新ティトス戦記 Chapter 2 |
パロス宮殿の庭は年中花が絶えることがない園として有名だが、ことにこの時期は、行く秋を惜しむように花の色が深みを増すのだった。 エリアルは階段を下り、香りを鼻腔いっぱいに吸い込んだ。 花々の中に、幼い頃の自分が走り回っているのが見える。袖のふくらみをバラの棘に引っかけて、ころんでしまう。兄が寄ってきて、泣きべそをかいている彼女を抱き上げ、笑いながら慰めてくれた。 『バラは、エリアルのドレスの美しさをねたんだのだよ』 追憶から引き戻されると、エリアルは歩き始めた。園の中央に、ツタにおおわれた乳白色のあずまやがある。 侍女たちとともに座っていた細身の青年が、近づいてくる彼女に気づいた。 「エリアル!」 たどたどしい声を上げて走りよってくる彼を、エリアルは両腕で抱きとめた。 「ただいま、兄上」 「エリアル! エリアル! いつ戻ってきたの?」 「ゆうべ遅くに宮殿に着きました」 と微笑みながら、母親のように彼の頬をなでる。 「エリアルはいっつも旅ばかりして留守だから、つまんないよ」 「申し訳ありません。今度は少し長く宮殿におりますから」 「またいっしょに、六柱戯で遊ぼう」 屈託ないまなざしを向けてくる彼の整った顔には、額から左目にかけて醜いえぐれたような傷跡が残っている。 二年前、テアテラとの戦に赴いた皇太子エセルバートは、敵魔導士の雷撃の魔法によって、頭に癒されることのない大きな傷を受けた。 それ以来、戦いも苦悩もない忘却の国に住んでいる。 何も知らぬ少女だったエリアルが走り回っていた園で、今は兄が未来への恐怖にさいなまれることもなく、幸福に暮らしている。 (私こそ、兄上がねたましいのだ) 信頼しきって体を預けてくる、子どものような兄。彼の袖に爪を立てようとして、エリアルはそう気づき、唇をかみしめた。 病床の父帝は、痩せた顔に目だけを大きく見開いて、皇女が入ってくるのを見つめた。 「陛下。ゆうべはもうお休みでいらしたので、ご挨拶が遅れました」 騎士装束で片膝をつき、臣下の礼を取る娘に、セオドリク2世は弱々しく手を差し伸べた。 「おお、わが子よ。健やかかね」 「はい」 皇女はその皺だらけの手の甲に接吻をして、答える。 「今回の旅の目的、首尾よく果たしたことをご報告いたしとうございます」 しかし皇帝は、彼女とはまったく別の方に視線を向けた。 「エセルバートには会うたか」 「はい、先ほど」 「どうしている?」 「……健やかにて、お過ごしになっておられます」 父の顔にはじめて笑みが浮かんだ。 「それはよい。もうすぐ、あれも回復して、この帝国を余の代わりに治めてくれるだろう」 「――はい」 能面のように無表情で、エリアルは答えた。老いた父にとって、関心は兄だけなのだ。女であるエリアルが行っていることなどに、何の期待もしていない。 彼女には三人の兄妹がいたが、そのうち二人は夭折した。 戦に明け暮れる治世の皇女として、エリアルもそれなりに武芸に励んだ。だが、所詮女のまねごと。父の期待はすべて皇太子である兄のみに向けられた。今でもそれは、まったく変わっていない。 憔悴しきった気持ちで父の病室を辞すと、険しい表情の侍従が待ち構えていた。 「エリアルさまのご帰還を聞きつけて、謁見の広間に大勢の者が訪れています。殿下に何としても、お目通りを願いたいと」 「午後まで待つように言ってくれ。今は気分がすぐれぬ」 「それはなりません。あなたには皇帝名代としての公務がおありになるのですぞ。それなのに、いつも気がつけば帝宮を抜け出しておられる。我が儘もたいがいになさいませ」 「わかった……すぐ行く」 兄が倒れて、その衝撃で父も病み、皇族の中でも軽んじられていた彼女が皇帝名代として、強いられて人々に会う。なんと皮肉なことだろう。 謁見には午前中いっぱいかかった。疲労にふらつきながら皇宮に戻ると、足は自然と渡り廊下へ、そしてその奥の【翠石宮(すいせききゅう)】へと向かった。 濃緑の大理石でできた宮殿。