新ティトス戦記 Chapter 3 |
千年の眠りから覚めた男は、台座の上で片足を垂らし、片膝を立て、まるで臣下の謁見を受ける君主のように座っていた。 生きている証は、かすかな胸の呼吸だけ。三人の少年少女に注がれる目には、はめこまれた紅い水晶のように、何の表情も浮かんでいない。 真っ先に自分のなすべきことを思い出したのは、エリアルだった。 ティトス皇帝を父に持つ彼女でさえも、足の震えに打ち勝って数歩歩み寄るのが精いっぱいだった。 「魔族の王子ティエン・ルギド」 彼女は床に膝をつき、両手を胸の前で交差させて、臣下の礼を取った。 「あなたを煩わせていることを、お赦しください。――わたくしは、初代皇帝アシュレイより数えて三十七代目、新ティトス帝国皇帝セオドリク2世の娘、エリアルと申します」 黒魔導士も同様の姿勢で、斜め後ろにひざまずいた。 「わたしはジュスタン・カレル、ギュスターヴ・カレルの血の流れを汲む者でございます。先祖より受け継ぎし【イリブル】の解呪法は、わたしが唱えました」 そして、興奮にうわずった声で付け加えた。「わが祖国テアテラが、帝国に謀反を起こしたのです。今ティトス全土は麻のごとく乱れております。なにとぞ、御力をお貸しください」 やはり答えはない。 ラディクだけはひとり、彼らの後ろで顔を上げ、目の前の魔族をまっすぐ睨みつけていた。 (なぜ動かない……。全身まるで隙だらけだ) 頭の中で自問する。 (千年眠って目覚めたのだ、普通ならば、未知の事物に戸惑い、警戒し、身を守ろうとするだろうに。 それとも、こいつはそんな用心も忘れているほど、頭が麻痺しているのか。海の底に沈んでいるあいだに、単なる木偶の坊に成り下がってしまったのか) 「……確かめてやる」 ラディクは呟くと、腰の鞘からナイフを引き抜いた。 そして一瞬のちには、ルギドの正面に走りこみ、刃を肩に突き立てようと踊りかかった。 そのとき、たった今まで彫刻とさえ見えたものが動いた。筋肉がしなやかにねじれ、水かきのある手が伸び、ラディクの耳を軽い笑い声がくすぐった。 気がついたときには、ナイフは宙を舞い、少年の体は台座の反対側に放り出された。 「あ……っ痛」 したたかに背中を打ち、それでもすぐさま身を起こしたラディクと、ルギドの紅い瞳が交差した。 「……阿呆」 「え?」 「それで?」 「は?」 最初のひとことはラディクに、ふたこと目はエリアルとジュスタンに投げかけられた言葉らしい。 ルギドは立ち上がると、尊大な姿勢で腕を組み、あっけに取られている皇女たちを見下ろした。 「さっきの続きだ。こちらがいちいち相槌を打たぬと、ろくに話すこともできないのか」 「は、いえ、その……」 「テアテラがどうしたと? わかるように話せ」 「は、はい」 エリアルは途方に暮れながら、それでも大急ぎで考えをまとめた。 「では、最初から順を追ってお話しいたします。まず、ここは新ティトス帝国の首都パロスの宮殿です。今年は、新帝国暦998年。貴方が封印の眠りにつかれてから、ほぼ千年が経ったことになります」 「千年も経ったのか」 魔族は鋭い牙の間から、うめく。 「道理で、みな下品な服装をしているはずだな。まるで、麻袋をかぶっている道化だ」 「あ、麻袋……」 エリアルは自分の上質な衣服をまじまじと眺め、あわてて先を続けた。 「この千年間で、帝国は空前の繁栄を遂げました。 150年前に発明された蒸気機関により、船、鉄道などの輸送手段は飛躍的に発達し、帝国のあらゆるところに物資が行き渡るようになりました。 帝国民の生活すべてに機械は恩恵をもたらし、飢える者はなく、もっとも貧しい者さえ豊かさを享受しました。 この繁栄は永遠に続くかに――思われました」 すべてが過去形になってしまったことに、今さらながら胸を突かれ、彼女は感極まって口をつぐんだ。 「機械の発達の陰で、知らぬ間に失われたものもあったのです」 黙りこんだ主の代わりに、ジュスタンが話を引き取った。 知らず知らず魔導士の杖を固く握りしめる。今から話すことは、彼が魔導士として受けてきた差別や苦しみと、無関係ではない。 「蒸気を作り出すために吐き出される煤煙は、海や川や空を汚しました。