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§3 「アローテ」 ドア越しに低く暖かい声が聞こえた。アローテの心臓は、それを聞いただけで早鐘のように打ち始める。 「リュート」 「ついてきてほしいところがあるんだ。少し遠出になるけど、行けるか?」 「わ、私、着替えが……」 「下で待ってる。時間はいくらかかってもいいから、降りてきてくれ」 大急ぎで水を浴び、髪を梳かして、外出用のローブをまとう。 鏡の前に立って自分の顔を見つめると、またじわりと涙がにじんだ。 今日こそリュートは、私のことなど何とも思っていないことを告げるのだ。どこかに連れ出すのは、誰にもさとられないための彼の思いやり。 それなのに私は、どうして彼といっしょにいられるというだけで、こんなにも浮き立ってしまうのだろう。 杖を手に降りていくと、リュートは黙って、彼女の一歩手前を歩き始めた。 城門脇の馬小屋でふたりの馬を受け取ると、都の外に出た。 何日かぶりに街の外に出たアローテは、乾燥していたはずのペルガの大地が、みずみずしい緑の牧草に蔽われているのに目を奪われた。 しばらく山に向かって馬を走らせる。 いくつめかの丘の頂上で地面に降り立つと、そこには見たこともない光景が広がっていた。 今まで何もなかったはずの場所に、川が流れ、湖ができ、その周囲一面に、色鮮やかな花々が咲き乱れ、鳥や蝶が舞い、小動物が草の間から顔をのぞかせる。 「すてき……!」 うっとりとつぶやくと、リュートが彼女の隣に立って、言った。 「何週間か前、夜になるとどしゃぶりになる日が続いただろう。あれが、この国の短い雨季なんだ。 一ヶ月足らずの短い間だけど、今だけ川(ワジ)ができて、その回りに一斉に花の種が芽を出す」 「一ヶ月でこの花は、みんな消えてしまうの?」 「ああ、一年に一度、今だけの景色だ。俺のいちばん大好きな景色をおめえに見せられてよかった」 「リュート……」 ふたりは長いあいだ、何も言わずに、暖かい春風に吹かれていた。 このまま永久にリュートが何も言わなければいい。アローテはそう願った。 嘘でもいいから、恋人同士のように並んで、永遠の時を過ごしたい。 しかしついにリュートは、彼女のほうを一度も見ないまま、「アローテ」と呼びかけた。 「なに……?」 彼は手に持っていた大剣を地面に置き、自分も腰をおろした。 「俺は、おめえに想ってもらうような値打ちのある男じゃない」 「……」 「本当の俺を、たぶんおめえは知らない。俺が今まで相手にした女は、10人や20人じゃきかない。俺は汚れ切ってる。 クレアでさえも、俺は心から愛してるわけじゃない。あいつの眼の前で他の女を口説いたことだって何度もある」 「どうして、なの……?」 「さあな、俺にはひとりの女を愛するってことがどういうことか、全然わからねえんだ。その場かぎりで満たされればそれでいい。遊んで、後腐れなく別れる。それで十分だと思ってる」 「そんな……」 「それくらい人の道からはずれてるんだ、俺は。獣以下だ。好きになってもらうような資格なんてねえ。今言ったことだけじゃない、とても人には話せねえようなことも俺はやってきた」 リュートは地面の土を手で鷲づかみにした。「わかってくれ。これ以上言わせるな……」 「……何よ。資格なんてない、とか。値打ちがない、とか」 アローテは、涙でかすれた声を次第に荒げた。 「勝手に好きになったのは私の方なのよ! あなたに資格があるとかないとかじゃないわ。値打ちなんて、関係ない! 好きになっちゃったものは、もう後戻りできないの!」 「アローテ」 「あなたは誤魔化してる。私を子どもだと思ってばかにして、自分の本当の気持ちを話してくれようともしない。俺には資格がないなんて、卑怯よ! 私のことを嫌いなら、はっきりそう言って!」 「俺はいつか、おめえを傷つける!」 仁王立ちに草むらに立つ彼女を見上げるリュートのまなざしは、いつもと立場が逆転しているかのように頼りなげだった。 「俺はときどき、自分でもわけがわからなくなるんだ。自分で自分が止められねえことがある。何もかも壊したくなる。そういうとき、俺のそばにいた奴は、まるで魔物になっちまったみてえだったと教えてくれた。目が光ってたって。俺はきっと、頭が狂ってるんだ」 「私を傷つけたければ、傷つければいいわ。殺したくなったら、殺して!」 アローテは決然と唇を結んで、リュートのそばにしゃがみこんだ。 「でも、私はあなたが好き!」 「ア……ローテ」 そのとき、突然リュートの全身がバネのように弾けた。 