新ティトス戦記 Chapter 1 |
それは、なんとも奇妙な三人連れだった。 煤煙をすすぎ流すような雨が、天の蔵を破って落ちてくる。 夕暮れどき、水しぶきに霞む灰色の街の大通りにまず姿を現したのは、荷馬車を操る長身の若者だった。 右手に黒檀の杖を、左手に馬の手綱を握り、忌むべき魔導士のローブに身を包み、住民たちの嫌悪に満ちた視線の中で、その灰色の瞳は依怙地なまでの真っ直ぐさで、行く手を見つめている。 小型の馬車の荷台には、質素な木造りの大きな箱が乗っていた。 すぐ後ろに続く馬には、女性のように華奢な少年がまたがっている。帝国騎士の証である紋章入りの剣を除けば質素な旅装。しかしそのくすんだ色目が、かえって雨にうたれた黄金色の髪を輝かせている。 高貴な生まれであることは確かだった。しかし、自信にあふれていいはずの緑色の目は、大通りのどこにも注がれていない。思いつめたように自分の内側に向けられているのみ。 さらにもう一頭の馬に乗っているのは、つば広の帽子を目深にかぶった少年だった。どんな表情をしているのか、口から上は見えない。肩から下げた袋には、吟遊詩人の命である竪琴を入れて雨から守っている。前の二人とは一線を画するように、わざと通りの反対側を進み、ときおり敵意を含んだよそよそしさを投げつける。 彼らの姿は、人々の心に一旦は残ったものの、朝の夢のようにたちまち忘れられた。やがてはティトス全土を崩壊から救う三人であることも知られぬまま。 ――新ティトス暦998年のこのとき、彼らはまだ自分を隠して生きている。 町の目抜きを一本はずれた通り、格式のある古い宿屋の前で、一行は馬を止めた。 騎士は馬を降り、軒から落ちてきた雨のしずくを額から掃った。その拍子にひと房の長い髪が頬にかかるのを、うざったげに追いやる。 お辞儀をしながら迎えに出てきた宿の主人に、言った。 「今夜の宿を頼みたい。上等の部屋を3つ」 「はあ、しかし……」 慇懃な調子ながらも言葉をにごらせた主人は、ちらりとローブ姿の魔導士を見た。 「宿代はたっぷり払う」 畳み掛けるように騎士は続けた。慣れきった、いつものやりとりだ。「通常の倍。それで文句はなかろう」 「よろしゅうございます」 主人は卑屈に笑みながら、小声でささやいた。 「ただし、他のお客様の手前があります。お連れだけは裏口から入っていただきませんと」 「うむ」 同意を得るために振り向いたが、当の本人はもう早々と馬車の荷解きにかかっていた。 そのかたわらに素知らぬ顔で立っている吟遊詩人を軽くにらみつけてから、騎士は宿屋に向き直る。「荷物を運ぶ手伝いの者をふたり、よこしてほしい」 主人に呼ばれて奥から出てきた大柄な男たちは、魔導士の指差す木の箱を一目見て、言った。 「まるで、棺桶のようだな」 「古代ティトスの遺跡より持ち帰った貴重な彫像だ。心して運んでくれ」 「テアテラには、人間を石に変える魔法というのも、あったりしてな」 「おお、怖い」 男たちの揶揄のことばに、眉をひそめ返しただけで、魔導士は無言で裏口をくぐった。 木の天井扇がかたかたと、湿った空気をかき回していた。 男たちの手によって部屋の床に置かれた細長い箱を、騎士はぼんやりと見下ろしていた。 宿の使用人が、天井から吊り下がるガス灯に火を灯して、出て行った。 「姫さま」 後ろ手に扉を閉めた魔導士が呼びかけると、まるでそれが合図であったように、ゆっくりと頭にはめていた飾りつきのサークレットをはずす。髪は豊かな水のように肩に流れ落ち、そこにはもはや少年騎士ではなく、男装の高貴な姫君が立っていた。 新ティトス帝国の神聖にして侵すべからざる皇帝セオドリク2世の名代、第一皇女エリアルへと。 