呪文によって、自然の象徴たる4つのエレメントから力を引き出していた魔導士が、まっさきにそのことに気づいたのです。魔法がだんだんと効かなくなり、今まで民衆の暮らしを支えていた魔導士の力はみるみるうちに衰えていったのですから。 機械と魔法は相容れぬもの。 魔法国テアテラは幾度となく、全ティトスに向かって、自然を害する力を持つ機械の排斥をうったえました。 だが、走り始めた流れを止めることはできなかった。一般の人々にとって、一部の限られた人間に力をもたらす魔法よりも、誰でもが使うことのできる機械のほうがずっと好ましいのは、明らかでした。 そして、テアテラは帝国の中で次第に孤立していき、魔導士は禍々しい存在として疎まれるようになり、そして……」 泣き叫ぶ子どもたち。震えながら許しを請う老人たち。彼らは一室に押し込められ、そして…… 『ユツビ村の惨劇を忘れるな。ガルパ将軍がなした罪悪を。帝国に終わりなき死を』 うなだれたジュスタンの頬に熱いものが伝った。 その様子をじっと見ていたルギドは、口を開いた。 「どうやら、素面では聞けない話らしいな」 凪いだ海のごとき静かな声で、彼は言った。「皇女よ。酒を持ってきてくれぬか。千年ぶりに塩水以外のものを腹に入れたくなった」 「は、はい」 エリアルは、お仕置きから解放された子どものように、すっくと立ち上がった。 「すぐにお持ちします。お酒と、何か召し上がるものを」 彼女の命により、広間にはたちまちテーブルやソファが運び込まれ、酒壺がいくつも並べられた。 「これは……」 びくびくと怯えている侍女によって杯に注がれた、毒々しく泡立つ液体を見て、ルギドはなつかしそうに微笑んだ。「魔族の酒だな」 エリアルはうなずいた。 「魔族に命じて、何ヶ月もかけて古い醸造方法を再現して作らせました。このソファも、背もたれにかかる織物も、食器も杯も……すべては、あなたをここにお迎えしたときのためにと古い様式のものを準備させました。そして、あなたがお望みになるものなら、何でもご用意するつもりです。――私の力のおよぶかぎり」 本来は柔らかな面立ちの皇女の表情には、皇帝名代としての権威と、すさまじいまでの覚悟が宿っている。 「そこまでして、俺に帝国を救えということか」 「はい」 「この一杯の酒……高くつくな」 高台つきの杯を物憂げに眺めてから、銀髪の魔族は一気に飲み干した。 背後の扉が開き、ひとりの年若い少女が両脇を抱えて連れてこられた。頭にはすっぽりと三角の頭巾をかぶり、従順な様子でうなだれている。 それを見たエリアルの目に、苦しげな色が浮かんだ。 「ティエン・ルギド。……お食事の用意ができました」 「なんだと」 「人間を好んで召し上がられると聞きましたので……」 ルギドは生け贄の少女に、心底驚いたように目を見張った。そして、ソファの背にもたれて大きな声で笑い出した。 「見かけによらず、たいした皇女さまだ。とても、あの堅物のアシュレイの子孫とは思えん」 ルギドが人間の少女の代わりに所望したものは、ウサギやシカの生肉だった。 驚嘆すべき食欲で、幾壺もの酒とともにそれらを胃に収めると、彼はソファにごろりと仰向けになった。 「話の続きを」 そう言ったきり目を閉じ、それからはひとことも口をはさまなかった。 口火を切ろうとするエリアルを、黒魔導士は制止した。 「やはりわたしが、話します」 彼はルギドの前に、ローブの裾を整えて居住まいを正した。 「帝国暦800年代の後半になると、帝国全土に散らばって住んでいた魔導士たちが、次第に迫害を受けるようになりました。 工場の煙突が立ち並び、安い大量の労働力がこぞって求められ、人々はろくに教育も受けずに子どものうちから働くようになりました。【理性の時代】と称しながら、無知と迷信が逆にはびこっていったのです」 ジュスタンは嫌悪をにじませて、口元をゆがめた。 「【魔女狩り】と呼ばれる襲撃が幾度となく起きました。 迫害を受けた魔導士たちは、祖国テアテラに逃げ込み……、テアテラはそのたびに帝国に抗議しましたが聞き入れられず、一部の急進派たちが暴徒と化し、帝国に対して反旗を翻しました。 