彼は一瞬のうちに片膝をついて身を低くし、左手を剣の柄に置く戦闘態勢をとった。 「アローテ。俺のうしろに入れ!」 彼の後ろ姿は、まるで電光を帯びたように、ゆっくりと力をみなぎらせていく。 「……敵?」 「完全に気配を消してやがった」 声が緊張のあまりしゃがれている。「強え……!」 石を投げて届くほどの向こうの丈の高い花畑の中から、ひとりの男が身を起こした。 魔族だ。 尖った頭部。緑色の皮膚。しかしその顔は、今まで出会ったどの魔物よりも人間に近いものを感じさせた。 体そのものが甲冑の硬さを帯び、背中からは折り畳まれていた薄茶色の翼がゆっくりと開かれていく。 立ち上がると、手に2メートルほどの槍を握っていた。 『やれやれ、せっかくの美しい景色を愛でていたのに、無粋な人間どもに邪魔されたな』 演説に慣れた裁判官のような朗々とした声だった。 『魔将軍だな』 リュートも一分の隙も見せずに、腰を上げる。 『ほう。その剣。貴様、人間の名のある戦士のようだな』 『こんなところでひとりで、何をしてやがった』 『言っただろう。景色を愛でていた、と。この地上は美しい。愚かな人間どもに任せておくのは、宝の持ち腐れというものだよ』 魔将軍は、オレンジ色の瞳を細めて、笑った。 『ついでにペルガ王都に配備された人間の軍の様子も空から偵察させてもらった。一個師団……装備と訓練は行き届いているようだが、まだ数は足りない。援軍が来る前に叩いておいたほうが良さそうだな』 リュートは肌が粟立つのを覚えた。彼の人生の中で、敵の気配を悟れないまま戦闘に突入した経験は、ほとんどない。 それだけに、彼は動揺していた。この数日、アローテのことで頭がいっぱいで、剣の手入れさえしていなかったのだ。 背中に冷たい汗が伝う。 「アローテ、逃げろ」 「何言ってるの。私も戦う」 「こいつは半端じゃなく、強え。俺一人では勝てる気がしねえ」 「だったらなおさら、私の回復呪文が……」 「おめえを守りきる自信がもてない。奴の隙を見て、馬で逃げてアッシュたちを呼んで来てくれ。小一時間くらいなら、なんとか持ちこたえられる」 「リュート。……あなたがそんな弱気なことを言うなんて」 「いいから、行け!」 リュートは、子どもの背丈ほどもある大剣を鞘から放った。 『そこまで調べられたら、おめえを魔王軍に帰すわけにはいかねえ。悪いがここで始末させてもらうぞ』 『フフフ。貴様の名前、聞いておこうか。私は魔将軍が一人、ライゼル』 『俺は、リュートだ!』 剣を構えると、リュートは電光石火の勢いで敵に襲いかかった。 しかしライゼルは、それと切り結ぶこともなく、いとも簡単に太刀をかわすと、リュートの頭越しに舞い上がり、アローテ目がけて槍を構えた。 「しまった! アローテ、よけろ!」 走りながら上空の影に気づいた彼女は、間一髪横に倒れこみ、槍の切先をすんでのところで逃れた。 次の瞬間、リュートが朝露に濡れた草を利用してすべりこんで戻ってくると、アローテの前で低く構えた。 『ほう、人間にしてはたいした素早さだな。リュートとやら』 「こいつ、……めちゃくちゃ早え!」 まだ戦いは始まったばかりだというのに、これだけあえいでいるリュートを見るのは、アローテは初めてだった。 『クソ野郎! おめえと戦ってるのはこの俺だ。女を標的にするなんて卑怯だぞ!』 『ハハ……。いちばん弱い者から確実につぶしていくのが、兵法の常道だ。卑怯呼ばわりは心外だな』 「ちっくしょう!」 ふたたびリュートは、渾身の力をこめて剣を打ち下ろした。相手はそれを槍の穂先でかちりと受け止める。 「アローテ、何してる。逃げろ!」 「は、はい!」 『フ、よそ見をしている場合かね』 魔将軍は槍をくるりと回転させると、リュートが剣を構えなおす直前に、彼の肩をかすめた。 「ぐっ!」 小さな血しぶきをあげて、リュートは後ろに跳ね飛ばされるところを何とか持ちこたえた。 しかし、運悪く肩からの血が彼の目をふさいだ。拳でぬぐって、ようやく片目だけかろうじて開けた瞬間。 「アローテ!」 まるで祭りの影絵のように、ライゼルが逃げるアローテに空から襲いかかり、彼女の背中を斜めに切り下ろす一部始終が瞳に映った。 「アローテーッ!」 リュートは、花のじゅうたんにうつぶせて動かなくなったアローテに駆け寄ろうとしたが、その前にライゼルが舞い降り、立ちはだかった。 『ふふ。これで気を取られることもなく、戦いに専念できるだろう』 『このコウモリ野郎、よくもアローテを……』 リュートは奥歯をぎりっと鳴らし、怒りの炎を燃え上がらせて、敵をにらんだ。 