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第八章 「ツトムさん。出陣式ですよ。起きてくださーい」 今日も、各部屋の入所者さんをひとりひとり揺り起こして、一日が始まる。 寒くなるにつれて、みんな、なかなか起きようとしてくれない。そりゃ僕だってこんな寒い日は、寝てられるものなら、いくらだって寝ていたいよ。 それに、日の出が遅くなって、あたりが薄暗いのも、みんなが起きようとしない原因のひとつだ。夏至のころは四時半に起きていた人も、今はすっかり寝坊になっている。 太陽が昇るとともに起き、太陽が沈むとともに寝る。 本当は、それが人間らしい生活なのかもしれないな。時計というものを発明してから、人間は自然のあり方を無理やりねじまげているのかもしれない。 でも、そんなことを言っていたら、僕たちの仕事が始まらない。早番や日勤の人にも迷惑をかけてしまう。 「ヒサコさん。がんばって起きたら、『おこた』が待っていますよ。ね、他の人より早くご飯を食べて、おこたに入りましょう」 と最後の手段を使うと、ヒサコさんはむくりと起き上がった。 この冬から、『ミルトス』のリビングには、コタツが入った。 「フローリングにベッドにテーブルではなく、畳の部屋に布団にこたつ。それが入所者さんが昔なじんできた暮らしだったはずです」 ケアスタッフの勉強会で、さんざん討議した。 このあいだの合宿で、リビングに集まって雑魚寝した『合宿』は、入所者さんには評判が良かったようだ。 「あれ、楽しかったよ、ユルくん。またやってちょうだい」 ほとんどの人は、合宿のことを忘れてしまっているものの、オオマサさんやシズさんは、いまだに僕にそう言ってくれる。 「ベッドは落っこちそうで、どうも好きじゃない。畳にお布団が一番落ち着くよ」 それでも、足腰の弱っている人には、すぐに起き上がれるベッドが一番良いのも確かだ。畳をリビングの一角に敷くことも検討したが、畳のへりにつまづく事故も考えられる。 それじゃ、せめて、この冬はコタツを導入しようということに話がまとまった。 コタツと言っても、椅子で座れる洋風コタツだが、それでも入所者さんたちは大喜びだ。 六人定員のコタツは早いもの勝ちで、いつも満員。コタツを占拠するために、入所者さんたちの動作も心なしか、きびきびしてくる。 「あー。あったかいよー」 「ユルくん。みかん」 「はいはい」 「早く、ババ抜きしよう」 みんな生き生きして、自然と会話がはずんでくる。あたたまって気分がほっこりすると同時に、不思議な安心感があるのが、コタツマジックだ。 「マサちゃん。冷蔵庫にプリンあるよ。お食べ」 一歩出遅れたオオマサさんが、コマサさんを食べ物で釣って席を譲らせようとしている。コマサさんは「はいはい。あとでね」と軽くいなしている。ゴロウさんはぐいぐいと席を奪おうとするが、ツトムさんは必死で押し返す。 「あはは。頭脳戦、肉弾戦入り乱れてるね」 と山名さんは、楽しそうに笑った。「けっこう、けっこう。生存競争も大切よ。なにもかも行き届いて、準備されて与えられた中では、誰だって生きる意欲なんか湧かないもの」 玉木さんも、同意してうなずく。 「そうそう。昔から、『嫁との仲が悪いと、お姑さんはボケない』って言われてたの。バトルが人間を強くするのよ」 「そんなものなんですか」 僕たちの世代は学校で、「平等はすばらしいこと。競争はいけないこと」と教えられて大きくなった。けれど、不平等も競争も、人間が生きる意欲を引き出すためには必要なのかもしれない。 でも、人権や尊厳が満たされているという前提があるから、不平等も競争も意欲になりえるのではないか。 本当のひもじさと寒さの中で、わずかな暖かさを奪い合うのだとしたら――それは、どれほど悲惨なことなのだろうか。 『ミルトス』では入所者さんが交替で買い物に行くことになっている。 特に女性にとって、買い物は何よりの娯楽であり、ストレス解消なのだそうだ。行く先は近隣のスーパーで、買うものはお菓子や飲み物類、歯みがきや化粧品など。 今晩の夕食のための、食材の買出しもお願いする。 今日の買出しメンバーは、ツトムさんとヒサコさん、シズさん。それをミヤコさんと僕のふたりのスタッフが付き添う。 ツトムさんは愛用の歩行器、ヒサコさんとシズさんは買い物カートを頼りに歩く。スーパーまではほんの五分の道のりだが、十五分はかかる。 「ヒサコさん、何を買いましょうか」 まずは、ゆっくり通路を歩きながら、あれこれ品物を見て回る。 入所者さんにはそれぞれ、こだわりの品物というのがあって、たとえばヒサコさんは、買い物に行くたびに必ず洗顔フォームを買い物カゴに入れるので、個室の洗面台にはもう五年分くらいの洗顔フォームが貯まっていたりする。 気をそらしている間に、こっそりスタッフが棚に戻すこともある。このへんの技は、ミヤコさんがすごくうまくて、ぱぱぱっと手際よく元の場所に戻す手腕は、さすがベテラン主婦だなあと思う。 