そして、決定的に帝国と決裂する契機となったのが、915年の【ガルパの虐殺】と呼ばれる事件でした。テアテラに駐留していた帝国軍が、ユツビ村で二百人もの老人や子どもを虐殺したのです」 「当時の皇帝は、愚かさで永遠に帝国の歴史に名を残すことになった」 エリアルは悔しげに叫んでから、小さく付け加えた。「それが、私の曽祖父の治世のこと……」 ラディクは彼らの後ろで大欠伸を連発しながら、言った。 「どうでもいいけど、そいつ寝てるんじゃないのか。さっきからずっと目をつぶったままだぜ」 「おまえといっしょにするな。ちゃんと聞いている」 ルギドは目を閉じたまま、答えた。 「こうしていても、おまえたちの様子を見るのに支障はない。どうせ俺の目は使い物にならんのだ」 「え……?」 「先を続けろ、黒魔導士」 「は、はい」 ジュスタンは、みぞおちを突かれたような不思議な感覚に襲われるのを感じた。目で見ることなく周囲を知覚しているこの男には、何も隠すことができないのではないか。そんな突然の恐怖だった。 「その虐殺をきっかけに、テアテラは完全な鎖国体制に入りました。この80年間、国境には生き物の出入りを完全に堰き止める魔法結界が敷かれています。長いあいだ、一進一退のにらみ合いが続きました。 ですが10年前、事態は急激に変わりました」 赤茶色の髪の若者は、そこで口をつぐむと、焼けつく喉を水でうるおした。 ここまでは、どんなに悲惨でも、所詮は自分の生まれる前の話だった。ここからは自分の体が記憶した生々しい過去となる。 「10年前、テアテラで、わずか3歳の少女が女王として立てられました。はかりしれない魔力を持つレイアという名の少女は、帝国を憎悪する国民の象徴となり、テアテラは数十万の魔導士軍団を持ち、他国への侵略の道を歩みだした。そして、女王レイアを摂政として補佐したのが、クロード・カレル、わたしの父親でした」 ルギドが、はじめて指をぴくりと動かした。うっすらと瞼を持ち上げる。 「待て……【魔力】と言ったか、そのレイアという女が持つもの」 「はい、レイアは……魔族と人間の混血なのです」 「魔族と人間の……」 「だから、彼女のもとには多くの魔族が馳せ参じ、服従した。……テアテラは、今や魔導士と魔族が【魔】という共通項で束ねられている、最強の軍事国家となっているのです」 エリアルとジュスタンは、ちらちらと互いに顔を見合わせた。 ソファに体を預けていたルギドは、そこまでの話を聞くと、いきなり身を起こし、長考するように手を組んで項垂れてしまったからだ。 「やっぱりね。魔族の王子が魔族を敵に回して戦うってのは、普通は無理なんじゃないか」 ラディクは部屋の隅の床に腰をおろして、満足そうに竪琴をつまびきながら言った。 「わたしだって、祖国を敵に回している」 ジュスタンがいらいらと、吐き捨てるように言った。 「自分がやって辛いことなら、人に押しつけないほうがいいと思うぜ」 「……おまえなどに、指図されたくない!」 「で、戦況は?」 「は?」 三人が振り向くと、いつのまにかルギドはソファから立ち上がり、先ほどまでの余裕とは一変した険しい表情で、まっすぐに彼らを見つめていた。 「テアテラと帝国の勢力分布は? 前線はどこにある?」 「は、はい」 エリアルは大急ぎで地図を用意すると、酒壺を脇によけて、テーブルの上に広げた。 一瞬のうちに、そこは司令部となり、目の前にいるのは指揮官で彼らはその兵卒だった。 「テアテラ軍はおよそ30万、帝国軍は80万。 北のアスハ大陸、【西の外海】、西のサキニ大陸はテアテラ軍に侵略され、【内海】のうち、北の《ベアト海】はほぼ敵の勢力下にあり、、南の【エトル海】も半ば侵食されています。【東の外海】と《ラダイ大陸》は、かろうじてわが軍の勢力範囲です。 そして、最前線は――」 地図の上に帝都パロスからまっすぐ南に線が引かれ、海岸線と交わる地点で止まった。 「今【帝国直轄領】内で敵の猛攻撃を受けているのが、ここ。港町サルデス。千年前まで【サルデス王都】と呼ばれていた町です」 「なるほど、帝国の麗しき千年の都は、陸の孤島というわけだ」 ルギドは頬杖をつき、皮肉めいた笑みを浮かべた。 「まさしく、状況はそのとおりです。