「あの者は、どうしている? ジュスタン」 皇女は顎を、隣室の壁についと向けた。 「あてがった部屋で、旅装を解いていると思いますが」 ジュスタンと呼ばれた魔導士もフードをはずし、彼女のかたわらに立った。 「目を離すな。彼の真意が明らかになるまで」 「心得ております」 ラディク・リヒターと名乗った、あの少年。【リヒター】というのは、ルギドとその妻アローテの直系の子孫が名乗ってきたと言われる苗字だ。 瞳の色を見れば、そのことを疑う余地はあるまい。 「あの者……いったい、何が目的なのだろう」 「わかりません」 ジュスタンは首を振り、悔しげに付け加えた。 「だが、彼の言うとおりでした。封印の剣を抜くことは、奴にしかできなかった。世界中の力自慢の男たちに試みさせてもダメだったというのに」 あのとき波間から立ち昇ったまばゆいばかりの光が、ふたりの記憶の中に差し込む。 まだ成長しきっていない小柄な16歳の少年が、海の底でどんな力を使ったかわからない。しかし、彼が深々と大岩に突き刺さった剣を抜き取り、今目の前に横たわるこの箱の中身を引き上げてきたのは事実なのだ。 思いに耽りながら皇女が伸ばした手の行く先を、魔導士の杖がふさいだ。 「何をなさるのです?」 「もう一度、見てみたい」 エリアルは【棺】の蓋を指の腹でなでながら、言った。中に収められているものを考えれば、それはまさに【棺】だ。 「……危険です」 「なぜだ。鼓動も息もせぬ冷たい骸だというのに」 低い笑い声を漏らす皇女に、ジュスタンは軽いため息を吐くと、命じられたとおりに蓋のかんぬきを開けにかかった。 木の蓋がしずしずと取り除かれると、雨天の早い夕闇のもたらした薄墨色に染まった部屋に、ぼうっと銀色の光があふれだす。 箱の中には、長身の魔族の身体が、膝を折り曲げるようにして横向きに収められていた。彼を突き刺していた細身の黒い剣とともに。 千年もの歳月を海の中で過ごした男。不思議なことに、衣に破れなく鎧に錆なく、魔族の浅黒い肌も、銀の髪も、まるで昨日まで生きていたかのように滑らかだった。 固く目の閉じられた横顔は、まさに彫像と言えるほど完璧で、そして死のように冷たい。 「もうこれで、後戻りはできないな。ジュスタン」 うつろな声で、彼女はつぶやいた。 「後世の者は、私のことを何と評するのだろう。帝国を救った皇女。それとも――帝国をその手で滅ぼした愚者」 「後悔しておられるのですか」 ジュスタンは固い声で問いかけた。 「もしそうならば、まだ間に合います。わたしが解呪の魔法を唱えなければすむことなのですから」 「いや」 エリアルは即座に答えた。 「後悔はしておらぬ。これしか道はないのだ。わが帝国を滅びから救う道は」 「はい」 「今訪れつつある緩慢な滅びか、解き放たれた【封じられし者】による急速な滅びか。その反対に、彼の力を得て魔の脅威から救われるか。今の帝国には、この3つの選択肢しか残っていない」 「……はい」 自分が迷いのことばを口にするたびに、この生真面目な魔導士が我が身を責めることを、エリアルは知っていた。知っていてなお弱音を吐く自分を、意気地なく愚かしいと思う。 そうやって、本来自分ひとりに委ねられた世界の運命という重荷を、少しでも彼に背負わせようとしている。 エリアルはもう一度、魅入られたように棺の中の物言わぬ横顔を見つめた。 自分は、この古の魔族の魔力によって、すでに狂わされているのかもしれない。 だが、狂うなら狂いたいと思った。兄皇子のように、もはや苦しみも葛藤も感じぬほど徹底的に。 酒場の隅の席に、誰の目も引かないように静かに、若い吟遊詩人が座っていた。 