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The New Chronicles of Thitos

新ティトス戦記


Chapter 5



 大爆音が、東の山々に木霊して消えていったあと、何かがパチパチと爆ぜる音だけが小さく残っていた。
 鉄のレールはぐにゃりと折れ曲がり、焦げた枕木があたりに散乱し、地面には黒々とした大穴がうがたれている。そして、そのわずか数十メートル手前で、機関車は抗議の声を上げるように白い蒸気を吐きながら停まっていた。
 機関士があと少しブレーキをかけるのが遅れたら、列車は爆発に巻き込まれていたか、あるいは転覆していたろう。
 線路の近くにせまった丘の中腹で、木立にまぎれて人影が動くのが見えた。
 なりゆきを確かめたあとで、逃げていく主謀者たちだ。顔も服装もわからないが、テアテラ軍の魔導士に違いない。直前に降り注いだあの光は、確かに雷撃魔法だった。
「くそ、あいつら」
 思わず魔導士の杖を握りしめて身を乗り出したジュスタンは、後ろにいたルギドに腕をつかまれた。
「ほうっておけ」
 口には出さないが、目でそう告げている。極秘で行動している以上、ここで敵を下手に追撃するのは、確かに得策ではない。
 後ろの客車からエリアルとラディクが出てきた。皇女は蒼ざめた顔をして「だいじょうぶか」とジュスタンを見た。
「はい。姫さまこそ、お怪我はありませんか」
 ラディクはデッキの柵を飛び越え、線路脇に着地した。見れば、他の二等客車の乗客も続々と外に出て来ては、口々にわめいたり泣き叫んだりしている。
 エリアルたちも車両を降りて爆破地点に向かった。まだもうもうと煙が上がっている現場では、ラディクが何かの破片を拾い上げていた。
「火薬だ」
 匂いを嗅いでから、真っ黒に焦げた木片を指から払い落とす。「奴ら、線路に火薬の箱を仕掛けやがった」
「それは何だ」
 ルギドが尋ねた。
「木炭と硫黄、硝石を混合して作った薬です」
 ジュスタンが説明した。「点火すると、激しく燃えて爆発するのです。奴らは線路に火薬を置き、列車が来るのを見計らって、魔導士の雷撃呪文で発火させたのでしょう」
「火薬というのか。まったく、この時代は危険なおもちゃが多すぎるな」
 子どものいたずらを愚痴る父親のような口調で魔族がつぶやくのを聞いて、魔導士は気づいた。
 爆発が起きることを、ルギドはあのとき知っていた。ただ、彼は「火薬」というものを知らなかった。だから、一番それに近いもの、【ウル】ということばで代用したのだ。【ウル】は古代ティトス語で、「激しい炎」を意味する。
 これから起こることを予知することができるとは、なんという男だろう。ジュスタンは畏怖に身震いした。
「卑劣な」
 エリアルは、拳をにぎりしめて叫んだ。
「ひとつ間違えば、大惨事になるところだった」
 そして、まさにそれが敵の意図していることなのだ。
 もし、敵がこれと同じことをあちこちで始めたら、帝国直轄領の交通網はずたずたになってしまう。
 いや実際は、一度恐怖を与えればそれだけで十分だ。荷主たちは物資の輸送をしぶり、商人や民は旅行を手控える。そうすればこの国は、血管を切られた肉体同様になる。
 機関士がやってきて、身分の高い貴族である一等席の客たちに、おそるおそる申し上げた。
「こうなってしまっては、もうここから引き返すしかありません。点検が済み次第、手前の駅へ後退運転で出発します」
 そして、忌むべき魔導士や得体の知れない長身の黒衣の男に恐れをなして、他の乗客のもとへ去っていった。
「どうする?」
 エリアルの問いに、ジュスタンがすぐに考えをまとめた。
「近くに村があるはずです。そこで馬車か馬を手に入れましょう」


 結局、こじんまりとした村には馬車はなく、一行は四頭の馬を買い受けてサルデスに向かうことになった。
 サルデスまでは50キロあまり。見渡す限り、冬枯れのなだらかな牧草地や点在する村々のあいだを、数時間かけて越えていくことになる。
「やはり、旅は馬に限る」
 ルギドの声は、心なしか満足げだった。
「あの【箱】での旅はどうも、せわしすぎる。ゆっくり景色を愛でる暇もないのだからな」
 晩秋の風が鳥の声を運び、馬上の旅人たちの髪を心地よくなぶっていく。
「確かに」
「本当だな」
 ジュスタンもエリアルも緊張を解いて、柔らかな表情を浮かべた。
「おまえら、ほんっとに暢気だな。線路が爆破されて、すんでのところで死にかけたんだぞ」
 最後尾でラディクがひとり、ぶつぶつと文句を言っている。
 皇女たちは、すっかりルギドを信頼し切っているようだ。先頭を行く魔族の堂々たる騎馬姿を見ていると、彼に従って進んでいれば何もかもがうまく行く、と感じているのだろう。
 吟遊詩人は晴れ渡った空を仰ぎ、小鳥がくるくると弧を描いて飛んでいるのに心を奪われた。
 彼は紅い瞳を空に向けて歌いだした。馬のひづめの音が、拍子を取る。

