新ティトス戦記 Chapter 4 |
あてがわれた宮殿の豪奢な客間でラディクが目を覚ましたとき、窓ガラスはすでに早朝の光に白っぽく照り映えていた。 今までの一生の大半が、人に出し抜かれたり、反対に人を出し抜くことばかりだった彼にとって、日が昇るまで寝過ごす朝はめったにない。 「ここの寝台は柔らかすぎる」 舌打ちをして起き上がると、水道の水でぞんざいに顔を洗い、シャツを羽織った。いつもの癖で帽子をかぶろうとしたが、ここではそんな必要はないことを思い出した。少なくとも、限られた者しか出入りを許されていない皇宮の奥のこの一画では。 テーブルの篭に山盛りにされた果物からラザンを一房つかみ、彼は【翠石宮】へと急いだ。 実をもいで食べながら扉を押し、大広間を足早につっきろうとして、「わっ」と声を上げた。 ラザンの実が床に落ちて、紫色の汁を飛ばす。 「よう、小僧っ子」 ルギドは、奥の台座の上に、すこぶる不機嫌な顔で座っていた。 「人に助力を求めておきながら、これだけ待たせるとはいい度胸じゃないか」 今しも出陣という身支度だった。オスマン銀の胸当てをつけ、草色の佩楯(はいだて)で腰をおおい、その上に黒いマント、腰には暗黒の剣を帯びている。 「お、俺は何も……」 「いいから、20数えるあいだに、あの二人を呼んでこい!」 ラディクは回れ右をすると、広間を飛び出した。 数分後には、寝起きでぼんやりした顔をしたエリアルとジュスタンが立っていた。 「俺が味方につくからには、半年で全ティトスを取り戻す」 ルギドは、腰抜けの新兵たちを値踏みするように歩いた。 「一刻も無駄にするつもりはない。できる限り早く出発する。そのつもりで動け」 「そ、それでは」 エリアルはまだ半分夢の中にいるような声で言った。「わが帝国のお味方をしてくださるのですか。ティエン・ルギド」 「なんだ、不満そうだな」 「い、いえ。そんな。ただ昨夜は、ひどく迷っていらっしゃるご様子だったので」 「ああ、あれは」 膝まで達する銀色の髪を、退屈そうにぐしゃぐしゃと掻きむしる。 「勿体つけて迷っているふりをしただけだ。この俺ともあろうものが二つ返事で承諾したら、沽券に関わるからな」 「……」 ジュスタンもラディクも、ただ呆気にとられてルギドを見ていた。 一方では「帝国の祖」と崇められ、他方では「世界の破壊者」と畏れられてきたこの男は、本来はこんな性格だったのか――。 「出発するとおっしゃいますが、どこへ?」 エリアルはうろたえながら、尋ねた。 「そうだな。本当は、すぐさまテアテラを急襲すると言いたいところだが」 ルギドは広間を大股で突っ切ると、昨日壁に掛けさせた帝国領の地図の前に立った。 「後顧の憂いを断つためにも、まず反対側のサルデスの街から敵を一掃する」 魔族の尖った爪が、地図に皇都パロスからサルデスまで一気に南北の直線を引いた。 「この港がテアテラに落とされれば、【内海】は完全に敵の手に掌握され、【東の外海】の安全もおびやかされ、パロスは四面楚歌となる。だが反対に、この港を取り戻せば、パロスへの物資輸送が容易になり、ラダイ大陸との通商も確保できる」 「そのとおりです」 エリアルは、ぞくぞくと全身に歓喜が駆け上がるのを感じながら、答えた。 毎夜、国のおもだった重臣たちが論議して一向に答えの出なかった難問が、この魔族の手にかかれば、すらすらと毛糸の玉をほぐすほど簡単に解決できそうに思える。 「ですが、すぐに出発するというのは不可能です。宮廷会議に諮らなければ、軍は動かせませんし、準備も……」 「軍など必要ない。俺たちだけで動く」 「え……?」 「どうせ俺がここにいることは、廷臣の奴らには知られていないのだろう?」 エリアルは、はっと目を上げた。ルギドのすべてを見透かすような視線にぶちあたる。 「俺の封印を解く計画は、皇帝にも家臣団にも承認されておらん。すべては、おまえとジュスタンの単独行動だった。……違うか?」 「な……なぜ、そのことを」 ジュスタンが、しどろもどろで問いかけた。 「おまえたちの秘密めいた行動、侍女たちのおびえた顔を見れば、いやでもわかる。