の午後のプログラム担当だった。 『音楽療法士』とは、国家資格ではなく、いくつかの県で認められている民間の資格者だ。 音楽を聞かせたり一緒に歌うことで、高齢者や障害のある人たちとのコミュニケーションをはかり、リハビリにつなげていく。すらりとした中年男性の堂島さんは、自宅でピアノや声楽を教えるかたわら、ボランティアでときどき『ミルトス』にピアノを弾きに来てくれていた。 いつもは入所者さんの顔を見ながら童謡や昔の歌謡曲を即興で選んでくれるのだが、その日はあらかじめ、弾いてほしい曲を僕がリクエストしておいた。 堂島さんはピアノを弾きながら、朗々としたテノールで『オーソレミオ』、『帰れソレントへ』などのカンツォーネを歌う。 ミチコさんは、いつもと様子が違っていた。すぐに興味をなくして、そわそわしだすのに、今日は針金が背中に入っているかのように、ぴんと背筋を伸ばして、ピアノをじっと見つめている。 『闘牛士の歌』が始まると、僕は扉の陰から走って登場した。赤い膝掛け毛布を斜めに肩にかけ、細長くつぶした帽子を被って、おもちゃの刀を高くかかげる。 入所者さんよりも、スタッフが笑いころげて椅子から落ちそうになっている。ピアノに向かう堂島さんの肩が痙攣している。 『トレアドール、 構えろ、 トレアドール、 トレアドール』 この数日、ネットの動画サイトをあさりまくって猛練習したのだ。 ふん、幼稚園免許をなめるなよ。ピアノの試験だって高成績でパスしたし、その気になればオペラだって歌えるんだ。 ミチコさんが、ぽかんと口を開けて、僕を見ていた。 次は、高校時代の詰襟に着替えて、軍人のドン・ホセに早変わりだ。もうこうなったら、失うものは何もない。 『カルメン、カルメンシータ』 と大声で叫びながら歩き回り、ミチコさんの前で立ち止まって手を取った。 隠していた造花を一本取り出して、皺だらけの手に握らせる。 『おまえが俺に投げたあの花は 営倉でも俺の手元にあって しなびてひからびてしまってもその花は いつまでも甘い香りを失わなかった 』 青白いミチコさんの頬がほんのりと紅く染まった。目は見開かれ、うっとりと遠くを見つめるかのごとくに顎を持ち上げる。 その表情は、思わず見惚れて次の歌詞が忘れて出てこなくなるくらい、きれいだった。 そのとき突然、ミチコさんの縦に大きく開いた唇から、ほとばしった。空のように澄みきった、とても美しい声。 ”Et pendant des heures entieres, ” フランス語、でも後の歌詞が続かない。 『まぶたを閉じた目の上で 俺はその香りに酔い 』 僕が日本語で続きを歌うと、また口を開けて喉を震わせる。でも声にならない。 堂島さんが見かねて、いっしょに歌ってくれた。 "Et je ne sentais en moi-meme, ” 微笑むミチコさんの目から、涙があふれている。 堂島さんは、情熱的に音階を駆け上がった後、ピアノを弾く手をぴたりと止めて、後はまかせたという顔で僕を見た。 ミチコさんを励まし、何度も何度もつかえてはやり直しながら、とうとう僕とミチコさんは最後の一節をささやくように歌い終えた。 『カルメン、ジュテーム!』 満場の拍手の中、僕とミチコさんはホセとカルメンになりきって、自然に互いを抱きしめていた。 次の週末、ミチコさんの娘さんが面会に訪れた。例の舞台写真を持ってきてくれたのだ。 白黒の古びた写真の中で、ミチコさんはその他大勢の群集の中のひとりだった。名前のある役をもらったことはないらしい。 それでもミチコさんにとって、『カルメン』は人生最高の舞台だった。すべての役のすべての歌をフランス語の原語で覚えていて、ときどき子どもたちに歌って聞かせていたと言う。 お母さんといっしょに『花の歌』を歌ったことを言うと、娘さんは、「そうですか。母が……うれしかったでしょうね」と涙ぐんでいた。 ユニットリーダーから戻ってきた日報には、ひとこと、『よくやったよ』の文字と、大きな花マル。 それから、何かが変わったわけではない。