 雲流れ ヒバリ舞う
 オー ラ オーリィ
 行く手に 何があるのか
 オー ラ オーリィ
 誰も知らぬが

「不思議な声だ」
 ルギドは手綱を引きしぼると、振り向いた。
「魔族には歌うという習慣がないので、俺には歌の良し悪しはわからん。だが、おまえの歌からは魔力に似たものを感じる」
「魔力……?」
「見て」
 エリアルが、空を見上げて叫んだ。「いつのまにか、ヒバリが一羽増えている。ラディク、おまえが呼んだのか?」
「……ただの偶然だ」
 ラディクはつば広の帽子を目深にかぶりなおすと、彼らの間をすり抜けて馬を走らせた。


 千年前の帝国創立前の戦乱の時代までは、エルド大陸南部のこの地は【サルデス王国】と呼ばれていた。
 初代皇帝アシュレイの后グウェンドーレンがサルデス王家最後の血筋であったため、その死後すべての国土は帝都パロスを含めて【帝国直轄領】という名で呼ばれるようになった。【サルデス】の名はもはや、歴史や地政学の書を除けば、かつての王都であった港町の名にしか残らない。
「これが、サルデス王都か……」
 夕暮の丘の上に立ち、ルギドは馬上で絶句した。
 視界の下にある町の黒々とした概観は、まるで消炭でできた積み木細工だった。無秩序に組み上げられた建物、天を目指すかのように林立する煙突。
 その吐き出す黒煙を受け止めた空は、もはや自浄能力さえ失い、ふたたび黒い煤を町を降らす。
 新ティトス帝国のあちこちで見られる光景ではあるが、帝都パロスのお膝元、帝国の繁栄を象徴する一大工業都市サルデスの異容は、ほかのどの町とも桁ちがいだった。
 千年前には整った美しい町並みが、紺碧の海を渡る陽光にきらめいていた。アシュレイとグウェンドーレンの故郷。自身の手で二度にわたって破壊した町だけに、ルギドにとってもこの町は特別な思い入れがあった。
 町の門を抜けると、両脇の壁も窓も煤で真っ黒に染まった通りが続いている。正面の高台の工場群は、薄闇の空に煙突から炎を吹き上げ、まるで巨竜の臥したような威圧感で、人々の住むバラックを今にも押しつぶしそうに見えた。
「汚ねえ町」
 ラディクが吐き出すように言った。
「必要悪なのだ」
 エリアルは低く答えた。
「今や、この町が作り出す機械なしに人々の暮らしはありえない。汽車も船も、滑車装置もポンプも生産が止まっては、まっさきに困るのは民衆だ。帝国も、この町の再開発と公衆衛生には配慮している。だが巨額の戦費に予算を割かれ、そこまで行き届かないのが実情なのだ」
「そうして言い訳しながら、下民には汚れた空気を吸わせておいて、貴族さまたちは白亜の宮殿で清潔にお暮らしなわけか」
 あからさまに揶揄する調子に、エリアルは反論のことばもなく黙りこんだ。
「まるで、迷路だな」
 昔の記憶と今の町並みを重ね合わせるというむなしい努力を放棄して、ルギドが吐息をついた。
「今、どこに向かっている?」
「とある魔族の家です」
 ジュスタンが、声をひそめて答えた。
「魔族?」
「テアテラの動向をさぐる帝国の間諜を幾人か放ってあります。そのうちのひとりです」
 廃材を積み上げた、狭い横丁に入る。
 突き当たりに「鍛冶屋」の看板を掲げた、一軒の店があった。むっとするような熱気を放ち、暗い穴倉のような店の内部では、時折り真っ赤な口を開く溶鉱炉が見えた。ジュスタンはためらわず、その店に一行を先導した。
 男が溶鉱炉に向かって大きな背を屈め、金床の上で箸と槌を使い、鍋を打っている。
「オブラ」
 ジュスタンが呼びかけると、振り向いた。ごつごつとした溶岩のような肌をした、純粋な火棲族の容貌をしている。
「おお、姫さんまで、こんな熱くてむさ苦しいところへ」
 魔族は、のっそりと立ち上がってお辞儀をした。「して今日は、新しいお連れですかな」
 ルギドは、顔を覆っていたフードを取り除いた。
 男は、まじまじとその顔を見て、あっと声を挙げた。暗がりに明々ときらめく銀の髪。炉の火に負けぬ光を放つ紅の瞳。
「ティエン・ルギド!」
 一声叫ぶと、彼は土間にひれ伏した。「我らが王子よ。ようこそ、お戻りくださいました」
「うむ」
 ルギドは同族の拝礼を受けて、王者の微笑みを見せた。
「あなたさまの封印を解くというエリアル姫の計画を聞いてより、この日が来ることを我ら一同、どんなにお待ち申し上げていたことか。
……さあさ。むさくるしいところですが、どうぞ奥のテーブルへ。ゆっくりと千年の積もる話をいたしましょうぞ」
「俺が留守の間に、魔族に何が起こったのか……聞かせてもらおうか。オブラよ」