その回りを取り囲む回廊には、高窓から差し入る午後の太陽が、光と影の縞模様を織っている。 そこに、あの吟遊詩人が立っているのを見つけた。 人ひとりいない静謐の空間に、ラディクはその影のひとつになりすましたかのように立ち、上を仰いで、何かに目をこらしていた。いつも頭に置くあの帽子はなく、淡い光の反射を受けて、その目は紅く静かに燃えているようだった。 「おまえほど、この場所が似合う人間はいないな」 エリアルは近づきながら、笑いかけた。 振り向いたラディクの表情は一瞬で、ふてぶてしいものに変わった。 「ゆうべはよく眠れたか。何か不自由なことはなかったか」 客を迎えた主人の心得として問いかけただけのつもりだったが、彼は険を含む言い方で答えた。 「パロスの宮殿でもてなしを受けて、不自由だったと答えられると思うか? そんなことを言おうものなら、首がとんでしまう」 「……」 ことばが途切れ、気まずい沈黙が続き、仕方なくラディクが先ほどまで見つめていた視線の先を追った。 そこには、天井との継ぎ目に石飾りとして掲げられた銘文があった。 「この銘は、初代皇帝アシュレイの遺言を彫らせたものだと言われている」 エリアルのつぶやきに、吟遊詩人もふたたび目を上に向けた。 そこには、こう書かれてあった。 【 神よ 帝国を守り給わんことを 彼をして 永遠(とわ)に守らしめ給え 】 「千年前、この【翠石宮】を作らせたのは初代皇帝アシュレイだった。今は城の者さえめったに通わぬ場所になってしまったが」 「皇帝は、本当に信じていたのか。彼がよみがえることを」 「そうだ。そして、いつの日か彼がここに住まい、ここから帝国を治めることを」 皇族の住まう皇宮の最奥、庭と森に囲まれた最も尊く美しい場所、【翠石宮】。 ここは【封じられし者】ティエン・ルギドのために作られた宮殿だった。贅を尽くした装飾が施された大広間や寝室や居室が、千年も前からアシュレイの手によって準備されているのだ。 それらを取り巻く回廊の壁には、多くの絵画がずらりと架けられている。 それは油絵であったり、レリーフであったり、モザイクであったり、タペストリであったり、大きさも手法もさまざまであったが、どれもただひとりの姿を主題に描いたものであることは共通していた。 「左端のこのモザイク画は、アシュレイが宮廷画家に作らせ、みずからここに置いたものだ」 彼らの目の前にある絵は、緑のしたたる村の風景だった。中央で、銀色の髪の魔族が黒髪の女性に一輪のダフォデルの花を差し出しているという構図。全体に柔らかく、明るい色調でまとめられている。 現存するモザイク画で、これほど保存状態の良いものは稀だった。 「魔族の王子とその妻の婚姻の儀を描いたものだと言われる。美しい光景だ」 うっとりとした声を上げたエリアルの横顔を、ラディクは驚いたように見た。 「人物の表情も穏やかで優しい。皇帝が彼に寄せていた信頼がわかる。私が一番好きな絵だ」 彼女のことばを受けて、モザイク画を穴の開くほど見つめた吟遊詩人は、古歌の一節をそらんじて歌い始めた。 げに 水仙の花の たおやかさに まさりて 乙女の 麗しさ いかばかり ならむ 「良い声だ。宮廷専属の歌うたいに劣らぬ」 最上級の褒め言葉のつもりなのに、彼は侮辱されたように、ぷいと顔をそむけてしまう。 気まぐれな相手の心情を汲むことに疲れたエリアルは、先を続けた。 「時代が下ると、印象派絵画の全盛となる。後期印象派では、室内に明かりがぼんやりと灯る情景が好まれた。これは、スミルナの賢王ゼリクの城での謁見の光景だ。 古典復興期には、背景は黒く塗られ、前景の人物の肌のきめや、髪の毛の一本一本、服のひだや小物の細部が描かれるようになる。これは彼と冒険をともにした人々、アシュレイ、ギュスターヴ、アローテと立つ群像だ」 奥に進むにつれ、エリアルの靴音が高く回廊に反響した。「この回廊はそのまま、わが国の美術史を映す鏡となっている」 ラディクは足音を立てず、後に従った。 「やがて、抽象期が到来する。