「これ買っちゃいけませんとか叱ったらダメ。よけい、同じものを買うようになるから」 と、後輩の僕に教えてくれる。「買うことで気持ちを満たしているんだから、それを否定されたら、せっかくの気持ちが満たされなくなっちゃうよ」 「気持ちを満たす、かあ」 その言葉は、すごく納得できた。 人間の気持ちは、ほんとうは品物では満たされない。人が何かをほしいと思うとき、それは、品物そのものよりも、気持ちを満たしているのではないか。 認知症の人たちは、そういうものが敏感に見えているのだ。品物を買ったことはすぐに忘れてしまうけど、自分の心がバカにされたり否定されてしまうことは決して忘れない。 僕たち健常者と呼ばれる人間は、普段どれほど気軽に、他人の心を否定しながら生きているのだろうか。 買い物が終わり、家路につくとき、誰ともなく空を見上げた。 冬の青空は、秋の色とは違う。レースのカーテンを透かして覗くような、あの柔らかな青色ではなく、どっしりとした存在感のある青色。午後になると重い雪雲に取って代わられる、つかの間の自己主張。 その青いキャンバスを横切るように、軽飛行機がかなり低い高度を飛んでいた。真っ白な小型の双発機だ。 「めずらしいですね。自家用かな。この近くに飛行場ってありましたっけ」 つぶやいてから、入所者さんたちを見て驚いた。 ツトムさんは、ぽかんと口を開けて、「わあ、わあっ」と力ない奇声を上げている。そして、ヒサコさんはうずくまり、両手で顔を覆って震えている。 「どうしたんじゃろか」 あまりに異様な光景に、シズさんも当惑しているようだ。 ミヤコさんは、「ユルくん。応援呼ぼう!」と、すぐに携帯を取り出した。 すぐに、ホーム長の広田さんが運転するワゴン車で、僕たちは『ミルトス』に無事に帰りついた。 ツトムさんはすぐに、いつものようにボーッと黙り込んでしまったし、ヒサコさんも、慣れた椅子に落ち着いたとたん、けろっと何が起きたのかも忘れてしまっているようだった。 「買い物のときは、特に変わった様子はありませんでした」 ミヤコさんと僕は、すぐに家から駆けつけたユニットリーダーに報告した。 「ただ、帰り道で、小型の飛行機がずいぶん低く飛んでいるなって、空を見上げただけなんです」 「飛行機ねえ」 山名さんの相槌に、僕は「あ」と叫んだ。 「そう言えば、ショウコさんも『飛行機が怖い』と言ってましたよね」 「ツトムさんとヒサコさんも、低空飛行している小型機を見て、空襲の記憶がよみがえったのかしらね」 ショウコさんのご家族に聞いたところ、ショウコさんは確かに、空襲にあったことを息子さんたちによく話していたそうだ。 太平洋戦争末期、日本の主要都市は軒並み、B29の絨毯爆撃を受けた。 逃げまどう人々に浴びせられる機銃掃射。ナパーム焼夷弾の爆発が火の垣根となって逃げ場を奪い、なすすべなく焼け死んでいく人々。 ショウコさんの入った防空壕は無事だったが、ほかの防空壕が爆弾の直撃を受けて、亡くなった友だちも何人もいたという。 「防空壕から出たら、空から黒い雨が降ってきたんだよ」 と母親が語った恐ろしい光景は、子ども心にしっかりと焼きついたと、息子さんが語ってくれた。 大正、昭和初期に生まれた人々、ちょうど今、高齢で介助を必要としている方々が、戦争の恐怖を鮮明に味わった最後の世代になるのかもしれない。あと二十年も経てば、戦争体験というのは、映像でしか語られることはなくなるのだろう。 「ツトムさんは、兵隊に行かれたことがあるんでしょうか」 無口な人なので、僕たちスタッフは誰も、ツトムさんの思い出話を聞いたことがなかった。 「今度、ご家族が面会にいらしたときに、少し話を聞いてみようか」 山名さんの提案に、僕たちは「はい」とうなずいた。 「それにしても、シズさんはカッコよかったなあ」 買い物に同行していたシズさんが、呆然としているツトムさんとヒサコさんを「しっかりしんさい」と叱咤激励し、車に乗ってからも、ヒサコさんの背中をあやすようにポンポン叩いてくれたのだ。 「なんだか、みんなのお姉さんという感じで」 「シズさんって、五人兄弟の長女さんらしいわよ」 「道理で、しっかりしているわけだ。小さい頃から、弟や妹をあんなふうに面倒見ていたんですね」 「戦争に飢えに貧困。今の私たちには想像もつかないほど大変な、あの時代の日本を背負って立っていたのは、こういう方たちなのよ」 『認知症が進んで、どんなに人格が変わってしまっているように見えても、必ず本当のその人の姿が垣間見えるときがある。光り輝くようなその人の本質が、生き様が透けて出てくる』 以前、山名さんがそう言っていたことがあった。 本当なんだ。 僕たちケアスタッフは、宝玉のように豊かな人生を送ってきた人たちを、こうしてお世話させてもらっている。認知症という曇りガラスの檻に入れられて見えなくなっている貴重な宝を、ときおり手に取って見ることが許されている職業なんだ。 何日かして、僕は夜勤に当たった。 