ミチコさんは相変わらず、コーヒーを注ぐたびに「ありがとう。おいくらですか」と訊ねる。 そのたびに、「いえ、お気づかいなく」と答える。 でも、あのときのミチコさんの晴れやかな笑顔は、舞台の中央に赤い衣装を着て立つ華麗なカルメンだった。 僕は確かに、それを目撃した。 第四章 うちのユニットには、ふたりのマサコさんがいる。字は違うけど同じマサコさん。 それぞれ離れ小島のように自分の好きな場所に座っている入所者さんが多い中で、このふたりだけは、いつ見ても姉妹のように一緒にいる。 原則、うちのホームは入所者さんを名前で呼ぶことになっているが、どうしても区別して呼ばなければならないときは、フルネームを呼んでいる。 でも、実はスタッフはひそかに、ふたりを「オオマサ」「コマサ」と呼んでいたりする。 「オオマサ」のマサコさんは、どちらかと言えば小柄な人だが、とても活発で明るい人で、介護度も『要支援2』と、うちの中では一番軽い。何よりもムードメーカーで口が達者で、この人を中心にうちのユニットは回っていくことが多かった。 それに対して、「コマサ」のマサコさんは何をするのも受身で、いるのかいないのかわからないほど、おとなしい人だ。 オオマサさんは、そんなコマサさんのことが、いちいち甚く気になる様子で、何くれとなく世話を焼く。折り紙の紙を選ぶときも、「あなた、こっちの色がいいわよ」、おやつのときも「あなた、これ美味しいわよ。食べなさい」という具合。 それに対してコマサさんは、「そうねえ、そうする」、「うん、ありがと」と、まったく自分の意志を示さない。 僕は見るに見かねて、「これじゃ、あんまり可哀そうじゃありませんか」と、山名リーダーに進言したことがあった。 こんな一方的な主従関係のままでいたら、コマサさんは自分で自分のほしいものを選ぶことすらできない。どちらかユニットを替えて引き離してあげたほうが、コマサさんにとって良くはないか。 だけど山名さんは、あっけらかんと答えた。 「だめだめ。ユニット替えなんかしてごらん。オオマサさんは一気にガックリきて、ぼけちゃうよ」 僕は「えっ」と聞き返した。「オオマサさんが?」 「オオマサさんがコマサさんに頼りきってるの。人の世話を焼いていることで、自分を保っている。コマサさんのほうがむしろ、自立してるよ。何でも先回りして世話を焼かれて、どうでもいいことは全部選んでもらって、かえって楽チンだと思ってるんじゃない? 肝心なところは絶対に譲らないもの」 「そんな……ものですか」 「お年寄りを舐めちゃだめ。けっこう、したたかよ。大正、昭和の激動の時代を生き抜いてきた人たちばっかりなんだから。人生経験では、ユルくんのほうが絶対に負ける」 そりゃ確かに、僕の人生経験なんて、たかだか二十三年だけど。 たかだか二十三才の若造が、七十、八十すぎた人生の先達に偉そうな態度で接している。幼稚園教諭なら、それで良かった。相手は四歳や五歳の幼児なんだから。 「私たちはお世話してるんじゃなくて、お世話させてもらってるの、我慢してるんじゃなくて、我慢してもらってるの」 山名さんはいつも、口ぐせのように言っている。 そんなことわかっている。わかっていると言いながら――傲慢だったのかもしれない、僕は。 ユキエさんの帰宅願望は、なかなか収まらない。 今日も、紙袋に洋服をいっぱい詰め込んで、帰る準備をしている。紙袋がないと、ゴミ箱からビニール袋を拾ってきて詰める。 隙を見て、ケアスタッフが洋服をクロゼットに戻す。日勤は毎日、この作業に時間を取られるようになった。僕もユキエさんの服の柄まで全部覚えてしまった。 当然、スタッフミーティングでも、この問題が出る。 「前はよくあったけど、しばらく収まっていたのにね」 ベテランの玉木さんが言うと、ミホさんがうなずく。ミホさんは介護福祉専門学校卒なので、同い年だけど僕の二年先輩になる。「前のときも言ってたよ。息子が学校から帰ってくるって」 「何かがきっかけで、昔のこと思い出しちゃうのかな」 「きっかけって、どんな?」 