すべての造形は単純化されデフォルメされ、抽象的な表現が好まれるようになる。そして、このレリーフを境に決定的な変化が訪れた」 靴音が止まった。 それは、戦いの一場面を刻んだ巨大なレリーフだった。大勢の魔族と人間が刃を交える戦場の中心に、鎧をまとった魔族の指揮官が、吼えたける獅子のように髪をふりみだし、人間の兵士に刀を突き立てている光景。 「これが描かれたのは、今から150年ほど前」 エリアルは悲しげに言った。「この前後から、【封じられし者】は、人間の敵、世界を滅ぼす者、得体の知れぬ恐怖の具現者として表されるようになった」 「歌の歴史も同じだ」 ラディクは、彼女の熱心さに引きずられるように答えた。 「それまで、【封じられし者】の功績を讃えていた明るい歌は忘れられ、代わりに、残虐な破壊者がもたらした恐怖と悲しみが歌われてきた」 「変化が起きた時期は一致している――150年前。蒸気による熱機関が発明されたのが150年前だった。それからわずか数十年間で、歴史は大きく動き出した。最初の魔導士の叛乱が起きたのも、……【ガルパの虐殺】が起きたのも、ほどなくだった」 あとは壁一面に、暗く陰惨なモチーフが続いた。目をそむけたくなるほど、つらい絵だった。その時代の民衆の、魔と魔法に対する恐怖と嫌悪に満ちている。 「あんたは、どちらを信じているんだ?」 ラディクの唐突な問いかけに、エリアルは振り向いて、あいまいに微笑んだ。 「初代皇帝の遺言のほうを信じたからこそ、封印を解くことを決意したのだ」 「【封じられし者】は、帝国に与し、帝国を救うと?」 「そうだ」 「だが、奴が一万年前に古代ティトス帝国を滅ぼし、千年前に再び数々の王国を壊滅させたのは事実だろう」 「……おまえこそ、どうなのだ」 エリアルは探るように尋ねた。「どちらを信じている。封印を解こうとした目的は何だ?」 「答える必要はないな」 吐き捨てるように答えると、吟遊詩人は大股に歩みだし、広間への扉のひとつを開けた。 「待て、ジュスタンが言うには」 あわてて後を追いかけ、エリアルも広間に入る。 「部屋の気を乱しては、いけな……いと……」 語尾は沈黙へと溶けた。 大広間のアーチ型の天井は日光を複雑に反射させながら、巨大な室内を浅い海の中のように染めている。中央には、床と同じ材の緑石の台座がしつらえられ、そこに【彼】が横たわっていた。 昨夜のうちに、着けていた鎧ははずされ、より魔法を通じやすい白い長衣に取り替えられた。 両手を胸の上で組み、銀の髪は台座より滝のように流れ落ち、変わらぬ死の静寂をまとっている。 ふたりは静かに立ち尽くし、恍惚と畏怖の目で見つめた。 千年の新ティトス帝国の歴史で、絵師や彫刻家、詩人や吟遊詩人たちがたゆまず描き続け、歌い続けてきた対象が、ここにある。 「このまま目覚めないということも、あるのか?」 長い息を吐ききったあと、ラディクが問うた。 「きっと、彼は目覚める」 エリアルはきっぱりと答えた。 まだふらつく足元を操るようにして、ジュスタン・カレルは宮殿の廊下を歩いていた。 ひっそりと真夜中に宮殿に到着してから、旅装をほどく暇ももどかしく、解呪に取り掛かった。 生命封印呪文【イリブル】の解呪ともなると、有に一時間以上の詠唱が必要だ。終わったとき、黒魔導士は魔法力を使い果たし、精も魂も尽きていた。二ヶ月ぶりの宮殿の自室で、そのまま倒れこむようにして眠ってしまった。 【封じられし者】が目覚めたという知らせは、いまだにない。しかしそのことに、どこかで安堵している自分もいる。 呪文を詠唱するあいだ、魔導士は相手の中に潜む本質と否応なしに向き合わされた。底の見えない深い穴のような途方もない魔力。これがもし、解き放たれて破壊に回れば、ティトスは一気に崩壊へと向かうだろう。 こんなものは、この世に出ないまま、いっそ肉体とともに腐り果ててしまうほうがいいのかもしれない。 『この子は、存在してはならないのだ』 2年前、ジュスタンの父がそう叫んでレイアに斬りかかっていったときも、彼女の中にこれと同質の魔性を見たのだろうか。 