明かりをしぼったリビングには、屋上庭園に面した窓から、冬の冴え冴えとした満月の光が射し込んでいる。 時計が11時を告げるころ、僕はヒサコさんの部屋に向かった。 「ヒサコさん。そろそろおトイレ行きましょうか」 分厚いカーディガンを羽織ってもらい、トイレまで誘導する。 人によっては十二時間近い就寝の時間があるので、朝までに必ず一回、多い人で三回も四回もトイレに行く。 自分で勝手に起きてくれる人、コールボタンでスタッフを呼ぶ人、こちらで時間を見はからって起こして連れて行く人と、さまざまだ。 トイレから帰ってくる途中、ツトムさんが歩行器を押して歩いてくるのに出会った。 「ツトムさんも、おトイレですか」 僕が声をかけると、彼は無言のまま窓に近づいた。煌々と光る満月を、しんとした眼差しで見上げる。 「お月見ですか。窓のそばは寒いですよ」 僕は、自分の着ていたジャンパーを脱いで、ツトムさんの肩にかけた。ヒサコさんは、ツトムさんの後ろ姿をぼんやりと見ている。 「綺麗な月ですね」 僕が言うと、ツトムさんは、くぐもった声でつぶやいた。「みんな、泣いておった」 「誰が泣いていたんですか」 「桜島にかかる月を見ながら、みんな泣いておった。あくる日、どの機も、桜島の上で旋回して飛んでいった」 「特攻隊の飛行機から、最後に桜島が見えたんですね」 鹿児島県の桜島のことだ。ツトムさんは桜島で終戦を迎えたと、ご家族から聞いた。 およそ六十年前、アメリカ軍が沖縄に侵攻して以来、桜島の近くにある鹿屋航空基地からは九百名に及ぶ神風特攻隊が出撃し、海に散っていったそうだ。 「そう言えば、ヒサコさんは戦争中、戦闘機を磨いていたんですね」 これも、ご家族に聞いた話だ。ヒサコさんは中学校のとき、勤労動員に行ったさきの軍需工場で、戦闘機に積む機関砲を組み立てていたのだ。 これを積んで特攻隊員は、命を懸けて鬼畜米英を攻撃に行くのだと聞かされ、日本は必ず勝つと、ヒサコさんは誇らしい気持ちでいっぱいだった。当時の若者は、そういう教育を受けていたのだ。 だが、戦争が終わってから、『私は、彼らが戦争で死ぬ手助けをしてしまった』と悔やんでも悔やみきれない思いをしたと。 そのとき、いつもは歩行器にすがって猫背で歩いているツトムさんが、見違えるように、すっくと背筋を伸ばして立った。 「あ」 僕の目がおかしくなってしまったのだろうか。 月明かりの薄暗がりの中で、ツトムさんは八十歳の老人には見えなかった。頭を丸刈りにし、軍服を着た若者だった。 そして、ヒサコさんのほうを見て、また驚いた。おさげ髪を背中に垂らした、もんぺ姿の少女が立っていたのだ。 ふたりは互いを見つめ、微笑み合った。 「ありがとう。あなたが磨いてくれた戦闘機のおかげで、僕たちは生きて帰ってこれました」 「よかった。ご無事で。お役に立ててよかった」 月の光がかもしだす幻は、次の瞬間、泡がはじけるように消えていた。リビングに立っているのは、やはり年老いたツトムさんとヒサコさんだった。 僕は我に返り、狐につままれたような心地で、「さあ、寝ましょう」と促した。 あれは、本当にあったことだろうか。今となっては、夢ではないという確信がない。 ふたりのご家族にもう一度確認してみて、いくつかの事実がわかった。 ツトムさんは特攻隊員ではなく、桜島の海軍司令部の通信兵だったのだ。暗号指令書を届けた鹿屋特攻基地で、多くの兵たちが飛び立って還らぬ人となるのを、なすすべなく見送ってきたという。 毎朝、スタッフは半分冗談で「ツトムさん、出陣式ですよ」と起こしていた。鎧兜の戦国武将の勇ましい出陣姿を思い浮かべていた。でも、ツトムさんにとって、それは全く別の――本当に重い重い意味があったんだ。 ヒサコさんが三重県で磨いていた部品は、実際には鹿児島の鹿屋航空隊で使っていた飛行機のものではなかっただろう。 でも、あれは、夢なんかじゃないと僕は思う。そう信じたい。 あの瞬間、確かにふたりは、六十年前に戻っていた。 『ミルトス』というプラットホームで、まったく接点のなかった人たちの過去に戻る電車の線路が、ひととき交わった奇跡。 僕は生きている限り、この夜を決して忘れないだろう。 第九章 お正月で帰省していたコマサさんが、三日の夕方戻ってきた。 「どうでした。お家は落ち着きましたか」 「何言ってんの。ここが私たちのお家でしょうが」 と、隣でオオマサさんがころころ笑うと、コマサさんも「そうだねー」と笑う。コマサさんがいなくて、ずっと寂しそうだったオオマサさんも、ようやく元の調子を取り戻したようだ。 お正月はとても楽しい行事だけど、認知症の人にとっては、状態が悪化する危険な時期でもある。 特に主婦だった女性は、おせち作りや大掃除など、年末があわただしかったことを覚えているから、じっとしていられなくなって、記憶が混乱したり、失禁などの失敗を繰り返してしまう。 『ミルトス』でも約半数の入所者さんは、お正月とお盆は家族のもとに帰る。