俺はこの時代の人間からは恐れられこそすれ、決して歓迎される存在ではないようだな」 「……申し訳ありません」 エリアルは頭を下げた。 「あなたのおっしゃるとおりです。あなたがここにおられることは、ごく少数の者にしか知らせていません。 あなたは……あなたは、わが帝国にとって、迎え入れられざる客人なのです」 自分のしたことの子どもじみた無謀さに、今さらのように恥ずかしさがこみ上げてくる。彼女は平身して、懺悔とも取れることばを続けた。 「新ティトス帝国の為政者たちは、長い時間をかけて帝国の歴史を少しずつ、自分たちの都合の良いようにゆがめてきました。はじめは帝国の基盤をより確かなものにするため、しかし次第に、自らの野望のためにそうしてきたのです。その野望とは、初代皇帝アシュレイから連なる皇室の血統をより神聖なものとし、自らを神格化すること……。 そのためには、あなたにアシュレイより重い栄誉を与えるわけにはいきませんでした。歴史は巧妙にすりかえられ、あなたがアシュレイに逆らい帝国を脅かした存在として、殺戮者また破壊者として、民衆に憎まれるように仕向けていったのです」 話しているうちに、皇帝の血を受け継ぐ自分がこのうえもなく醜い存在に思われて、エリアルは小さく身震いした。 「俺が多くの人間を虐殺し、忌み嫌われるだけのことをしてきたのは本当だ」 ルギドは、目を細めて笑った。 「いいえ。そうではありません。宮廷の図書館で私は、ねじまげられていない真実の歴史を、アシュレイが書き残した自筆の書から学びました。 あなたが、どれほど自分を犠牲にして、この世界を、人間と魔族を救おうとしたのか。未来に禍根を残さぬために、愛する妻や子を残してまで、その身を封印したのか……。 私は愕然としました。代々の皇帝の犯してきた罪を知り、そして、危機を迎えた帝国を救ってくださる方はあなたしかいないと確信しました。 ですが、選帝侯たちも重臣たちも、あなたの封印を解くことに大反対しました。 私は、なんとかして彼らを説得しようとしましたが、とうとう力が及ばず……ジュスタンと二人だけで、あなたの封印を解く旅に出ることを決意したのです。すべては極秘の行動であり、私の独断でした」 辛い日々の記憶がよみがえり、あとのことばが続かない。 「ゆるして……ください……」 「俺が赦すことなど、何もない」 ルギドは首を振った。その仕草はひどく頼りなげで苦しそうだった。 「俺は一度目にこの世に生を受けたとき、ティトス全土を滅ぼそうとした。二度目は反対に救おうとした。だが三度目は……どうなるのか、俺にもわからぬ」 「どういうことですか」 「おまえが思っているほど、俺は全能でも至高の存在でもない。己の行く道さえ定まらぬ、ただの影なのだ。 千年前、俺に力を与えてくれたのは勇者アシュレイだった。あの男の善なる心が、揺るぎない信頼が、俺を善に導いた。影にしかすぎぬ者に、そうではない生き方を教えてくれた。 そして、死の間際に――」 ルギドは瞼の奥に光を得たように、かすかに笑んだ。 「アシュレイの死の床で、俺は誓った。 『おまえに永遠に忠誠を尽くす。おまえとの約束を果たし、おまえの子孫にも忠誠を尽くす』と。 ――俺の進む道は、そのときから定められていたのかもしれん」 エリアルの前にルギドは片方の膝をついた。 「ま、待ってください。何を」 後ずさろうとした彼女を、ルギドは目で制止した。 「わが友にしてわが主アシュレイの後裔、皇女エリアル。彼に誓ったことばを、もう一度誓おう。 我が命のある限り、我は友との約束を果たし、おまえとともにあり、おまえに忠誠を誓う」 そして彼女の手を取り、接吻する。 「テ、ティエン・ルギド……」 「もう、俺を尊称で呼ぶな。俺はおまえのしもべとなった」 彼は立ち上がると、このうえなく深い眼差しで彼女を見つめた。そして、空の高みから降るような大らかな声で言った。 「エリアル。おまえの望むことを命じろ。善でも悪でも心のままに。魔族の王子の名に懸けて、それを叶えてやろう」 エリアルは一瞬、たじろいだ。 