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プラットホーム


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第五章

 山名さんの娘アリサちゃんは、三日に上げず『ミルトス』を訪れている。しかも制服のまま。学校帰りに直接寄っているらしい。
 知らない人が見たら、スタッフのひとりと間違えても不思議はないくらい、場への溶け込みぶりは相当なものだ。
 別に仕事を手伝ってくれるわけでもなんでもない。ただ座って、お茶をして、おしゃべりをして帰っていくだけ。それなのに、彼女がいると、スタッフの動きがすごく楽になる。
 さすが、ユニットリーダーの娘。蛙の子は蛙、ということだろうか。いや、蛙の子はおたまじゃくしだよな。
「ユルキャラ、そんなとこに立ってると、うざい。きれいな庭が見えない」
 相変わらずの毒舌だ。
「あんた、なんでそんなにでかいの。部活は何やってた」
「高校はラグビー」
「ほええ、どうせ、フォワードだよね」
「一応、ロック」
「大学もラグビー部?」
「いや、紙芝居同好会」
 彼女は涙目になるくらい笑いころげた。「あんたの人生ってネタそのものだね」
 せいぜい笑ってろ。
 高校三年のとき肩を故障して、ラグビーは途中であきらめざるを得なかった。
 代わりに目指した幼稚園教諭の道は、少子化社会のあおりで閉ざされてしまった。今は高校生のガキんちょにからかわれながら、しがない老人ホーム勤務だ。ネタと言うより、挫折そのものの人生だ。
 でも。
「でも、後悔はしてない」
 挫折がなければ、この進路はたどらなかった。全く思ってもみなかった介護という道。そう考えれば、僕がここにいるのは奇跡なのかもしれない。
 仕事はきついし給料も安いけれど、ここにいれば、人生で一番大切なことを学べるような気がする。現に、山名さんみたいな素晴らしい人たちに会えたのだから。
 アリサちゃんは、一瞬ぽけっとした目で僕を見上げて、こくんと頭を下げた。「笑ってごめん」
「ずいぶん、素直にあやまるんだな」
「ごめん、ほんとに。実は試したの。本当にお母さんの言うとおり、あんたがセント・バーナードかどうか」
「は?」
「わが山名家の家訓。男の判断基準は、顔じゃない、地位でも収入でもない。暴力をふるわない男、これに尽きるの」
 彼女は一方的に宣言して、すたすたと扉に向かった。
 何なんだ、今のは。要するに僕の顔も地位も収入も、お話にならないってことか? ……まあ、大筋では当たってるけど。
 玉木さんが近づいてきた。
「山名さんはね、ご主人のDVが原因で離婚したの」
 DVって、ドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)のこと? まさかそんな。あの山名さんが。
「苦労してるのよ。あの母娘は」