帰る人も残された人も、どちらも非日常の不安定な状態になってしまうのだ。 全員が戻ってきて、ほっとしたのもつかのま、一大事が持ち上がった。 戻ってきたミチコさんがどうも元気がない。体温計ではかると、微熱があった。 すぐに、いつも週一回来てくれる、かかりつけの医師に往診を頼んだ。 「誤嚥性肺炎の疑いがあるね」 レントゲンを撮ることになり、ミチコさんは車椅子に乗って、『ミルトス』のワゴン車で医院に運ばれていった。 「だいじょうぶかな」 みんなで心配しながら、おやつのお汁粉を食べていると、ミチコさんは自分の足で歩いて帰ってきた。 「やっぱり、誤嚥性肺炎だったらしい」 付き添っていた山名さんが、ほっとした様子で報告した。 誤嚥性肺炎とは、唾液や胃液、食べ物や飲み物が気管に入ってしまうことによって起こる。普通そんなことになれば、僕たちならひどく咳き込んで、異物を外に出そうとする反応が起きる。しかし、高齢者はその力が弱い。しかも口の中の細菌もいっしょに肺に吸い込まれると、肺炎になってしまう。 これらの原因で引き起こされる肺炎が高齢者の死因の上位だというから、決して侮ってはならないのだ。 「抗生剤の点滴をしてもらった。とりあえずは一日二回、食後にこの抗菌薬を飲みます。しっかり申し送りをしておいて」 「はい」 「それと、誤嚥性肺炎の一番の予防策は、しっかりとした口腔ケアよ」 歯磨きとうがいで口の中の細菌を減らすことが、肺炎を防ぐ。 口の手入れができているか。トイレでちゃんとお尻が拭けているか。お風呂で体がすみずみまで洗えているか。残念ながら、家庭ではそこまで徹底して、高齢者を見守ることは難しい。 お嫁さんはもちろん、実の息子や娘、配偶者でさえも、気恥ずかしさのためにそこまでチェックはできない。それを堂々とチェックするのが、僕たちケアスタッフの役割だ。 お風呂で背中を流しながら、褥瘡(じょくそう)はないか、傷やできものはないかとチェックすることだってできる。もちろん、男性スタッフに入浴を見られるのがイヤだという人には女性スタッフが入るけれど、もう僕なんかは男性とは見てもらっていない。 「ユルくんに背中をこすってもらうと、気持ちいいなあ」 そう言ってもらうだけで、入浴介助の重労働だって報われる気がする。 「ミチコさん、早く良くなって、お風呂に入りましょうね」 声をかけると、ミチコさんは照れたように、ふとんで口元を隠して「はい」と答えた。 ある日、僕の携帯に着信が入っていた。 一年前、僕が就職を断られた幼稚園だった。こちらから電話すると、聞き覚えのある園長先生の弾んだ声が聞こえてきた。 『なんとか今年は、例年どおりの園児が集まりそうなんだ』 ――だから、もし野瀬くんさえよかったら、この四月からうちで働いてもらえないだろうか。 電話の向こうからの声を聞きながら、僕は足の裏の感覚がなくなったような気がした。 『勝手なことを言っているのはわかっている。でも、きみほどの人材は、ほかを探しても見つからないと思うんだ』 お詫びに、二年目に相当する月給を払うからと提示してくれた額は、正直言って魅力的だった。 『すぐに返事をもらおうとは思っていない。今働いている介護施設への気兼ねもあるだろう。よく考えてから……』 僕は園長先生との会話を終えてから、しばらくぼんやりと携帯をもてあそんでいた。 気がついたときは、アリサちゃんの番号を押していた。 『なんだ、ユルキャラ。どうしたの』 「……会いたいんだ。今すぐ」 五分後アリサちゃんは、自転車を全力で漕ぎ、階段を二段飛ばしで駆け上がったという有様で、白い息を盛大に吐きながら扉の外に現れた。 「どうしたんだよ、いったい。まさか……泣いてんの?」 「断っちまったんだ。幼稚園の先生にならないかという誘いを」 僕は真っ暗な台所のフローリングの上に、ずるずると座り込んだ。 「考える間もなく、即答していた。僕はこれからずっと介護の道でやっていきたいって。あれほど幼稚園の先生になりたかったのに。その夢をあっけなく自分の手で打ち砕いた。給料だって、あっちのほうがずっといいのに。親父に、なんて罵倒されるかわかってるのに」 「後悔してるんだ?」 「してるよ。めちゃくちゃ後悔してるよ! でも、なぜだか知らないけど、そうしたいんだ。『ミルトス』でずっと働いていたいんだ。自分で言ってて、自分が情けないよ。情けなすぎて、こんな弱音吐き出せるところは――きみしかないって思った」 「私は、ごみだめかよ」 アリサちゃんは笑いながら、僕の首に両腕を回して、ぎゅうっとしがみついた。 「この世の中にはね、他人を力でねじふせてでも、自分の強さを証明したいって人間がたくさんいるんだよ。でも、ユルくんはそうじゃないって、うちの母親が太鼓判を押してた。一所懸命に回りの人に尽くして、自分が傷ついてもみんなを幸せにして、それで輝く人だって」 「……僕が?」 「私もそう思う。だから、この選択はユルくんらしい。ユルくんの正しいあり方だ」 「そうかな」 「私は、正しいユルくんが、大好き」 僕はアリサちゃんの唇にそっとキスした。