皿はおおかた空になり、気泡酒はほとんど手がつけられないまま生ぬるくなっていたが、ラディクはなお帽子の影に顔を隠し、手元を見つめていた。 「さて、ここまではうまく行った」 唇がかすかに動いたあと、乾いた笑いが刻まれる。 「あとは、あの魔導士の仕事を待つだけだ。【あいつ】が息を吹き返したら、まず何をしてやろう」 町の入り口にほど近い安手の酒場は、工場の仕事が終わって繰り出した男たちの喧騒で満ちている。 「ああ、やっぱり機械仕掛けの風琴の音色は、単調でいけないやな」 油で作業着や顔を黒く汚した男が突然、呂律の回らぬ大声をあげた。もうかなり出来上がっているらしい。 「おい、見ろよ」 彼の連れが、くいと人差し指を突き出す。その指の先に座っていたのは、あの吟遊詩人だ。 最初の男が立ち上がり、よろよろとテーブルのあいだを縫って歩くと、どんと両手を彼の前についた。 「よう、一曲歌ってくれねえか」 ラディクは少し頭を上げると、丁重に断った。 「悪いな。今日は食事を取りに寄っただけだ。歌うつもりではなかった」 「じゃあ短いのでいい。給料が入ったばかりだ、金ははずむぜ」 「第一、竪琴を持ってきていない」 「えれえ詩人さまは、楽器がないと歌えねえのか」 仲間たちの手前、引っ込みがつかなくなった男は、次第に不機嫌になっていく。吟遊詩人は嫌悪に口元をゆがませたが、それでも静かに答えた。 「今は私用の旅の途中だ。勘弁してくれ」 「じゃあ、なんでこんな帽子をかぶっているんだよ!」 作業着の男が怒りにまかせた強引な素早さで、吟遊詩人の印であるつば広の帽子をむしり取った。 そして勝ち誇ったように、露わになった少年の顔を見おろしたものの、次の瞬間「ひっ」という悲鳴を上げて後じさった。 「紅い目……」 「魔王の目だ」 口々の驚愕のつぶやきが、広い酒場に波紋のように伝わっていく。 詩人は椅子から立ち上がって、凍りついたように動かない客たちをゆっくりと見渡した。その瞳は赤玉のように冷たく輝いている。 「どうしても聞きたいなら、聞かせてやろう。とっておきの歌を。ただし、竪琴の代わりになるものを借りねばならんな」 ラディクは調子を取るように、低く長い音を喉から出した。 どこかのテーブルで、ガラスのコップがかちりと鳴った。 次いで、その隣のテーブルで、かちり。 くるくると回り始め、あわてて押さえようとする者の手を逃れて、床に酒をぶちまけたコップもあった。 酒の壺が宙に浮いて、どすんと落ちる。 かちり。かちり。どすん。どすん。 はじめて目にする異様な現象に、人々は恐怖のあまり席を立つこともできない。 吟遊詩人は薄く笑うと、大きく息を吸い込み、朗々とした声で歌い始めた。 まがまがしきは 紅き瞳 氷のごとき 銀の髪 世界のすべては 彼の手に 跡形もなく 砕かれよう 古の帝国 踏みにじりし足で うるわしのパロスも 砕かれよう 歌が終わると、酒場の中には静けさが満ち、身じろぐ者とてなかった。 ラディクは、呆けたように立っている男の手から帽子を取り返すと、カウンターに近づいた。 「勘定を」 酒場の主人は、はっと我に帰ると、ぶるぶると首を懸命に振った。 「お代はいりません。――歌っていただいたお礼です」 「それでは、これは割れたコップの代金だ」 銀貨を一枚置くと、帽子を目深にかぶり直した吟遊詩人は、マントをひるがえして扉をくぐった。 雨は止み、外はすっかりと夜だった。往来のガス灯の明かりと工場の排煙のせいで、星はほとんど見えない。 「【あいつ】が目覚めたら、とりあえずは一発ぶん殴ってやる」 くすんだ空を仰ぎながら、少年は愉快そうに笑った。 |