 ショウコさんは要介護度4。うちのユニットの中では一番症状が重い。
 かなり重度の見当識障害と睡眠障害で、昼夜が逆転し、ひんぱんに徘徊があり、家族の介護が及ばなくなって、入所となった。
 グループホームは、建前から言えば、軽度の認知症の方が共同生活をするための施設だが、圧倒的に特養の数が足りない現状では、そうも言っていられない場合もある。
 ショウコさんは『ミルトス』に来てからも、昼間もほとんどの時間をウトウト眠って過ごす。言葉もほとんど出ない。
 ところが、夜になるとうめき声を上げる。起き出して、個室の中や外を歩きまわったり、入り口の扉を叩いたりする。止めようとすると、かなり大きな声で怒鳴ることもある。
 昼間は、屋上庭園を散歩して太陽の光を浴びたり、神経を落ち着ける漢方薬を処方してもらっても、効果はなかなか出てこなかった。
 大の男が、夜勤が怖いだなんて、誰にも言えやしない。だが、僕は本当に怖かった。
 仮眠しているリビングのソファから起き上がったとき、夜の薄闇の中を亡霊のようにひょこひょこ歩いているショウコさんを見つけると、心底ぞっとした。
 理解できない。
 ミチコさんと『花の歌』を歌ったときのように、ユキエさんと並んで、小学生の息子さんとの思い出を見たときのように、そういう暖かい人間的な感情を、ショウコさんにはまだ見つけることはできなかった。
 ほかのスタッフも手を焼いているようだが、僕ほどではない様子に、また落ち込む。
 ある夜勤明けの朝、寝不足で目をしょぼしょぼさせながら、僕は山名さんに弱音を吐きまくった。
「ゆうべはずっと、パソコンで調べていたんです。ショウコさんをなんとか特養に移せないかとか、認知症病棟への短期入院の道はないかとか。結局、ショウコさんをここから追い出すことしか頭になかった。いなくなればいいと思ってた」
 僕はうなだれた。「……僕、やっぱり介護者として失格です」
 山名さんは、椅子から立ち上がり、窓から外を見つめた。外の草花は朝から炎暑にあえいでいるが、室内は乾いた涼しい空気が循環している。
「ユルくんが失格なら、私も失格だよ」
「え?」
「私だって、夜勤はいつも不安でたまらない。こんなに長いこと介護やってるのに変だね。夜が不安なのは、もしかして人間の原始の本能なのかもね。私たちスタッフも、入所者さんたちも」
 朝の強烈な光は、くっきりと彼女の横顔をシルエットにして照らし出す。やはり、アリサちゃんと母娘だ。輪郭がよく似ている。
「ユニットケアならではの、問題点もあると思うの。九人をたったひとりで十二時間、お世話しなければならない。今までの大規模施設なら、ふたりで四十人、五十人。配置人数は圧倒的に恵まれているよね。でも、昔のほうがよかったって意見もあるくらい」
 確かに、そうなのかもしれない。ひとりよりふたりのほうが、いくら仕事はきつくても精神的に楽なのだ。
「ユニットの個室もよしあしね。誰かに『留置所みたい』だって悪口言われたこともある。プライバシーの重視で始まった個室制だけど、案外お年寄りには、四人部屋のほうが楽しいのかもしれない」
 僕は驚いた。ユニットリーダーの口から、するするとユニットケアへの批判が出てくるなんて。
「でもね、ユルくん。方法論はともかく」
 山名さんは次の瞬間、笑顔をひきしめて振り向き、厳しいまなざしで僕を見つめた。
「どんな環境でも、ケアスタッフのすることはひとつよ。入所者さんが、その人らしい人生を全うできるようにお手伝いすること」
「……はい」
「認知症が進んで、どんなに人格が変わってしまっているように見えても、必ず本当のその人の姿が垣間見えるときがある。光り輝くようなその人の本質が、生き様が透けて出てくる」
 山名さんはソファに座った。膝の上にきちんと両手をそろえて、窓を見やる。まるで電車に乗っている人みたいに。
「ユルくん、ここはね。プラットホームみたいなものじゃないかな」
「プラットホーム?」
「グループホーム・ミルトスじゃなくて、プラットホーム・ミルトス」
 おかしそうに、喉から声が漏れた。
 本当は『プラットフォーム』が正しいことは、山名さんもわかっているみたいだ。でも日本では『プラットホーム』と発音するし、『三番線ホーム』なんて使い方もする。
「みんな、ここから、行き先の違う電車に乗っていく。お母さんの胸にいだかれていた幼い頃へ。淡い初恋をしていた青春時代へ。過去をぐるりと回って、ベンチで一休みして――そうして、新しい世界へと旅立っていく」
 風が吹いて、さわさわと木漏れ日がまたたき、山名さんはまぶしそうに目を細めた。「私たちは、その旅のお世話をさせてもらってるんだと思うの」
 ショウコさんにも、そんな過去があるのだろうか。
 僕は、ショウコさんの時間旅行のお手伝いができる日が来るのだろうか。


 次の夜勤の日が来た。
 前の日はしっかりと寝て、ごはんもたくさん食べた。気合は十分だ。きりりと鉢巻を締めたいところだが、そうも行かないから、代わりに腰痛ベルトを締めた。
 介護にたずさわる人は腰痛持ちが多い。骨盤に巻くコルセットのような腰痛予防ベルトは、今うちのユニットのスタッフの間でおおはやりだった。
 何人かの入所者さんは、夕食後のデザートを食べてまもなく床に就く。順番に就寝前の血圧の薬などを飲んでもらい、トイレと歯磨きに行ってもらう。ショウコさんも、おとなしく寝ついた。
 そうこうしているうちに遅番さんが帰ってしまう。テレビで時代劇を見ていた残りの人を僕ひとりで介助し、一番最後の人がベッドに入り終えるのは、もう十時近くになる。
 それぞれの個室を見回り、いつも寝つきの悪いシズさんと少し話をする。しばらくすると穏やかな時間が流れ始めた。僕は、ようやくほっとしてインスタントコーヒーを口に含んだ。
 明かりをしぼって暗くし、リビングのソファに座って、本を読み始めた。
 ものの十分もすると、すーっと沈みこむように、体から最初に眠りの世界に入っていく。でも、頭のどこかは覚めていて、ユニットの中に異変がないか、絶えず探っている。
 寝言。いびき。寝返りの音。うめき声。さまざまな音が絶えず聞こえてくる。
 どこかで聞いたなと、眠りの中で思い出そうとする。
 ああ、高校時代のラグビーの合宿だった。ただし、いびきの音たるや、もっとすさまじかったし、もっと臭かったけどな。
 なつかしい気分にひたっていたら、十一時ごろ、からからと個室の扉が開く音がした。
 ショウコさんだ。
「ショウコさん、トイレですか」
 呼びかけに答えず、トイレとは反対方向に向かう。僕は黙って、その後に従った。転倒しそうになったら手を添えられる距離で。
 それほど広くないユニットの端から端まで歩き続ける。キッチン、洗面所、お風呂と彼女は何かをさがしている。
 どこへ行くつもりなのか。何を探しているのか。彼女が求めているものは、もうとっくになくなってしまった過去にしか存在しないのかもしれない。
「ショウコさん、もう寝ましょう。足が疲れちゃいますよ」
 声をかけたタイミングが悪かったのだろう。彼女は目を吊り上げて、僕をにらんだ。
「なにを、この、……が!」
 意味不明のことばでわめきながら、ばちんと僕の腕を叩いた。
 ものすごい力だった。小さな老女の暴力は、僕にとってはそれほど痛くはないが、逆にショウコさん自身の骨が折れてしまうのではないかと思うくらいの勢いで、ありったけの力で叩き続ける。
「ショウコさん。やめて!」
 僕は、できるだけそっと、彼女をはがいじめにした。彼女に恐怖や憎悪を抱いている自分が、情けなくてしかたがない。
「教えてください。なにがいけないんですか。どうしてあげたら、楽になれるんですか。僕にはわからない。ショウコさんの心が理解できない」
   そうっと、そうっと力を加減しながら、マットのところへ引きずっていく。ぺたんとマットの上に尻餅をついて、両腕を回して抱きしめる。
「教えてください、なにがつらいんですか。ショウコさんと友だちになりたいんです。僕じゃなれませんか」
「やだー、やだー。くらいの、やだー」
 ショウコさんは、わあわあと子どものように泣き叫んだ。
「暗くないです、明かりついてます」
「おかーちゃん。ひこーき、やだー」
「ショウコさん、大丈夫。ここは大丈夫ですよ」
 僕はショウコさんをなんとか落ち着かせようと、右手をこすった。青黒いしみだらけの手は、驚くほど白く冷たい。
 少し力を抜いて、こすり続けた。こすっているうちに、彼女は泣くのをやめた。手に赤みが差してきている。
 反対側の手をこすっている間も、じっとしている。気持ちがよいのかもしれない。
「大丈夫ですからね。ショウコさん。安心して、ここにいていいんですよ」
 僕は呪文のように繰り返しながら、いつまでも手をこすり続けた。