そうするのが、とても自然だと思ったからだ。 アリサちゃんの唇は僕をやわらかく迎え、骨抜きにして飲み込んだ。今までの迷いも、にがい気持ちも、何もかもが彼女の中で溶かされていく。 僕も大好きだよ。キスの合間に、僕はささやいた。 でも、プロポーズは、卒業までお預けだったよな。 前払いは、いつでも受け付けますわよ。 ミチコさんの具合は一進一退で、とうとう、ある朝ベッドから起き上がれなくなってしまった。 特別な病気も、劇的な症状の悪化もなかった。ただ、握りしめていた拳を少しずつ広げていくように、生きる力を手放していく。 食もほとんど取れない状態になったとき、医師は点滴の栄養だけでは限界があると、入院を勧めた。 山名さんは、僕たちを集めた。 「ここで看取ってほしいと、娘さんはおっしゃってる」 組んだ指の関節が、力をこめて白くなっている。「ご家族の希望は、できるだけ叶えてあげたい。でも、ほかの入所者さんのお世話もおろそかにしてはならない。スタッフの仕事はその分、もっともっと大変になる。今晩、ご家族との面談に臨む前に、ひとりずつ意見を聞きたいの」 「できるだけ、今ある環境を変えないほうがいいと思います」 「病院に移ることがミチコさんに良いことだとは思えません。私たちが、お世話します」 「栄養士さんと相談して、食事が何とか摂れないか工夫してみます」 山名さんはうなずいた。「うん。他の人は」 「ここは、ミチコさんの家です。最後までいっしょに暮らしたい」 「わたしも」 みんなの気持ちは、固まっていた。 僕たちは、ミチコさんを中心に、ケアプランを組み直した。 調子のいい日は、ミチコさんのベッドをリビングに運んできて、みんなでわいわい童謡を歌う会や、カルタ大会で盛り上がる。ミチコさんはいつものレースのショールを羽織って、にこにこ楽しそうに、その様子を見ている。 アリサちゃんがどこからか、真赤なカルメンの衣装を手に入れてきた。僕が闘牛士に扮して、カルメンになりきったアリサちゃんの前で「トレアドール」の歌を熱唱すると、口笛と大喝采を浴びた。 具合が悪い日は、入所者さんたちが自然に、ミチコさんの部屋に集まってくる。 いつのまにか、みんな家族になっていた。 『ミルトス』のユニットAグループ、九人の入所者さんと五人のスタッフ。ひとりだって、欠けてはいけない家族なんだ。 僕はときどき、ミチコさんの手をこすってあげた。講習に行って資格を取った、『タクティールケア』だ。 そっと柔らかくミチコさんの手を包むと、小鳥に触れているようだ。掌の中で、小さな命が暖かな光を灯しているのを感じる。腕は日に日に痩せていくけど、ミチコさんは生きようとしている。 「気持ちいいですか。ミチコさん」 「はい。ありがとう」 ミチコさんは半分まどろみながら、広い海を見渡すような表情をする。 「そろそろ、あがる時間だよ、ユルくん」 サキさんが、ぽんと僕の頭を軽く叩いた。「なに、むずかしい顔して考え込んでるの」 「そう言えば、以前サキさんが言ってたことありましたよね」 『清潔なお部屋で気持ちよく起きてもらって、おいしくご飯を食べて、気持ちよくトイレして、お風呂でさっぱりしてもらう。それでいいと割り切るしかないんだよ』 「私、そんなこと言ったっけ」 「言いましたよ。僕、正直言って、それを聞いたとき悲しくなった。動物園の飼育係と同じじゃないかって。でも、そうじゃなかったんですね」 最後まで、その人が一番心地よい生活ができるというのが、ケアの基本だ。人間の尊厳は、その上に成り立っている。 たとえ、言葉が出なくなっても、子どもの顔を忘れてしまっても、おむつになっても、その人の尊厳がなくなったわけじゃない。人は、「なにかをできる」から尊いんじゃなくて、そこにいるだけで尊い存在なんだ。 「僕は、入所者さんが好きだから、好きな人には心地よく笑ってもらいたい。そんな単純なことでよかったんですね」 サキさんは、また僕の頭をぽんと叩いた。 「ユルくん、大きくなったね」 「もとから大きいですよ、体だけは」 「私はね」と、サキさんは目をうるませながら続けた。「クリスチャンだからかもしれないけど、人間の尊厳を決められるのは、神さまだけだと思ってる」 「はい」 「その人が一生懸命に生きてこなかったから、ボケちゃうというのは嘘。認知症は脳の病気。それなのになぜか、本人も家族も責められるんだよ。こういう生活をしたのがいけなかった、回りの対応が悪かったって」 もしかしてサキさんも、認知症の家族を介護した経験があって、つらい思いをしてきたのだろうか。 「認知症は、神さまからの贈り物だって胸を張って言える日がきてほしい。その人がその人らしく生き終えるために、神さまがくださった最後のごほうびなんだって。回りの無理解で、それを台無しにしちゃダメなんだって、心の底から叫びたいよ」 その一ヶ月は、今思い出しても天国のようだった。体はへとへとに疲れていても、心は大空を飛んでいた。 