「食べ物の味とか。匂いとか。そのとき流行ってた音楽とか」 ケアプランや連絡ノートを見て、ああだこうだと議論を交わしながら、スタッフたちは、あることに気づいた。 ユキエさんの帰宅願望がひどかったのは、ちょうど一年前の今ごろ、つまり入梅のころだったのだ。 「カギは季節だったんだね」と、みんな魔法にかかったような面持ちで、互いの顔を見つめ合った。 痛いほどまぶしい陽射し。透明な空気。ふと空が翳りを帯び、湿気をはらんで吹き始める風。落ち始めた大粒の雨に揺れる大輪の紫陽花。 何月の何日か、日付が全然わからなくなっても、ユキエさんはちゃんと季節の訪れを感じている。そして、それとともに、身の置きどころのないほどの思いに突き動かされて、家に帰りたがっているんだ。 ユキエさんの息子さんは、一月に一度、必ず面会に訪れる。 それも、必ずと言っていいほど、判で押したように第一土曜日。よくそこまで徹底するなと感心するとともに、何か事務的なものを感じてしまう。 お土産の和菓子でいっしょにお茶を飲み、十五分ほどポツポツと途切れがちな会話を交わしたあと、スタッフがユキエさんをトイレに連れていくあいだに、あわててこっそりと帰っていく。 その後ろ姿は、何かとても悪いことをしているかのようだ。この人だけではない。面会に訪れるご家族はみな大なり小なり、罪悪感を感じているように見える。 「傷つくんだよね。『こんなひどいところに大切なお父さんやお母さんを預けてしまって、ごめん』っていう顔で帰って行くのを見ると」 週末のたびに、ミホさんが憤慨したように言う。「私たちが働いてるところって、それほどひどいところなのかな。世間の人はみんな、そう思ってるのかな」 「しかたないですよ。子どもたちが親を看るのが正しいあるべき姿だと教えられてきたんだから」 「誰かひとりくらい、胸を張って宣言してくれないかなあ。『お母さん、ここはお母さんにとって最高の場所ですよ。地上の楽園です。僕たち子どもたちが一生懸命さがして見つけたんです。だから、お母さんも安心して、老後の生活を思い切りエンジョイしてください』って」 「あはは。さすがにそれは無理があります」 「私たちスタッフも、暗い顔して、『人手が足りない、あれもダメこれもダメ』って言ってるからダメなんだよね」 地上の楽園か。 本当に、そうなってくれれば、どんなにいいか。 「それにしても、ユキエさん、あれほど息子さんに会いたがっていたのに、あんまりうれしそうじゃないですね」 「たぶん、会いたいのは小学生の息子さんで、中年おじさんになった息子さんじゃないのよ」 その中年おじさんの息子さんは、面会のあと外の談話室で、山名さんとしばらく話をしていた。 山名さんは、ちょっと疲れた顔で入ってきた。 「何か飲みますか」 「うん、冷たいものちょうだい」 僕はペットボトルのコーヒーをコップに注いでテーブルに置いて、向かいに座った。 「ユキエさんが、この季節になると帰宅願望が出るって話したの。なぜか息子さんの身を、とても気にしてると」 山名さんは、遠くを見るような目で言った。 「心あたりはあるっておっしゃった。小さいとき、ささいなことでひどく叱られて、一晩じゅう縁側に出されて、家に入れてもらえなかったことがあるんですって。夜中に雨が降り出して、ずぶぬれになって、肺炎になって死にかけたと」 「ひどい……」 山名さんは首を振った。 「今なら、ひどい話よ。でも、あの頃って誰もが生きるだけで必死な時代だった。余裕がなかったんだって思う。ユキエさんは、梅雨の頃になるたびに、そのことを思い出して、はげしく後悔なさってきた。そして息子さんも」 こくんと、コーヒーを飲む。 「お母さまとの関係の中で、ずっとわだかまりがあったのかもしれないって言ってらした。奥さまの反対を押し切って、お母さまをここに入れたのは、もちろんご家族のために良かれと思ってした選択だった。