「全ティトスの魔族は今、まっぷたつに分かれております」
 オブラは、ごつごつと節くれだった指で、テーブルについた一同にお茶のコップを回す。しかし、主君ルギドにだけは、やや変色した銀のコップに、なみなみと魔族の酒を注いだ。
「彼が、魔族の酒の蒸留方法を復元してくれたのだ」
 エリアルが補足した。
「わたしはもともと、ペルガ北の【緑の森軍】の残党の子孫でした」
 鍛冶屋は長椅子の端に腰掛けると、自らも酒を口に含み、身の上話を始めた。
「我々は、ルギドさま、またジルさまやリグさまのお言いつけを守り、人間と相和して暮らそうと努めてきました。やがてルギドさまの御代がふたたび来る、魔族の誇りを持って生きよと、父から子へ、子から孫へと言い遺しつつ、長い時を生きてまいりました。
だが、我々の住まう森自体が切り倒され、あるいは病気のために枯れていき、我々はやむなく森を離れて、人間の町で暮らすようになったのです」
 ルギドのみならず三人の少年少女にとっても、帝国治世下における魔族の歴史を、魔族の口から直接聞くことは、はじめてだった。
「機械文明が発達し出したその頃、我々魔族の能力は人間たちによって都合のよいものでした。わたしのように火棲族の特長を強く持つ者は鉄の精錬や鍛冶に、また地底族は炭鉱労働者として、飛行族は飛脚として、水棲族は水先案内や船の水夫として重宝がられました。
いわば時代が味方をしてくれたのです。我々はひどい迫害を受けることもなく、ただ社会の底辺を支える存在として、人間と交じり合って住むようになったのですが……」
 そこまで話すと、彼は自分の老いた顔を、わしわしと撫でた。
「不思議なことです。森から離れ、土のない町で暮らすようになって我々は魔力を次第に失ってゆきました。それにともなって数百年の長命も削られ、わたしのように二百年も生きている者はきわめて稀になりました。
若い者の中には魔族のことばすら話せぬ者も多くなっています。かくいうわたしめも、人間のことばのほうがずっと話しやすくなってしまいまして……。お許しください。
しかし、我々はそれでもよいと考えていました。これがルギドさまの望まれたことなのだと。人間と相和して生きることなのだと信じておりました」
 そこまで話して、彼は不安げに君主の顔を見た。
「ああ。おまえたちは正しかった」
 ルギドが答えたので、彼はほっと安堵して続けた。
「ところが、魔力を失った魔族の有様を、深くいきどおる者たちもいるのです。
その者たちは、敢えて森や洞窟に住み、森を破壊する人間どもこそルギドさまの憎むべきものであり、魔族の敵なのだと理屈を並べ……」
 オブラは、憤慨のあまり、どすんとコップでテーブルを叩いた。
「テアテラのレイアこそ、ルギドさまの正統な後継者であり、魔族の女王であるなどという根も葉もない噂話に惑わされているのです!」
「レイアという女、おまえは見たことがあるのか?」
 ルギドが足を組みなおして、尋ねた。
「いいえ、見たことはございません。ただ魔族同士の噂では、たいそうな魔力を持ち、ルギドさまと同じ魔力の光球さえも操るとか」
「俺と同じ……?」
 彼は眉をひそめて、黙り込んだ。
「後は、ここにおられる姫さんやジュスタンのほうが詳しくご存じのはず。
エリアル姫がルギドさまの封印を解く計画を打ち明けてくだすったときから、我々帝国領内の魔族たちは、ひそかに連絡網を作り上げて、反テアテラの活動を続けてまいりました……おっと」
 オブラの頭上の管からぽとんと、一枚の丸めた紙片が落ちてきた。彼はそれをくるくると広げると、中身を読んでにやりと笑った。
「ちょうど折り良く、仲間からの暗号が届きました。テアテラ軍の遊撃部隊を見たという情報です」
「その情報が聞きたくて、ここに来たのだ」
 エリアルは喜色を顔に浮かべて、身を乗り出した。
「ルギドもこうして、帝国側に加わってくれた。一気にこのサルデスからテアテラ軍を駆逐したい。そのためには、徹底的に遊撃部隊を叩いておく必要がある」
「承知しました。さっそく仲間に命じて、奴らのいる場所を特定させましょう」
 オブラは自信にあふれた声で言った。
「何かわかるまで、どうぞ今夜はごゆるりとお休みください。その扉の奥がわが家となっております。すぐに家のものに支度をさせましょう」
「では、私は」
 エリアルは一同の顔を見渡した。「今のうちに、帝国軍に顔を出しておく。この町に来ていることを、私の顔を知る憲兵に見られてしまった。私たちの行動について無用な詮索をさせたくない」
「わたしもご一緒にまいります」
「……頼む」
 ジュスタンが立ち上がろうとする彼女の腕をそっとつかんで、支えた。
 出て行くふたりを、ラディクは刺すような冷たい視線で見送る。
「それではルギドさまと、もうおひとかたのお連れはこちらへ」
 案内に先立ったオブラは振り返って、しげしげと彼らの目を見比べた。
「……そちらはまさか、ルギドさまの御子であられるとか?」
「そんなわけないだろう!」
 ルギドとラディクは異口同音に怒鳴った。
「そ、そうですな。ルギドさまは千年間眠っておいでになったのですから」
 と頭を掻く鍛冶屋の主人の後ろで、
「俺には、こんな人相の悪い息子などおらん」
「悪かったな。人相が悪くて」
 彼らは嫌そうに視線を交わした。