「母を管だらけにはしないでください」 ミチコさんの娘さんの希望もあって、栄養の点滴もはずし、あとは鼻の酸素チューブと導尿のドレインだけになった。お医者さんは、できるかぎり暇を見つけては、『ミルトス』に様子を見に来た。 果汁のゼリーを少しずつ食べてもらうと、「おいしい」と言ってくれた。 音楽療法士の堂島さんが、カルメンの『花の歌』を、ミチコさんのベッドのそばで歌った。 『色あせたその花 牢屋でも抱きしめていた 枯れ果て褪せても 香りは消えない』 ミチコさんがやさしい笑顔を浮かべるのを見て、堂島さんの目に涙が光った。 美容師の林さんも来て、あやすように語りかけながらミチコさんの髪をきれいにし、頬紅をさした。 「ミッちゃん」 「がんばりなよ」 入所者さんも、かわるがわるミチコさんの手を握った。九十九匹の羊が集まって、一匹の羊のことを案じている。 最期と宣告された二日間は、娘さんとお孫さんが、ミチコさんの部屋に泊まって添い寝をした。 とうとう、医師と看護師と家族以外の人間は、部屋の外へ出なければならない時が来た。 「ミチコさん……」 入りたい。そばにいてお別れを言いたい。ミチコさんの手をさすってあげたい。 「ユルくん、我慢しなさい。最期の時間は家族のものだよ。私たちはその中に入ってはいけないの」 最年長の玉木さんが、僕の心の中を見抜いて、厳しく言った。 就寝の時間になっても、入所者さんは誰も寝ようとしなかった。リビングの椅子に座って、言葉もなくただ座っている。 ミチコさんの部屋の扉が開いた。 看護師さんが急いで出てきて、僕たちを見て、かすれた声で言った。 「ミチコさんがみなさんに会いたいと、言っておられます」 中に入ると、ミチコさんはもう意識をなくしていた。レースのショールと赤いカルメンの衣装が布団の上に掛けられ、微笑の名残が白い頬に浮かんでいた。 みんな泣きながら、ただじっと、ミチコさんを見つめた。 ありがとう。ミチコさん。 この『ミルトス』で、僕たちはミチコさんと、短いけれど楽しい時を過ごした。ほんとうに、楽しかったよ。 人生の終わりには、こんなにも穏やかで、こんなにも美しい旅立ちが用意されているものなんだね。 僕たちは、ただじっと立ち尽くしながら、ミチコさんを乗せた電車がプラットホームを静かに離れるのを、いつまでもいつまでも見送っていた。 第十章(終) 告別式がすんで、一週間が経った。 からっぽになったミチコさんの部屋には、ミホさんが今も花瓶に花を生けている。 でも、入所者さんの中には、「ミチコさん」と言ってもピンと来ない人も出てきた。 「ミチコさんですよ。いつも白いショールを羽織っていらした」 「誰だったかねえ」 思い出を哀しみといっしょに忘れることは、認知症の人たちの特権なのかもしれない。 会議から戻ってきた山名さんは、疲れをにじませた様子で腰をおろした。僕は、インスタントコーヒーを入れたマグカップをさっとテーブルに置いた。 「新しく入所する人が決まった」 「もう?」という、僕の口だけの動きを見て、山名さんは「うん」と、口をへの字に曲げて返してきた。 「言いたいことはわかる。でも、うちは九人定員のユニットなの。永久欠番している余裕はない」 冷たい言葉の裏で、山名さんが心からミチコさんの死を悼んでいるのはわかっている。 「何年この仕事をやっても、慣れるなんてことはないね」 『ミルトス』で行なわれたミチコさんの告別式。ご家族と、ユニットの入所者さんとボランティアさんとスタッフ全員が参列した席で、山名さんがポツリとつぶやいたのを僕は聞いていた。 山名さんは、介護の仕事に携わるようになってから、十年が経つと聞いた。十年間に僕はいったい何人の出発を、このプラットホームから見送ることになるのだろう。 「わかりました」 「みんなと協力して、準備を整えてね。名前は、ヒロコさん。お嬢さま女学校の元校長先生、五十年間教育ひとすじでやってこられた方よ」 「そりゃ、筋金入りですね」 「これが、ご家族から提出された申込み書。すぐに必要書類を作って、ホーム長に届けておいて」 山名さんは、ファイルに入った書類の束をぼんと僕に渡した。 「こっちだって仕事中なのに、人使い荒いですよ」 「自分の息子になる男に、誰が遠慮なんかするか」 僕は、「うわ」と頭をかかえた。「もうバレてるし」 「プロポーズしたんだって? アリサは何て答えたの」 「分割払いでイエスだって。いつでも解約可能なんだそうです」 「それがいいわ。もしかすると大学で、もっと将来性のある男に出会えるかもしれないしね」 「……ひどい」 山名さんは、視線をどこか遠くに移して、ほほえんだ。 「あの子がねえ。あれほど男性恐怖症だったのに、男と寄り添う日が来るなんて思わなかった」 その声は、どこか少し寂しそうだ。無理もない。ずっと長いあいだ、母娘ふたりで苦しみを分かち合って、生きて来たのだから。 山名さんは再婚しないんですかと訊きかけて、口を閉じた。それは僕が関わっていいことじゃない。 