いったい誰が、これほどの忠誠を受ける資格があるだろうか。少なくとも、私ではない。私にそんな資格はない。 もしそれを持つ者がいるとすれば、ただひとり、初代皇帝アシュレイ。彼こそが、この男を永遠の忠誠へと縛っているのだ。そして、私はそのおこぼれに与っているだけ。 もう逃げることは許されない。 「わかりました……いえ」 皇女は、涙に濡れた緑の瞳を、決意をこめて見開いた。 「わかった。ルギド。アシュレイの子孫として、また皇帝セオドリク2世の名代として、あなたを全面的に信頼し、帝国のすべてをゆだねよう」 「感謝する」 ルギドは短く答えた。 「少し待ってほしい。今すぐに、出発の準備をしてくる。……ジュスタン、行こう」 事のなりゆきを無言で見つめていた黒魔導士は、ルギドに向かって深々とお辞儀をすると、エリアルのあとを追って出て行った。 ラディクだけがその場に残され、同じ紅い瞳を怒りに燃え立たせて、ルギドを睨みつけていた。 「準備は整った。いつでも出発できる」 ふたたび、四人は翠石宮の大広間に集った。 エリアルは騎士装束に身を包み、腰には銀の象眼模様の剣。幅の広いサファイア色のサークレットで長い髪をまとめて、女性であることを隠している。 ラディクが吟遊詩人の帽子の陰に隠しているのは、紅い魔の瞳。竪琴を肩にかつぎ、短胴衣の腰に締めたベルトに、ナイフを数本差している。 ジュスタンは、いつもと変わらない。魔導士の象徴である濃紺のローブに黒檀の杖。おのれの心を別とすれば、彼には隠すものは何もなかった。 「短く、作戦会議を行う」 ルギドは、黒い鞘入りのデーモンブレードを杖代わりに手を置き、配下の少年たちを見渡した。 「港町サルデスの現状を。エリアル」 エリアルはうなずいた。 「市街地には、帝国軍が2万駐留している。テアテラ軍は港付近を占拠し、散発的な攻撃を仕掛けて、わが軍の力を殺いでくる。前線は今のところ、港から2キロのこのあたりだが、わが方が後退している可能性もある」 エリアルは、テーブルの上の地図に羽根ペンでおおまかな線を引いた。 「組織だった攻撃とは別に、少人数の遊撃集団でゲリラ的に襲ってくるのが厄介だ。特に、西の工場地帯が照準とされることが多い。ここは製鉄、機械といった帝国の産業の基幹をなす地域だからだ」 「反対に、この地域をこちらが完全に掌握すれば、有利になるな」 ルギドは地図から顔を上げた。 「俺の存在が味方にさえ知られていないことは、好都合だ。敵もまた、俺が帝国側に与したことを知らぬ。帝国軍には通常の戦闘をさせておき、その一方で奇襲をかけ、一気に敵を切り崩す」 「われわれは極秘に町へ潜入するのだな」 「直ちに出発する」 ルギドは剣を腰に戻して、立ち上がった。 「今から早馬で発てば、明日の夕暮れにはサルデスに着く。すべてはそれからだ」 ルギドは、三人がぽかんと口を開けているのに気づいた。 「あの……サルデスには3時間もあれば着けるのだが」 「なんだと?」 今度は、ルギドが口を大きく開ける番だった。 「移動の魔法でも使うのか?」 「今の時代には、蒸気機関車というものがあるので……」 サルデス南部のなだらかな草原を南北に鉄の道が貫いている。 そして、その上を白い煙を吐く黒い龍が爆走していた。 150年前に蒸気機関が発明されてから、実用化への研究を重ねていた鉄道は、帝国暦900年代初頭にパロスと近郊の町を結ぶ50キロの線路がはじめて敷設された。 現在ではエルド大陸南部の帝国直轄領には縦横に線路が走っている。険しい山地の多いラダイ大陸では、南北を縦断する長距離線が一本だけだ。 一方、サキニ大陸では、ペルガ領からエペ領へとガルガッティア山地を伴走するように線路が伸びていたが、進駐したテアテラ軍によって大半が撤去されたと言われている。 戦渦により、パロスからサルデスへと向かう定期便も大幅に減って、今では日に一本。 皇女一行の貸切となった一等車両の中では、ラディクが腹を抱えて笑っていた。 「蒸気機関車も知らない、あんな千歳のじじいに帝国の行く末を託すなんて、おまえら馬鹿じゃねえのか」 エリアルは、むっつりと車窓の景色を見るふりをしている。 