 目が覚めると、何人かの入所者さんが僕をじいっと覗き込んでいた。
「あ、生きてた生きてた」
「よかった。心中かと思ったよ」
 隣に寝ているショウコさんを見て、「わっ」と飛び起きた。
 ゆうべ僕は、ほかの入所者さんのトイレ介助の合間に、一晩じゅうショウコさんの手をこすり続け、とうとう明け方になるころ、リビングのマットの上で手をつないだまま、いっしょに寝てしまったのだ。
 着替え、朝食と、目の回るような朝のひとときが済むと、山名さんの出勤を待って、僕はゆうべの顛末を口頭で報告した。
「それ、『タクティールケア』だね」
「タクティールケア?」
「北欧で始まった緩和ケアのひとつよ。手足をそっと柔らかくこすることで、安静ホルモンの分泌を促し、痛みや不安を取り除くの」
「最初はかなり、ごしごしこすっちゃったけど、本当はそっと柔らかく、なんですね」
「ユルくんの手はグローブみたいに大きくて温かいから、気持ちがよかったんでしょうね」
 と、山名さんは笑った。「このケアをしている間、施術者はひたすら相手に向き合って、相手の変化に敏感になる。それが同時に、施術者自身の気持ちをも落ち着かせるの」
「そう言えば、そうでした」
「タクティールケアを、ショウコさんのケアプランに取り入れましょう。ユルくん、あなたが実技を学びに行ってくれる? 確か認定資格の取れるコースがあったはず」
 「わかりました」と答えてから、僕はもうひとつ大切なことを報告した。
「ショウコさん、『飛行機がいやだ』とおっしゃったんです」
「飛行機?」
「もしかして、飛行機事故か何かに会った過去をお持ちなんじゃないでしょうか」
「待って、それって」
 山名さんは、身を乗り出した。「空襲じゃない?」
「空襲? 空襲って太平洋戦争の?」
 僕にとっては、文字通り前世紀の遠い過去の話だ。でも入所者さんにとって、戦争は今も、心の1ページに消えずに刻まれていることなんだ。
「空襲だとすると」
 僕は、今までテレビや映画で見聞きした空襲の光景を想像した。「もしかして、暗いというのは、防空壕のことでしょうか」
「そうかもしれないわね」
「夜、静まり返ったとき、個室の中が防空壕のように思えて、いたたまれなかった」
「それ、ありえるかも」
 『ミルトス』の個室は床がフローリングで、壁にも飾り気がなく、家具も自分で持ち込まない限りはほとんどない。おまけにしっかりとした防音設計だ。そのため室内で音が反響して、まるで洞窟みたいだと感じたことが何度もある。
 プライバシー重視の個室での生活が、入所者さんを孤独で苦しめているとしたら、本末転倒じゃないか。なんとかしなければならない。
「山名さん。提案があるんですけど」
「な、なに」
 僕のやる気満々の顔を見て、彼女は思い切り引いたようだった。
「うちのユニットで、合宿をしてみたいんです」