昼食後の小休止を利用して、事務スペースのパソコンを叩いていると、携帯が鳴った。 アリサちゃんだ。 『あろー。これから五限目の授業。終わったらそっち行くよ。ユルくんは?』 「早番だから、五時前にあがれる」 『じゃ、花金だしメシでも食いに行く? 給料日前だから、飲茶セットで手を打つ』 僕は急いで書類を作成すると、ホーム長のところに、署名と判をもらいに行った。 グループホームの入所手続きには、いろいろな書類が必要だ。全体責任者である広田さんのサインも、一枚や二枚では終わらない。 「えっと、平成22年……」 「ああっ。今年は23年ですよ。平成23年3月11日」 「まいったな。今年が何年か覚えるころには、年が暮れてる」 「将来は、僕たちのユニットでお世話しますよ」 軽口を交わしてから、僕は急いでユニットに戻った。もうすぐ三時。おやつの準備をする時間だ。 テーブルでは、入所者さんたちが取り込んだ洗濯物を畳んでいる。お茶の手伝いをするために、キッチンに入ろうとしたときだった。 床が波打ったような気がした。 上に積んでいたキッチンペーパーがどさどさと落ちてきた。あわてて食器棚を押さえる。ミヤコさんがクッキングヒーターに飛びつくようにして、スイッチを切った。 「ユルくん、ここはいいから、みんなを!」 「はい!」 僕は入所者さんのところへ駆け寄った。テーブルの下にもぐりこもうと、もがいている人もいる。動けない人は、車椅子をロックして、テーブルの縁につかまってもらった。 揺れはだんだんと強くなる。まるで嵐の中の小舟のように、ぐらぐらと大きく左右に揺れる。 「だいじょうぶ。だいじょうぶですから」 泣き出すオオマサさんとコマサさんの手をつかんで、僕は声をかけ続けた。 ほんの数分だったのだろうけど、永遠に続くのではないかと思った。こんなに長い地震は初めてだ。 ホーム長の広田さんがよろめきながら、駆け込んできた。「無事か」 「はい。屋外に避難しますか」 「いや、ここは鉄筋だから、中にいるほうが安全だ。割れたものがないか、点検して回ってくれ」 ようやく地震が収まり、テレビをつけると、震源地は東北だという。 緊迫したアナウンサーの口調、津波警報の点滅におびえて、ツトムさんは「うー、うー」とうなっている。 またすぐに強い余震が起こり、悲鳴が上がる。 そんな中、自宅に帰っていた山名さんが駆けつけた。 「外はひどいことになってる。歩道に地割れができて、水が滲み出しているところもあった」 「アリサちゃんは? 携帯がつながらないんです」 「下校時刻だから、電車に乗ってたかもしれない」 僕は、絶句した。もしアリサちゃんの乗っている電車が脱線でもしていたら。 思わず、外に飛び出して探しに行きそうになる。でも、そんなことはできない。僕の仕事はまず、このユニットの入所者さんたちを守ることだ。 「さあ、みなさん。おやつにしましょう」 山名さんは、地震速報の続くテレビをパチンと消してしまい、明るい声を出した。 「今日はちょっと揺れるけど、この家は丈夫だから平気ですよ。腹が減っては、いくさはできぬ。おいしいおまんじゅうを食べて、元気を出しましょう」 入所者さんたちは、非日常に弱い。いつものリズムで、いつもの日課を行なうことが、なによりも心の平安になる。 まず、僕たちスタッフが落ち着かなきゃダメなんだ。 事務コーナーのパソコンで、地震情報だけはチェックしながら、僕たちはなるべく焦りを外に出さないように、笑顔を振りまいた。 一時間ほどして、疲労で顔が蒼くなったアリサちゃんが『ミルトス』に徒歩でたどり着いたとき、『骨が折れる』と悲鳴をあげるほどの勢いで、僕は彼女を抱きしめた。 東北地方太平洋沖地震。 三陸沖を震源とし、太平洋沿岸を襲った津波は40メートルの高さに達し、町々を一瞬で飲み込み、ところによって内陸六キロまで、がれきにしてしまった。 死者・行方不明者合わせて一万九千人、全半壊家屋三十九万戸。避難者は最大時で四十七万人。その中には、たくさんの介護を受けなければならないお年寄りもいただろう。 それだけではない。福島第一原発の事故で、放射性物質は風に乗って、僕たちの住むところまで飛散してきたらしい。 どんなに努力しても、毎日が以前とは、すっかり変わってしまった。 テレビをつけても、シズさんが楽しみにしていた韓流ドラマは放送されない。コマーシャルも同じものばかり。 ニュースは繰り返し、濁流に押し流される家々と、原発の爆発事故と、避難した被災者の様子を流している。 計画停電も始まり、毎日数時間程度、電気が使えなくなるため、食事や入浴の時間を見直さなければならなくなった。 『ミルトス』全部が、緊急体制になった。 ユニットごとに行なっていた買い物と調理も協力することになり、お風呂も節電のため交替で使うことに決まった。夜も余震に備えるため、ふたつのユニットの夜勤がふたりで組む。 前から提案していた、ユニットの夜勤同士の連携が、こんな形で実現するとは皮肉だった。 