 冷え込み始めた宵の町を、エリアルはマントの前を掻き合わせながら歩いた。
 わずか数キロ向こうに戦いの最前線があるとは言え、そのことさえ知らぬげに通りは賑わい、明かりの漏れる場末の酒場からは帝国軍兵士と戯れる女たちの嬌声が響いた。
「汚い町だ。パロスとは天と地の差がある。ラディクの言うとおりだな」
 うつろな声でつぶやく。
「アシュレイの治世では、貴族も民衆も、ともに良き国を作るために働いたという。いったい帝国はいつからこのように、貴族と市民がいがみあう国に成り果てたのだろう」
「あいつの言ったことなど、お気になさいますな」
 隣にいたジュスタンが口を開いた。「下層階級の者たちは、ときどき謂われない憎悪を貴族に投げつけて、憂さを晴らすものです」
 エリアルが返事をしなかったので、なお続ける。
「得るものもあれば、失うものもあります。千年前と違って帝国領内には餓死する者はいません。字の読めぬ者もおらず、病で早死にする赤子もおりません。それに、今は戦時中なのです。民の福祉を犠牲にして、勝つことに全力を注ぐのはあたりまえのことです」
「そうだな……」
 憲兵に誰何されたあと、司令本部となっている三階建ての建物に案内された。
「皇女殿下。このようなむさ苦しいところに、お忍びでわざわざ」
 60歳なかばの恰幅のよい司令官は、帝国でも有数の武官で、名をヴァルギス将軍と言った。将軍は数人の下士官たちとともに、慇懃な微笑みを貼りつけて出迎えた。
「極秘の公用を帯びての旅の途中で、この街に立ち寄った。戦況はどうか」
「はい。この数日は目に見えてテアテラ軍を押しております。兵士の士気も高く、この分ならすぐに奴らを港際まで追い詰めましょう」
 自信たっぷりに、両手を広げてみせる。
「大船に乗ったお気持ちで、お心安んじられますよう。すぐにお食事の支度を整えさせます。しばし、お掛けになってお待ちを」
「いや、急いでいるのだ。滞在場所は別にある。気遣いは無用に願いたい」
「それは残念です。この次お越しになるときは、ぜひ前もって使者をお立てくださいませ。歓待の準備を整えて殿下をお待ち申し上げます。……それに、魔導士のローブを目にした兵士が、いちいち神経を尖らさずにすみますからな」
 最後のことばは明らかに、そばに立っているジュスタンにあてこすったものだった。
「姫さま。わたしは外で待っています」
 低い声でささやくと、一礼してジュスタンは出て行った。エリアルは波立つ気持ちを静めて、司令官に振り向いた。
「テアテラ軍と見られる者たちによって、線路が破壊されたことは伝わっているか」
「はい、一報が入ったばかりで、詳しいことは調べさせておりますが」
「彼らは帝国領のあちこちに出没して、攻撃をしかけてくる。ゆめゆめ後方にも警戒を怠るな。物資は馬車で輸送させるよう、手はずを整える。線路の復旧まで、戦線をむやみに拡大せぬように」
「はい、万事こころえております」
 ヴァルギス将軍は従順に頭を下げて答えたが、その目の表情にははっきりと迷惑だと書いてある。
「今日は、これで失礼する。見送りは不要だ」
「おかまいもできませんで」
 士官たちの拝礼を受けて、エリアルは部屋の外に出た。扉が内側から閉められたあと、かすかに声が漏れてきた。
「ふん、戦争も知らぬ小娘に何がわかる」
 無力感で、すっと足の力が抜けていきそうになる。
 廊下の暗がりの中に、やはり今のことばが聞こえたのだろう、ジュスタンがこわばった顔で立っていた。
 見つめ合うと、彼は何も言わずにエリアルを腕にからめとり、強く抱きしめた。
 しばらくしてから、そっと離れる。
「すみません……」
 皇女の顔から目をそむけたまま、魔導士は先立って歩き始めた。