第六章

 日が高くなった頃、僕は自分のアパートの扉をどんどんと叩く音で眼を覚ました。
「ユルキャラの寝ぼすけ。携帯の音で起きろ」
 扉の外に、ぷんすか怒っているアリサちゃんが立っていた。
「なんで、きみがここに」
「押しかけ女房」
「はあ?」
 彼女はスーパーのビニール袋をどさっと置くと、てきぱきとあたりを片付け始めた。
「『介護福祉士』に『社会福祉士』。ふうん。ちゃんと真面目に勉強してるんだ」
 テーブルの上には、ゆうべ広げた通信教育のテキストが、そのままになっている。
「で、何しに?」
「ユニットリーダーからの厳命。ユルくんは疲れがたまってるみたいだし、たまの休みも夕方まで寝て、ジャンクなインスタントフード食べて、うだうだ過ごすだけだろうから、しっかり栄養のあるもの食べさせろって」
「学校は?」
「うち、二学期制なんだ。今週は秋休み」
 アリサちゃんはスパンコールきらきらのTシャツとデニムの上に、持参のエプロンを着けた。
「というわけで、今から一時間で朝ごはん作るから、風呂でも入っといで」
 しかたなく、僕は朝風呂に可能な限りゆっくりつかり、可能な限りゆっくりヒゲを剃り、それでも余った時間でメールチェックをした。
 母親からのメールが、何通もたまっていた。
 相変わらず、『ちゃんと食べているのか、洗濯はどうしているのか』と、僕のことを案ずる内容ばかりだ。――今そばに女子高生がいて、メシ作ってると返信したら、卒倒するだろうな。
 自活することに決めたのは、家から逃げ出したかったからだ。介護の職に就くことに決めたと告げたときの、父のあからさまに失望した顔が忘れられない。
 ひとり息子が、お年寄りのおむつを替える仕事をするということが、あの人には認められなかったのだ。
 『ダメだと思ったら、いつでも辞めて帰ってきていいからね』とも書いてある。三ヶ月前までなら、この言葉に揺すぶられていたと思うけど、今はまったく揺るぎがないことに、正直自分でも驚いている。
「さあ、できたよー」
 テーブルの上にずらりと、てんこもりの皿が並んでいた。焼肉まである。
「なんだよ、これ。何食分なんだ」
「え、一食分だよ。だって、その体維持するには、これくらい食べなきゃ」
「人のこと、牛か何かと間違えてるだろ」
「牛じゃなくて、セント・バーナード」
 確かに、高校の頃は一日七食は食べてた。あのとき一生分食べ尽くしたんだろうな。今は普通に三食食べれば、事足りる。
「なんで、セント・バーナードなんだ?」
 残った料理はラップしたり、冷凍庫に入れたりしてから、ふたりで流し台に立って皿を洗った。
「隣の家で飼ってたんだよ。散歩に連れて行くの、小学生のころは私のバイトだった」
「そんな大型犬、小学生の手には余るだろ」
「それが、不思議と私の言うこと聞くんだよ。しつけが良かったのかな。走ったり吠えたりしないし、こっちって言ったら、ちゃんとついて来たし」
 彼女は皿をきゅっきゅっと音を立てて何度も拭いた。「あの子と散歩に出かける時間は、私の天国だった」
 家に帰れば、暴力をふるうお父さんがいる。きっと家の中は地獄だったのだろう。
 ポキッと首のところから手折れそうな細い体。この母娘を暴力で苦しめた男がいたなんて、とんでもなく腹が立つ。
「さ、じゃあ、ご飯も食わせたし、軽く腹ごなしに散歩にでも行くか」
「遠慮する。寝てたほうがいい」
「ユニットリーダーからの厳命その2。仕事でストレスが溜まっているだろうから、気晴らしにどこかへ連れていけって。それと、絶対に自分から女の子を誘えるようなタマじゃないから、女のほうから積極的に攻めろって」
「なんなんだよーっ」