でも本当は、心の奥にしまわれた、子どものころの怒りのせいだったんじゃないかって――自分を責めていらっしゃる」 「どうして」 やりきれない思いだった。どうして、針の先ほどの小さな過去の過ちが、大きなシミとなって人の一生を縛りつけてしまうのだろう。 相手を思いやり、愛そうとしているのに、心はガチガチにこわばって、互いに気持ちが届かない。認知症でいろいろなことを忘れてしまっても、心の痛みは消せない。 もう本当に、過去のあやまちは取り戻せないのだろうか。 もしかすると、認知症の時間旅行なら、過去に戻れるんじゃないだろうか。 翌週の土曜日、僕たちは入所者さんたちをワゴン車に乗せて、ドライブに出かけた。 『ミルトス』では月に一度か二度、花見や、眺望の良い場所に出かけている。 その日は、隣の市にある、あじさい園の散策だった。 生憎の小雨模様。僕たちは展望台まで上がり、レストランでお茶を飲むことになっていた。 僕はユキエさんの乗る車椅子を押して、一階の駐車場にエレベータで降りた。 「ユキエさん、ちょっとみんなと別行動して、付き合ってほしいところがあるんです」 駐車場の出口のところに、小学校低学年くらいの男の子が立っていた。 薄い光の雲から、霧のような小雨が落ちてくる。あじさいの花のほの明るさを背に、男の子は生真面目なまなざしで、じっとこちらを見つめていた。 「あれ、誰でしょうね」 「あ」 ユキエさんの、ぼんやりしていた表情が少し変わった。静かな水紋の中から何かが跳ねたのを見たときのように。 「……ヒデユキ?」 僕は、必死で立ち上がろうとするユキエさんを助け起こした。 「あの子、あんなところに立ってたら濡れちゃいますね」 さりげなく言い添えながら、傘を広げた。「この傘、差してあげましょうか」 介助しながら、一歩一歩ゆっくりと歩く。 「どうぞ」 ユキエさんは、男の子に傘を差しかけた。皺だらけの顔に、とてもやさしい笑みが広がる。「かわいい……」 「ユキエさんは、ヒデユキさんのことが、とてもかわいいんですね」 「……はい」 「大切ですか」 「たいせつ……一番たいせつ」 ユキエさんの目に涙が光っている。 「そうですか」 自動車の陰に、本物の、中年おじさんのヒデユキさんが立っていた。 車椅子に戻ったユキエさんをミヤコさんに託してから、僕は近づいた。 「お電話をさしあげた野瀬です」 「母がお世話になりました」 互いに会釈する。 「甥の子どもを借りたんです」 両親のもとに駆け寄った男の子を見やりながら、息子さんは言った。「年賀状の写真を見るたびに、子どもの頃の僕によく似ていると思ってました。母には今の僕がわからなくても、あの子なら僕と思ってくれるんじゃないかと」 その声は、今日の雨のように柔らかく濡れている。 「お母さまは、あなたのことが、一番大切だとおっしゃいましたよ」 「ありがとうございます」 六十近い息子さんは、ハンカチで目を拭うと、深々と頭を下げた。 ユキエさんの帰宅願望は、それから一応、なりをひそめた。 「梅雨が終わったからかもしれないよ」 山名さんは、お風呂介助で汗まみれになった全身をうちわでパタパタ扇ぎながら、僕を脅かすように言った。「また来年の梅雨になったら再発するかも。人間の罪悪感って、ぬぐってもぬぐっても、そう簡単に消えるものじゃない」 いい気になっている僕に、ちょっぴり釘を刺したのだろう。僕は少し口ごもったが、 「そしたら、また、思い出してもらいますよ」 と胸を張った。 山名さんは、「やれやれ」と言った。「ヘンなヤツを調子に乗せちゃったなあ」 何度でも、思い出してもらう。ユキエさんが息子さんを愛してること。息子さんがユキエさんを愛していること。 それだけは、人間が生きていくうえで、決して忘れてはいけないことだから。 第五章へつづく 「カルメン」の歌詞は、「オペラ対訳プロジェクト」よりお借りしました。 「ペンギンフェスタ2012」テキスト部門参加。 なお、このお話はフィクションであり、ファンタジーです。実際の認知症患者およびグループホームの実情を描写するものではありません。 |