 家の奥では、分厚い手織りの敷物を敷いてクッションをちりばめた寝所が用意されていた。
「眠くなった。なにか歌え」
 背もたれに身体を預けて、すっかりくつろいだ姿勢になると、ルギドは高飛車にラディクに命じた。
「王が眠るとき、そばで歌うのが吟遊詩人というものだろう」
「食ってすぐ寝るのは、身体に毒だぜ」
「千年海の底で眠るのに比べれば、身体に悪いことなど何もない」
 歌を所望されると断れないのが、吟遊詩人の性分だ。不平を並べながらも、ラディクは彼の枕元に胡坐を掻いた。
 竪琴の弦を張って調子を確かめながら、ぽつりと訊ねる。
「あんた、本当に帝国のために戦うつもりか」
「……」
「今の帝国のありようは、あんたが望んだものだったのか? 魔力を失い、人間に媚びへつらう魔族たちを見て、その選択は正しかったと本当に思っているのか?」
「さあな」
 ルギドは、敷物の上に広がった銀色の髪をもてあそびながら、反対に問いかけた。
「おまえは俺に何を望んでいる? 帝国を守ることか。潰すことか」
「別にどちらも望んじゃいない」
「では、なぜ俺の封印を解く手伝いをした?」
 いきなりラディクの手首をつかむと、ぐいと引っぱる。
「海底で腹から剣を抜かれるとき、この手からおまえの気を感じた。強い怒りと苛立ち。何かを切望する思い」
「ばかばかしい」
 ルギドはさらに彼を引き寄せた。くぐもった明かりの下、先祖とその後裔は間近で互いを見た。
「鼻の形は、ジークとアデルに似ていないこともないな」
 微笑みながら、指の腹で唇を撫であげる。「口元がアローテにそっくりだ」
「は、放せっ」
 ラディクはうろたえながら、魔族の手をふりほどいて、壁際に逃げた。
「お、俺は男に寝床に引き入れられて喜ぶ趣味はない!」
「奇遇だな。俺もだ」
 ルギドは含み笑うと、ふたたび身体を横たえた。
 少年は落ちた竪琴を拾って、元通りに座り、息を整えた。
 弦をつまびいて、もの悲しい旋律を奏で始める。
「なあ、あんた」
 小さな声で言った。「自分の妻子に会いたくならないか」
 ややあって、背中越しに低い答えが返ってきた。
「千年も前に、彼らは黄泉に下ったのだ。もう二度と会うことはない」
「……」
 ラディクは口をつぐみ、痩せた長い指を使って、まるでむせび泣くように弦を細かく震わせた。

  きよらかな恋人よ 美しきひと
   緑なす なつかしき故郷の乙女
  ポワムの樹の下で うたっているのなら
   どうか今夜 夢の中に来ておくれ
  僕はもう 故郷には還れないのだから

 詩人が目を上げると、風もないのに、寝所の仕切りの薄い垂れ幕がふわりと揺れる。
 ルギドは背中を向けて横たわったまま、いつまでも壁を見つめていた。
 澄んだ歌声は、鍛冶屋の真っ黒な煙突を伝って、煤けた街の夜空に立ち昇っていった。



 
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