 僕たちは、駅前のファッションビルや地下の専門店街を、ぶらぶらと歩いた。朝飯の材料代を渡そうとして断られたので、「代わりに何か買ってあげる」とは約束したのだが。
「うわ、この財布かわいい」
「悪いけど、値札が五桁以上のもの買ってやる予定はないよ」
「あたりまえだ。月給十五万の男に、誰がそんなこと期待するか」
 ――やれやれ。上司の娘に隠しごとはできないな。
「さすがに結婚できないよね、その給料じゃ。ま、いいや。どうせ私も大学卒業して証券会社へ就職するまで、どうしたって五年かかるもん。五年経てば最低、介護福祉士の資格と、うまく行きゃケアマネの資格も取って昇給してるよね」
「あのー、すみません。何の話でしょうか」
「単なる私の人生設計よ。気にしないで」
 フードコートで、クレープとアイスコーヒーを買って食べることにした。僕がカウンターチェアに腰をかけ、その隣に彼女が立つと、ちょうど目線が同じになるので具合がいい。
「てっきり、きみはお母さんと同じ介護の道に進むんだと思ってたよ。おたまじゃくしだし」
「なんだよ、そのおたまじゃくしって」
「いや、蛙の子は蛙」
「わかりにくい謎かけをするな」
 アリサちゃんは、ストローでずーっとコーヒーをすすった。
「わたしは、介護には進まない」
「どうして?」
「おばあちゃんの介護で、もう懲りた」
「おばあちゃんの介護、してたんだ」
「してたよ。亡くなるまでの五年間。どんどんおばあちゃんが嫌いになっていった。孫の私に向かって、財布を盗んだって言うんだよ。汚れたオムツをたんすの引き出しの中に隠すんだよ。病気だから仕方ないとわかってても、わざと意地悪してるんじゃないかって思った。親戚も近所の人も、もう誰もよりつかない。口では『大変ねえ』って言ってても、陰では『娘が出戻りなんかするから、ショックでボケたんだ』ってウワサされてた」
「……」
 胸が痛くて、相槌を打つことすらできない。
「ま、いい人生勉強になったよ」
 目の奥に凍えたものを残しながら、彼女の表情はふわりと明るくなる。
「だから、人間相手の仕事はしないの。コンピュータの数字をにらみながら、何億ドルを右から左に動かすようなディーラーになるの」
「お母さんは何て言ってる?」
「あんたの好きなようにしろって。あの人は私と逆なの。いわば、リベンジ。おばあちゃんにできなかったことを、目の前の年寄りに尽くすことで、やり直そうとしてる」
 そう言えば、ボランティア美容師の林さんも言ってた、『罪滅ぼしなのよ』と。
 認知症の人を看取った家族は、大なり小なり後悔をかかえている。もう少し優しくしてあげればよかったとか、もっと別のやり方があったのではないかとか。
 『ミルトス』に来てくださった入所者のご家族には、そんな後悔をしてほしくない。『うちのおばあちゃんは、おじいちゃんは、あそこで生活できて良かったんだね』と思ってもらいたい。
 そのために、僕たちケアスタッフは何ができるんだろうか。
「アリサちゃん」
 僕があらたまった口調になると、彼女はきょとんとして、ずいっと一歩身体を引いた。「プロポーズなら、高校卒業してからにしてくれる?」
 「違う」と全力で否定してから、言った。
「きみに手伝ってほしいことがあるんだ」


 次の夜勤の日。僕はかねてからの計画を実行に移した。
「みなさん、集まってください」
 いつもなら、夕食のデザート後の歯みがきとトイレを終え、早い人はそれぞれの個室へと引き取る時間だった。
「どうしたの。ユルくん」
 オオマサさんが、けげんな顔で訊ねる。
「今夜は、『合宿』をします。自分の部屋じゃなくて、リビングに布団を敷きつめて、いっしょに寝ます」
「へええ、合宿」
 ゴロウさんが、すっとんきょうな声を上げた。
「何するんだろうね」
「合宿なんて、兵隊に行ったとき以来じゃ」
 僕は、リビングのテーブルやソファを全部、部屋の隅に寄せると、一階のデイケアから借りておいたジョイントマットを置き、その上にシーツを敷きつめた。
 個室に行って、それぞれの掛け布団と枕を持ってきた。
「はい、ツトムさんとゴロウさんは、僕の隣です。シズさんとヒサコさんはそちら側へどうぞ」
「床で寝るなんて、久しぶり」
「このほうが落ち着くよ」
 いつもは無口な入所者さんたちも、はしゃいでいるのか、よくしゃべる。
 本当は、昔の人はみな、個室にベッドではなく、畳の上に家族全員で布団を敷いて寝たはず。このあいだ、ショウコさんの手をさすりながら床で寝てしまったとき、そのことに気づいたのだ。
「それから、本日は特別ゲストを招いています。どうぞ、入ってくださーい」
「じゃじゃじゃーん」
 風呂場で着替えたアリサちゃんが、花柄のパジャマとぬいぐるみのクマを持って現れた。
「みなさーん、こんばんは。今夜はわたくし、山名アリサが、みなさんを朝まで寝かさないミラクルワールドへいざないます」
「おお、アリサちゃん」
 お年寄りの間から、拍手が沸き起こった。
 今晩のもくろみのために、スタッフでもないアリサちゃんに助けを求めたのには、わけがあった。
 スタッフ同士で組めば、規則や習慣にしばられてしまう。
 つい、いつもの調子に戻って、「もう寝なきゃダメ」、「トイレに行っとく?」なんて指図してしまう。でも、スタッフじゃない彼女ならば、お年寄りたちといっしょにハメをはずしてくれそうだ。
 せっかくグループで暮らしているのに、「早く早く」と個室に追い立てられる。寝ない人がいれば、寝かそうと個室を走り回り、スタッフはへとへとになってしまう。なんだか、とてももったいないじゃないか。
 学校で一番楽しかったのは、部活の合宿や修学旅行だ。みんなで雑魚寝して、いつまでもわいわい騒いで。
 あのわくわくするような楽しい夜を、『ミルトス』のみんなで共有したい。