今のところ、【東の外海】から東海岸を通って物資は豊富に届いていますが……サルデスが失われれば、いつそれも途絶えるかわかりません」 エリアルは自分のことばを振り払うように、希望をこめて問いかけた。 「私たちの窮状は、これでおわかりのはず。味方になってくださいますか」 「……」 ルギドは答えなかった。宙を漂う視線が、迷いを表していた。 「あなたの同族と戦ってくださいとは申しません。ですが、あなたが帝国の側に与したことが知れれば、敵軍の中に亀裂が生じる可能性もあります。その混乱に乗じて、双方が和平への道を探ることができるやもしれません」 「皇女よ、その考えは甘すぎるな」 「……わかっています」 150年の憎悪の応酬は、【魔】と《機械文明》との間に横たわる決定的な溝は、和平の話し合いなどでは到底解決することができぬ根深さを持っていることは、為政者である彼女が一番よく知っている。 「だからこそ、誰でもない、あなたの助けが必要なのです。初代皇帝アシュレイは、死のまぎわに、あなたに帝国の行く末を託されたと聞きます。私はアシュレイの血を継ぐ者として、誰よりも彼を崇拝しています。 そして彼が衷心よりの信頼を寄せたあなたに、帝国の未来を託したいのです」 「だから、俺の封印を解いたのか。俺がテアテラの側につくかもしれぬ危険を犯して」 「……もしそうすることが、あなたとアシュレイの交わした約束を果たすことになるのでしたら、受け入れましょう」 ルギドは腕を伸ばし、鋭い爪のある指先で、いきなりエリアルの顎をつかんだ。 「姫さま!」 助けに駆け寄ろうとするジュスタンを、彼女は片手で制した。 「エリアルよ」 「はい」 「そなたは、この戦いに何を懸ける」 「私のすべてを」 「もし、俺がそなたの心臓を望めば、それを差し出すか」 「……はい」 エリアルは、森のような緑の瞳でまっすぐにルギドを見上げた。一粒の涙がこぼれて魔族の手に落ちた。 「どうぞ、お望みなら、今すぐにでも私の命をお取りください。それが帝国一億の民を救うというのなら、なんと不釣合いなほど安いものでしょう」 ルギドは彼女から手を離すと、その甲を濡らした涙をじっと見つめた。激しい苦悩の目だった。 「すまぬが、一晩考えさせてもらいたい」 「……わかりました」 「明日の朝、返事をする。今宵は……疲れた」 「寝所はこの奥です。侍女にお世話させます。どうぞごゆっくりお休みになられますよう」 ルギドが踵を返し、広間を出て行くのを見送るや、エリアルは緊張の糸が切れたように、膝を折ってその場に崩れこんだ。 ジュスタンが走りよってきて、かろうじて彼女の腕をつかんで支えた。 ぐったりと抱きかかえられた彼女を冷ややかに見つめながら、ラディクは嘲るように呟いた。 「無茶な女だ。自分の技量もわきまえずに、あんな奴と真正面から命のやりとりをするなんて」 魔導士はエリアルをそっと手近の椅子にもたれさせると、背筋を伸ばして天井を仰いだ。 「姫もわたしも、ともに地獄を見てきたのだ。いっそ心臓を食われたほうがマシだと思えるほどに」 「……運命を託そうとしている相手にウソを言うことさえ、平気なほどにか?」 ジュスタンは顔色を変え、吟遊詩人の襟首をつかんだ。 「貴様、いったい何を知っている!」 ラディクは、のけぞるようにして笑った。 「全部調べたと言ったろ? 全部だ。もし、おまえの父親がやったことが知れれば、あのくされ魔族は絶対にテアテラの側につくだろうな」 「……話すつもりか」 「切り札は、取っておいてこその切り札だろう?」 ジュスタンは彼から手を離すと、口の奥で呪文を唱える準備をした。いざとなれば、数秒のうちに相手を焼き殺す。 「言え、ラディク・リヒター。いったい、何が望みだ」 「さあてね。何を望もうか。宮殿の中の一室がいいかな。一生使い切れないほどの金、酒と女もつけて」 「……下衆め」 「くくっ。そんなくだらないもの、やると言われてもいらねえよ」 ラディクは、気を失っている皇女をちらりと見て、そしてジュスタンに向き直った。 「俺の望みは、ただひとつ。おまえたちの旅に同行することだ。それさえ叶えてくれるなら、秘密は守ってやる」 |