水道水が放射能で汚染されているとの報道があり、スーパーの棚から水が消えた。野菜も種類がとぼしい。入所者さんたちに何を飲み、何を食べてくださいといえばよいのか。 そんなことばかり考えていると、僕たちでさえ、じっとしていられなくなる。体の芯に、名づけようのない重いものがゆっくりと沈殿して、凝り固まっている。 入所者さんたちは、なおさらだ。何が起こったのか理解できない。理解できても、すぐに忘れてしまう。そんな状況で、周囲の状況が日々刻々と変わってしまうとしたら、どれほどの不安だろう。 いや、不安なのは、僕たちも同じだ。 スタッフのミヤコさんが、関西の親戚の家に避難するため、辞めることになった。まだ小学生の娘さんがいるから、やむをえない決断だったと思う。 なんだか、何も手につかない。 「もし、原発事故がこのまま収束せずに、ここも避難指示が出たらどうなるんでしょうか」 僕は、頭の中でぐるぐる回っている言葉を、つい口にした。 『ミルトス』の入所者さんたちはどこに逃げればいいのか。お年寄りにとって最も打撃となるのは、環境の激変というストレスだ。 現に、福島第一原発の周辺三十キロ圏内にあった老人ホームでは、津波被害と退避命令で避難先を転々とした結果、亡くなった入所者さんもいるという。 体育館の避難所に詰め込まれた結果、トイレがどこかもわからなくなって、認知症の症状を悪化させてしまっている方も多いという話だ。 介護保険法に定められた『尊厳を保持した』生活など、どこにある。 戦争に踏みにじられた青春を送ってきた高齢者たちに、こんな仕打ちをした挙句、ふたたび寒さの中で死なせてしまったなんて、僕は悔しくてならなかった。 「できる限り避難はしない。そのときは、私がみんなといっしょに残る」 山名さんが、きっぱりと言った。「私たち中高年は放射能の後遺症なんか怖くない。でも、若いケアスタッフは安全なところに逃げて」 そして、うめくように付け加えた。 「ユルくん。そのときはアリサをお願い。あの子を連れて、どこか危険がないところまで」 「だって」 「大丈夫。きっとそんなことにはならないよ。でも、現に最悪の事態が起こってしまったんだから、これからも最悪の事態を心の中で想定しておかないと」 「日本は、いったいどうなってしまうんでしょう」 僕は、それ以上言葉が続かなくなって、唇を噛みしめた。 アリサちゃんが、あのアリサちゃんが僕の腕の中で泣いたのだ。 『もう、日本はおしまいだよ。豊かで食べるものがあふれていた日本は、たった一日でなくなっちゃった』って。 これから僕たちが一生暮らしていく国は、これだけの負の遺産を背負ったまま、もう立ち直れないのだろうか。 その中で、若者たちは無事に子どもを産み育てて、無事に老いていけるのだろうか。 「ユルくん」 そのとき後ろから、ぽんと僕の頭に手が置かれたのを感じた。 ゴロウさんだった。 「わしらがついてるぞ」 「だいじょうぶじゃ」 ツトムさんの手が、その隣に添えられた。 「わたしらも」 「ああ、女のほうが、いざとなると役に立つよ」 オオマサさんとコマサさん、ユキエさん、ヒサコさんにシズさん。ショウコさんまで。 信じられなかった。僕と山名さんを入所者さんたちが取り囲んで、頭を撫でてくれている。 垣根となって、見えない敵から僕たちを守っていてくれる。 「みなさん」 山名さんが、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。僕も涙があふれて、とまらない。 「そうよね。みなさんが、戦争に負けて焼け野原になった日本を、ここまで豊かに回復してくれたんだものね」 「僕たちができなきゃ、笑われちゃうね」 「あとは、若いもんらが頑張らにゃあ」 「うん、うん。頑張るよ」 「まかせたぞ」 「泣いたらいかんぞ」 「うん」 僕たちは、年老いた人たちを、弱い人たちを守らなくてはと思っていた。 でも、守られていたのは僕たちだったのかもしれない。 愛されて、試されて、赦されていたのは、僕たちのほうだったのかもしれない。 あの日の奇跡が嘘のように、入所者のみなさんは相変わらず、入れ歯をなくしたり、トイレに間に合わなかったり、ごはんを食べたことを忘れてしまったりしている。 でも、それでいい。 すべての人間は、いつか永遠への旅立ちの日を迎える。そのときまで、僕たちはこのプラットホームに座って、過去へ戻ったり未来へ行ったり、泣いたり笑ったりおしゃべりしたりしながら、やわらかな時を過ごしていよう。 あたりまえに泣いて、あたりまえに笑える、尊厳ある人生を、誰もが送ることができるように。 「ユルくん。ヒロコさんが着いたよー」 「はい!」 今日、グループホーム『ミルトス』のユニットAに、またひとり新しい仲間が加わる。 (完) 「ペンギンフェスタ2012」テキスト部門参加。 なお、このお話はフィクションであり、ファンタジーです。実際の認知症患者およびグループホームの実情を描写するものではありません。 |