 次の朝、僕はホーム長の広田さんのデスクに呼び出された。
 ホーム長は、グループホーム『ミルトス』のふたつのユニットの全体責任者で、山名さんたちユニットリーダーの直接の上司にあたる。六十歳ほどの恰幅のよい男性だ。
「昨夜のことは、山名くんには、前もって許可を取っていたそうだね」
「はい」
「日報は一応読ませてもらったが、もう一度、きみ自身の口から説明してくれないか」
「あの、まず、枕投げをしました」
「ほう。枕投げ」
「それから、恋バナ大会というか、つまりその、それぞれの初恋の思い出話を……」
「初恋」
「あとは、野球拳を……も、もちろん女性ルールありのヤツで」
 なんだか、説明してて、だんだん情けなくなってきた。アリサちゃんがみんなを乗せまくった結果、こういうことになってしまったのだ。
「わかった」
 広田さんは、聞こえよがしの大きなため息をついた。
「今度のプラン、わたしは猛反対した。うちのグループホームは、個室ユニット方式ということで認可を受けている。リビングで雑魚寝をするということ自体が、許認可条件の違反になる」
「……はい」
「部外者の高校生を十時過ぎまで手伝わせたことも感心しないが、親の承諾ありということで今は置いておく」
「はい」
「だが、定められた就寝時刻を大幅に破った結果、入所者の健康に悪影響が及ぶことは十分考えられたのじゃないかね。夜更かしがきっかけで、眠りや排泄などの生活リズムが乱れる恐れもあったし、雑魚寝となれば、入所者同士の接触で、ケガをさせてしまう危険性もあった」
 ――そこまで想定しておかなければならなったのか。
「すみません。僕の考えが足りませんでした」
「だが、山名さんが『全責任は私が負います』と、わたしを説得したんだ」
 処罰を覚悟してうつむいていた僕は、顔を上げた。
「『うちが抱えているいろいろな矛盾を、ユルくんは自分の頭で考えて解決しようとしている。彼の今後の成長のためにも、今回の特別プランを認めてください』と、頭を下げた。反対する他のスタッフも、ひとりひとり説得した」
 広田さんの厳しい表情が、笑み崩れた。「山名さんにお礼を言っておきなさい、野瀬くん。そこまできみのために根回ししてくれたんだ」
「ご迷惑をかけてすみません――ありがとうございます」
 面談室を出ると、山名さんが通りかかったふりをして立っていた。
「怒られなかった?」
「はい、あの……本当にありがとうございました」
「いいの、アリサを誘ってくれて、こっちこそ感謝してる。あの子、介護職だけはイヤと言ってたけど、昨夜はいい経験になったみたい」
「そうですか」
「男性恐怖症も治ったみたいだし。ちょっと前まで、男と見たら、そばにも寄りたがらなかったんだよね」
「はあ?」
 そんなバカな。僕のひとり住まいのアパートに朝から押しかけてきたぞ。いっしょに朝飯食って、ショッピングしたんだぞ。それに昨夜は花柄のパジャマ姿まで――。
 山名さんは僕の隣にずいと近寄り、耳元でささやいた。
「プロポーズは、高校卒業してからってことで、よろしくね?」
 ――なんだか、僕の回りの目に見えぬ包囲網が、だんだん狭まっている気がした。


第七章

 秋も深まって、日ごとに昼が短く、朝晩も冷え込むようになってきた。
 入所者さんたちも着替えに時間がかかり、トイレ介助の回数も手間も増えてくる。関節の痛みも夏よりは冬のほうがひどいらしく、お年寄りには大変な季節がやってくる。
 シズさんもO脚で、膝が外側にずれてしまっているため、深刻な変形性膝関節症をわずらっていて、歩くことも大変だ。早めにトイレに誘導しているつもりでも、途中で間に合わず、本人も僕たちもすごく悔しい思いをしている。
 彼女は要介護度1。ご主人を亡くして、息子さん夫婦と同居してから、認知症の症状が現れた。
 環境の変化は、高齢者にとって大きなショックになる。手術や入院、配偶者の死、転居、退職。そうしたことが引き金になって、認知症になる方が多い。
 同じものを何回も買ってくる。台所のガスの火を消し忘れる。シャンプーと風呂用洗剤、ぞうきんと布巾の区別もつかなくなる。
 家族はへとへとになって、家事を取り上げてしまう。でも、本人はまだまだ動ける。何かをしたいと思っている。家族の一員でありたいと願っている。
 シズさんのような人がグループホームに入ると、本当に生き生きするのだ。適切な見守りがあれば、食事も作れるし、洗濯物も畳める。
 本当の家ではないけれど、シズさんにとって、ここは自分が自分らしくいられる『ホーム』なんだと思う。


 ある朝、出勤すると、山名リーダーが眉根に皺を寄せて、事務コーナーから僕を手招きした。
「おはようございます。どうしたんですか」
「困った事態が持ち上がっちゃってね」
 と、ちらりと懇願するように僕を見た。黄色の危険信号が点滅を始める。
「ゴロウさんのお孫さんが、来月結婚式なんだって。三十二歳のお嬢さん」
「へえ、めでたいですね」
「で、ゴロウさんに出席してほしいと連絡があったの。できれば、ケアスタッフのひとりも付き添いで来てほしいって」
 背筋がすーっと寒くなった。
 ゴロウさんは、大正生まれの気骨のあるお爺さんだ。普段はとても大らかな人なのだが、自分がこうと思ったことは絶対に曲げない。記憶障害のために、しょっちゅう物をなくしたり、直前のできごとを忘れたりするのだが、自分の間違いを認めない。
 しかも、やたらと声がデカい。
 結婚式の最中に、その得意技を出せば、式はめちゃめちゃになること請け合いだ。
「ユルくん、当日の付き添いをお願いできないかなあ」
「ぼ、ぼ、僕がですか」
「いざとなれば、ゴロウさんを羽交い締めにして引き止める力があるのは、ユルくんだけなの。お願い!」
「無理です。着ていくスーツがありません」
「レンタル代、経費で落とす」
「それでも僕が出たら場違いです。無理ですよ」
「披露宴の料理をただで食べさせてくれるって。一流ホテルのフレンチのフルコースだよ。それでも断る?」
「……出席させていただきます」