そして車両の外では、ルギドが貨物の隙間に寝転びながら、後方にちぎれ飛ぶ黒煙と白い蒸気を眺めては、ため息をついていた。 「俺たちが汗水たらして駆けていた街道が、わずか3時間だとは。なあ、アシュレイ、ギュスターヴ。長生きはするものじゃないな」 ジュスタンは、気づまりな車内からデッキに出てきた。 今は皇女の心配そうな視線を避けてひとりになりたかった。サルデスに着けば、すぐにでもテアテラ軍との戦闘に入るのだ。 同胞と戦うことが嫌なのではない。そういう感傷はとっくの昔に捨てている。ただ、そうした戦いの果てに何を見ることになるのか、未来を想像することが苦しかった。 レイアの前に立ったとき、自分は何を望むのだろう。彼女が滅びることをか。それとも、自分が滅びることをか。 ふと気づくと、前の貨車であの魔族の銀髪が風になびいているのが見えた。 連結部をまたいで、車両を移ったとき、ひとりごとが聞こえた。 「……気に入らないな」 「何が気に入らないのですか、ティエン・ルギド」 ジュスタンは、うやうやしくお辞儀をして、話しかけた。ルギドがエリアルに忠誠を誓ったからと言って、家臣である自分まで馴れ馴れしい態度を取るほど、彼は愚かではない。 「蒸気機関車は、乗り心地が悪いですか? 確かに最初は慣れないと思いますが……」 「気に入らんのは、そのことではない」 ルギドは、物憂げに答えた。 「空の色だ。青く晴れ上がっているのに、千年前とどこかが違う。草原も海も色が薄れ、生き物の気配も、どこか弱々しい。――何よりも、空気が霞をかぶったように澱んでいる」 「わたしも、同じことを感じています」 「これはすべて、機械のもたらした毒なのか?」 「はい」 ジュスタンは無表情にうなずいた。 「工場が垂れ流す害毒で、ティトス中の空気が汚れ、水が汚れています。燃料のために木々は次々と切り倒され……。森は、千年前に比べて四分の一に減ったといわれています。 呼応して、世界中でエレメントの力が弱くなっているのです。今はまだ本当にかすかな変化にすぎません。ですが、このまま機械化が推し進められれば、土も風も火も氷も、力を失い、魔法はますます弱まるでしょう。 その危険性に気づいた魔導士がまず反対の声を上げ、そして住み家である森を奪われた魔族も怒り始めたのです」 「テアテラが離反して、帝国相手の戦を始めたのにも、一理あるということか」 「いえ、それは……」 「ふむ」 ルギドは、もたれていた身体を起こすと、しばらく考え込んだ。 「テアテラを先導しているレイアという女、いつ、どこからやって来た?」 「興味がおありなのですか」 ジュスタンは、なるべく動揺を見せないように言った。 「人間と魔族の混血だと言ったな。俺と同じ」 「はい」 「人と魔族のあいだに子どもが生まれることは、めったにない。入り雑じる血の負担に耐え切れず、多くの場合は、胎の中にいる間に母体が先に死んでしまうからだ。死にかけた母親の腹を食いやぶるだけの強靭さがなければ、生き残ることはできない」 「……はい」 「俺の知っている限りでは、それができたのは俺と、俺の副臣ジョカルの二人だけだった」 そして、黒魔導士を鋭く見つめた。 「レイアもそうだったのか? 父親が摂政を務めていたのなら、おまえもレイアのそばにいたのだろう」 ジュスタンは目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。 「いつかお話しするときが来ましょう。そのときまでお待ちください」 「今は話せんのか」 「はい、今は」 ジュスタンが瞼を開いて、行く手に視線をやったとき、空にきらりと光るものがあった。 「あ……」 あれは。 一瞬早くルギドが、こわばった表情でつぶやいた。 [ウル] 明らかに現代ティトス語ではないその言葉は、そばにいた若者にも即座にその意味を伝えた。 「列車を止めろおぉっ」 ジュスタンはありったけの声で叫ぶと、最前部の機関車に向かって突進していった。 空から落ちてきたひとすじの光は、彼らの乗っていた列車を包んで炸裂した。 |