『いい表情だ。やっと本気になれたようだな』 『うるせえ!』 リュートはふたたび、戦鬼のように魔将軍に打ちかかった。右に左に上から下から、容赦ない太刀を浴びせる。しかし、ライゼルは槍の穂と柄で巧みにそれらを受け止める。 『ほう。さっきより一段と素早さと攻撃力を増したな』 『さっさとおめえを殺して、アローテの手当てをする。おとなしくくたばりやがれ!』 『フハハ。まだ女が生きていると思ってるのか』 ふたりは渾身の力でぶつかり合って、離れた。 『私の槍は今まで獲物を仕損じたことはない。女の心臓まで串刺したはずだよ』 『……くそう』 魔将軍の目には、リュートの瞳が青い鬼火のごとくに光ったように見えた。ライゼルは微笑を消し、ピクリと眉を上げた。 リュートは今度は慎重に間合いをとりながら、狙いを定めた。 ライゼルは翼を使って、上空を自由に移動し、つかまえることができない。しかも、その槍はリュートの大剣より数十センチは長く、懐に飛び込むこともままならないのだ。 リュートは意を固めると、さらに加速を増した攻撃をしかけた。 『貴様の潜在能力、……無限か』 ライゼルがかすかに恐怖をにじませた声でつぶやくのが聞こえる。 そのたじろぎを見逃さず、リュートは雄たけびを上げると、剣を大上段にふりかざした。 とっさに魔族は『殺った』と叫びながら、リュートのがらあきの腹部に、槍を突き立てた。 リュートはかすかに顔をしかめたが、すぐにそれは笑みに変わった。 『捕まえたぜ』 『なにっ!』 槍の穂先を自らの身体に咥(くわ)えこんだことにより、リュートは敵を自分の間合いに誘い込んでいた。 彼はそのまま、脳天目がけて、剣を振り下ろした。 『グァ……ア!』 頭を黒い血に染めて、ライゼルは槍から手を離し、仰向けにゆっくりと地面に倒れた。 『肉を切らせて骨を断つ戦法か……。見事だ。人間にしておくには……惜し……い』 「ハア……ハア」 リュートは自分の剣をぼとりと落とすと、片膝をついて、槍の柄を逆手につかむと、ありったけの力をこめて腹から引き抜いた。 「く……そっ……」 傷口から、どっと赤い血があふれ出る。それに気も留めず、よろめきながらアローテのもとに走りよった。 「アローテ」 彼女のそばににじり寄ると、両手で彼女のローブの背を乱暴に引き裂いた。 白い背中の斜めにえぐれた傷が、血を滴らせている。 リュートはベルトサックから薬を取り出すと、震える指で彼女の傷に血止めを塗った。 そして抱きかかえて仰向けにすると、気つけ薬を彼女の口にあてがった。 「アローテ、飲め……。飲み込むんだ」 アローテは苦しげに唇を動かした。 「しっかりしろ! アローテ! 飲み込め」 彼女の喉がようやくコクンと鳴った。 「死なせねえぞ、アローテ。俺の命に替えても」 リュートの目から涙がひとすじ、流れ落ちた。 「俺はまだおめえに……何も言ってねえ。俺の気持ちを……おまえのことを……アローテ!」 しばらくして、アローテは目を開けた。 痛みにあえぎながら、ゆっくりと体を起こすと、自分の背中から胸にかけて、幾重にも包帯が巻いてあるのに気づいた。 そして彼女のかたわらで、自分の血の海の中で力尽きて倒れているリュートの姿も。 長い時が経って、リュートは意識を取り戻した。 そこは、さきほどの花畑の真ん中で、彼は仰向けに寝かされ、頭をアローテの膝の上に乗せていた。 「リュート」 「アローテ? もう大丈夫なのか?」 「ええ、あなたが応急処置をしてくれたから。あとはちゃんと自分の回復魔法で治したわ」 「そうか……」 「あなたはどう? リュート」 「腹の傷はもう痛まねえが、体がだるくて……動かせない」 「そりゃあ、あれだけ血を出したんだもの」 アローテはくすっといたずらっぽく笑った。 「実はわざと回復魔法を一回分かけないで放ってあるのよ。私を泣かせた罰」 「ひでえな」 「ひどいのは、そっちよ。リュート」 「そう言えば……。おめえの背中の傷を手当てするとき、服を裂いて、胸を見ちまったよ」 彼は弱々しく微笑んだ。 「思ってたよりずっと大きいな。……俺、思わず勃っちまいそうだったぜ」 「それだけの元気があれば、やっぱり呪文はいらないわね」 アローテは屈みこんで、彼に口づけした。 「卑怯だな。俺は動けねえんだぜ」 「いいの。このままずっと動けなくして、私一人のものにするんだから」 花の上をひらひらと一匹の蝶が舞った。 青い蝶をとうとう捕まえたわ。 アローテは心の中でそうつぶやくと、もう一度彼の上に屈みこんだ。 「愛してるわ。……リュート」 |