 結婚式の当日、僕はワゴン車にゴロウさんを乗せて、『ミルトス』を出た。
 道順は前もって下調べして、時間を計ってある。式場にあまり早く着きすぎても、ゴロウさんの集中力が持たない。おとなしく座っているのは、一時間がぎりぎりだ。
 式場は、かなり格式の高そうな山の手のホテルだった。
 結婚式なんて今まで一度も出たことないから、僕のほうがカチコチに緊張している。
 レンタルスーツも、僕の身丈に合うものを何とか見つけたが、全然似合わない。笑いごとじゃなく、VIPを護衛するSPにしか見えないのだ。ゴロウさんと僕の行く先々で、通行人がささっと左右に分かれるのを感じる。
 ホテルの人に親族の控え室まで案内してもらう。
 そこでは、恐ろしい騒動が持ち上がっていた。
「お父さん、それじゃ歩けないじゃない!」
 扉を開けると、新婦の悲鳴がまず聞こえた。
 見れば、ゴロウさんの息子さん、つまり新婦のお父さんが、片足を真っ白なギブスに固めて、情けなさそうに座っている。
 なんでも、今朝あわてて会場に向かおうとして、自宅の階段から転げ落ちてしまったらしい。足の甲にひびが入っていて、全治三週間。
 とても花嫁をエスコートできる状態ではない。
「大丈夫だ、なんとか歩ける」
「いやだ。松葉杖の父親とバージンロードを歩くなんて」
「あなた、やめてください。無理して一生歩けなくなったらどうするの」
「いとこのシュウヘイくんに頼んでみたら」
「お姉ちゃん、シュウヘイくん、まだ中学生だよ」
 泣き叫ぶ新婦。一生に一度の結婚式がこんなことになるとは、かわいそうだなと部屋の隅で小さくなっていたら、突然ゴロウさんが杖をつきながらドタドタと家族のもとに歩み寄った。
「わしが代わりに歩いてやる」
 家族は一瞬、しんと静まり返った。
「お、お父さん」
「おじいちゃん。バージンロードって何かわかってるの?」
「わかっておる。一キロくらい平気で歩けるぞ」
 みな、顔が引きつり始めた。ゴロウさんが一度言い出したら聞かないことを、よく知っている。なんとか諦めさせなければと、必死だ。
「とりあえず、座ってお茶にしましょう。このおまんじゅう美味しいですよ」
 などと気をそらそうとするが、今日のゴロウさんは不思議と集中力が切れない。
「場所はどこだ。案内せい」
「おじいちゃん! だめよ」
 一同いっせいにしゃべり始め、室内はものすごい騒ぎになった。ゴロウさんの大声は確実に一族に遺伝していると見た。
「待ってください!」
 ようやく、僕の叫びがみんなに届いた。
「ゴロウさんに歩いていただきましょう。僕が責任を持ちます」
 言ってしまった直後に自分の言葉の重大さに気づき、意識が遠のきそうになった。


 結婚式場のチャペルの扉はまだ閉じられている。その外に待機しているのは、花嫁、ゴロウさんと僕。
 そして親戚の子どもなのか、小学生くらいの女の子ふたりと男の子がフラワーガールとリングボーイを務めることになっていた。彼らは花嫁の前を歩くらしい。
「きみたちに、手伝ってほしいんだけど」
 と言いながら、僕は彼らの前に屈みこんだ。
 伊達に幼稚園の先生を目指していたわけじゃない。手振り身振りで手順を教え込むと、三人は目を輝かせて「やる」とうなずいた。
 いよいよワーグナーの結婚行進曲の演奏が流れ出し、チャペルの扉が大きく押し開かれた。
 会衆の視線が主役たちに注がれる隙に、僕は式場の端を伝って、前の方へと移動する。
 リングボーイがまず、ゆっくりと一歩ずつ足をそろえながら進む。そのあとをフラワーガールが、花びらをバージンロードの赤いじゅうたんの上に一枚ずつ置いていく。
 その配置は、ちょうどゴロウさんが歩く足の位置になるように、お願いしてある。
 いよいよ、花嫁とゴロウさんだ。
 花嫁は、ゴロウさんと腕を組みながら、「おじいちゃん、あの男の子のマネしてゆっくり歩いて。床の花びらを踏んで」とささやき続ける。
 無事にバージンロードを歩き終えると、僕がさっとゴロウさんの手を引いて、脇に退いた。
 祭壇の前で、新婦が新郎の隣に立つ。
 やった。成功だ。新婦側の親族たちは、その瞬間思わず、ガッツポーズ。
 けげんそうに講壇に立った神父が、誓約の式辞を読み上げ、式は滞りなく進んだ。