わずか11歳の【娘】に、反対に返り討ちにされてしまった愚かな父。 極限の疲労に痛む身体を抱えて、宮殿の中庭に降り立つと、エリアルとあの吟遊詩人が、反対側の【翠石宮】から出てきたところだった。 ふたりの姿が、陽にきらめく噴水をすかして見えた。レイアの思い出にふけっていたからだろうか、歪んだ水のベールはほんの一瞬、レイアと彼の兄ユーグが抱き合っている幻を重ね合わせた。 「……汚らわしい」 そんなことばが口をついて出たことに、彼は自分でも気づいていない。 「ジュスタン」 エリアルは、黒魔導士が近づいてくるのを見ると、うれしそうに頬をゆるめた。 「もう身体はよいのか」 「はい、ご心配をおかけしました」 彼は微笑んで、皇女に拝礼した。「【封じられし者】の様子は?」 「まだ、目覚めの兆候はない」 彼女はそう言って、途方に暮れたような表情になった。 「ジュスタン、もしかして……危惧したとおり、解呪が遅すぎたのだろうか」 「そんなことは、ありません」 「だが、旅の間、おまえも案じていたではないか。深い海の底に千年間置かれていた体が、気温や気圧の変化に耐えられるだろうかと。 山越えの長い陸路を取ったせいで、解呪までに五日もかかってしまった。本当は無理にでも海路を取るべきではなかったか」 「姫さまの判断は間違っておりません。内海のほとんどを【反帝国】勢力に牛耳られている今、それしか選択肢はありませんでした」 主従の会話を聞きながら、そばにいた吟遊詩人は嘲るような笑いを浮かべていた。 「傷をなめ合うのはやめて、もっと現実的なことを考えたほうがいいんじゃないか。たとえば、解呪の魔法が失敗した可能性を」 黒魔導士は冷たい目で、年下の少年をちらりと見た。 「ありえない。呪文は完璧だった」 「なぜ、そうとわかる。完成してから一度も使ったことがない呪文と聞いた。そんなものが成功したと、なんで言いきれる?」 「詠唱者には、成功したか否かの判断はつく」 「じゃあ、その詠唱者に迷いがあったという可能性は? 俺は本当にこいつを目覚めさせてよいのだろうかと」 ジュスタンは眉をつりあげた。挑発されたとわかっているのに、自分が止められない。 「わたしは迷ってなどいなかった!」 「ジュスタン!」 皇女の制止を振り切って、彼はラディクの胸倉につかみかかった。 「おまえこそ、いったい何の目的で封印を解こうとする。エリアル姫のように、帝国を再建し苦しみにあえぐ民衆を救うためか。わたしのように、祖国の暴走を止め同胞の罪を償うためか? それほどに命を懸けるべき理由が、おまえにあるとでも言うのか」 ラディクは半目になって笑うと、黒魔導士の手首をつかみ返した。雷撃を受けたような鋭い痺れが走り、ジュスタンは思わず相手から手を離した。 「俺の目的は、世界の崩壊……」 「なんだと?」 「……くくっ。冗談だよ」 とんでもない返答に顔をひきつらせるふたりに、少年はますます哄笑した。 だが次の瞬間、その笑いは驚愕へと凍りついた。 木々を渡っていた鳥が矢のように飛び去った。前触れなしに噴水が止まったかと思うと、池の水が逆流して消え去り、底の青いタイルを剥き出しにした。 太陽が黒雲に隠れ、そして耳を聾する地鳴りがあたりを覆う。立っていられない。 小刻みの不気味な震動は、永遠に続いたかに思われたが、実際はわずか一分ほどで収まった。そのあとは耳が浮き上がるような静寂が訪れた。 彼らはゆっくりと立ち上がった。 「地震か……」 「いえ、地震ではありません。もっとこれは……何か」 ジュスタンは、はっとエリアルと顔を見合わせた。 後ろを振り向いた時には、ラディクがもう階段を駆け上がっていた。 翠石宮正面の大扉を開け放つ。遅れたふたりもあとから飛び込んだ。 乱反射する緑の光の中で、紅い瞳が彼らを射抜いた。 奥の台座の上で、【封じられし者】が起き上がり、まっすぐにこちらを見ていた。 まるで影を縫いとめられたように、三人は指一本動かすことさえできなかった。 |