 続く披露宴、僕は親族のテーブルにいっしょに座らせてもらい、ゴロウさんの隣で食事の介助をした。
 大役を果たして疲れたのか、ゴロウさんは大声を上げずにおとなしいし、僕もご馳走を目いっぱい楽しむことができた。
 親族の人たちは、入れ替わり立ち替わりゴロウさんのもとへやって来て、「よかったですよ。おじいちゃん」、「いいお式になりましたね」と口々に褒めちぎったが、ゴロウさんは飄々と素知らぬ顔をしている。
 宴は祝辞、スライドショー、キャンドルサービスとなごやかな雰囲気で進み、いよいよ大ラスは、花嫁から両親への感謝の手紙だった。
 足に怪我をしているということで式場側の用意した椅子に座ったご両親の前に、新郎新婦が進み出て一礼する。
 なんだか、もうそれを見ただけで、こみあげるものがあった。
『お父さん、お母さん。今まで育ててくれて、ありがとうございました』
 新婦はむせび泣きながら、手紙を読んだ。
 父親に怒られたこと。いっしょにプールに行ったこと。
 母親に毎朝弁当を作ってもらったこと。恋の相談に乗ってもらったこと。
 ありきたりと言えばありきたりな内容だったが、幸せとは、こんなありきたりなことの積み重ねを言うのだろう。
 けれど、アリサちゃんには、お父さんに手紙を読む日は絶対に来ないのだろうな、と思う。
 もの思いから引き戻されると、花嫁は読み終えた手紙を手に、ゴロウさんのほうを向いていた。
「おじいちゃん」
 彼女は涙声で、ゴロウさんに呼びかけた。
「おじいちゃん。今日はいっしょにバージンロードを歩いてくれて、ありがとう。びっくりしたけど、とてもうれしかったよ。考えたら私、小さい頃はおじいちゃん子だったね。お姉ちゃんとケンカしたときは、おじいちゃんと死んだおばあちゃんがいる部屋に駆け込んでいって、火鉢でお餅を焼いて、よく食べさせてもらったね。私、あの砂糖をつけたお餅が、すごく好きだったよ」
 ゴロウさんは、何度もうんうんとうなずき、会場全部に響き渡るような朗々とした大声で言った。
「そうだな、ユカリ。あれはうまい。また、ばあさんといっしょに食べような」
 それを聞いた瞬間、僕の涙腺の堤防が決壊した――でも、きっと僕だけではなかったと思う。


 『ミルトス』に戻ったゴロウさんは、相変わらず大らかでマイペースで、ちょっと頑固な人生を送っている。
「ゴロウさん、今日は下の入れ歯はどこへお出かけしちゃったんですか」
「わしは、知らん。勝手にどこかへ行きおった」
「歯がないと、火鉢で焼いた餅が食べられませんよ。ユカリさんの大好物でしょう」
「なんでおまえが、そんなことを知ってる」
「あれ、いっしょに結婚式に行ったじゃないですか」
「知らん、結婚式など行っておらん」
「そんなこと言って。はい、ちゃんと証拠写真があるんですよ」
 僕は、さっと携帯を取り出す。画面にはゴロウさんを中心に息子さん夫婦。長女一家と新郎新婦の計八人が写っている。僕は隅っこに小さく入ったつもりが、かなり大きく目立っていた。
「いいなあ。ゴロウさんは家族みんなに愛されてるんですね」
「いひひ」
 ゴロウさんは照れくさいのか、可愛い声で笑った。
 年を取って、家族でいっしょに暮らすことができない人でも、生命の営みは引き継がれていって、誰かがその人のことをちゃんと覚えていてくれる。それは、ささやかだけど、とても幸せなことなんだ。
「よし。餅を食うから、今すぐユカリを呼んでこい」
「え、無理ですよ。そんな急に」
「何言っとる。おまえはユカリの亭主だろう」
「え?」
 あんまり結婚式のことを強調していたら、ゴロウさんは僕のことをお婿さんだと勘違いしちゃったらしい。
「どれどれ」
 テーブルの横から、ひょいと手が伸びてきて、僕の携帯を取られた。
「なに、このダサいスーツ姿」
 アリサちゃんが悲鳴を上げた。「こんな男と、間違っても結婚したくねえ」
「しなきゃいいだろ」
「五年かけて、改造してやる。もろ私好みの、フェロモン全開のイケメンに」
「それ、完全に別人だから」
 自分の結婚式なんか今まで想像したこともなかったけれど、もしその日が来るとしたら、僕の隣にはアリサちゃんが立っているような気がしている。
 母親の山名さんを前にして、彼女はけろっとして感謝の手紙を読み上げる。その隣で僕は感激して、ぐすぐす泣いている。
 そうであってほしいと心から願っていることに、僕はまだ気づかないふりをしていた。






           第八章へつづく


「ペンギンフェスタ2012」テキスト部門参加。

なお、このお話はフィクションであり、ファンタジーです。実際の認知症患者およびグループホームの実情を描写するものではありません。



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