新ティトス戦記 Chapter 6 |
鍛冶屋オブラの店の天井からは、たくさんの鉄管を伝って、夜通しぽとりぽとりと紙片が舞い込んできた。 そのたびに、この巨漢の火棲族はのしのしと歩き回り、ひとりごとを言い、どこに通じているのか他人にはまったくわからない管に次々と口をつけて、何事か命じていた。 「わかりましたぞ」 そして朝食の席についている一同に、にんまりと得意げに報告した。 「工場地帯の中に、昨夜のうちに入り口が完全に封鎖されている工場がひとつあります。少し前から付近でローブ姿の魔導士たちが目撃されていました。どうやら、すでに工場はテアテラ軍に乗っ取られたようですな」 「行くぞ」 エリアルの号令で、一斉にがたがたと椅子が鳴り、甲冑や小手をこすり合わせる金属の音が響いた。 「世話になった、オブラ」 剣を帯びた皇女は、唇を引き締め眉を吊り上げて、騎士の面立ちになっている。 「もうひとつ頼みたいことがある」 「なんなりと。姫さん」 「帝国軍本部に伝令を送ってもらいたい。皇帝名代エリアルからの命令である。工場地帯の付近には自軍を近寄らせるなと」 「承知しました」 深々と腰を折って見送る鍛冶屋の主に、最後尾にいたルギドが振り向いた。一行が扉を出て行ったあと、彼は戻ってきて長躯を屈めた。 「オブラよ」 「はい」 「伝令は送らずともよい。そのままに捨ておけ」 「は?」 「そのかわり、兵士のあいだに言いふらすのだ。テアテラ軍は腰がひけている。大攻勢をかけるなら今だと」 「し、しかし、それでは」 「魔族の王子ルギドの命だ。皇女の命とどちらが優先するかはわかるな」 紅の瞳が服従を迫るように、すさまじい光を放っている。巨大な魔族の肝が縮み上がった。 「……もちろんでございます。ティエン・ルギド」 「帝国に従うふりをしながら、一方で魔王軍の再編に着手せよ。ひそかに、俺のみを頂点とする組織を創るのだ」 「はい、御心のままに」 牙を見せて満足げに笑うと、ルギドはフードをかぶって外に出て行った。 静寂は朝もやとともに通りに漂い、時折りゴミの饐えたにおいと、ものの焦げたようなにおいが入り混じる。 黎明のサルデスの街は、ひとときの惰眠をむさぼっていた。 帝国軍とテアテラ軍の戦闘の音も聞こえてこないところを見ると、前線はなお膠着状態にあるらしい。 四人は、オブラから渡された市街図を頼りに、黒い建造物が立ち並ぶ工場群のただ中へ潜入した。 東側に向く煤けたガラス窓が、いっせいに朝の光を反射し始める。人影はない。 「工場一帯には、帝国軍の監視兵たちが常駐しているはずなのに」 エリアルは、悔しげに唇を噛んだ。 「前線の拡大によって、監視に割ける兵が減ったということでしょう。そこを敵に衝かれたのです」 昨夜の司令官の顔にあった好戦的な表情を思い出しながら、ジュスタンが言った。 「どうやらここが、魔導士が目撃されたという工場のようだ」 廃材の影にひそみ、エリアルたちは大規模な車両製造工場を見上げた。 「みんな」 エリアルが厳しい表情で、一同を振り返った。 「さっきから全く動きがない。意見を聞かせてほしい。どうするべきだと思う?」 「じゃあ、帰ろう」 「もう少し、様子を見ましょう」 「ルギド、あなたは?」 魔族は、涼しい顔で答えた。 「俺なら、真正面から堂々と乗り込む」 「……」 かくして、四人は工場の入り口を派手に壊して、堂々と乗り込んだ。 「ここは……」 薄日に照らされた広大な内部を仰ぎながら、ルギドは軽く目を見張った。 「蒸気機関車の製造工場だ」 とエリアルが答えた。 つや消しの黒で塗られたドームカバー、タンク、動輪、シリンダーやピストンなどが、所狭しと並び、無言で組み立てられるのを待っている。 工場は鉄骨造りの四層から成り、網目状の床から素通しで上層が見える。目のくらむような光景だ。 「機械の神殿か……」 ルギドがつぶやいた。 「まさに」 ジュスタンが同意してうなずく。「ここは機械文明の象徴です」 鉄道網の破壊と機関車製造工場の占拠。機械文明を憎むテアテラ軍がこの二つを同時に仕掛けてきたのは、戦略以上の意味があるように思えた。 「敵の気配がないな……」 エリアルが眉をひそめた。「派手な突入をしたから、奥にひそんで様子をうかがっているのか」 「ふわああ」 気の抜けた声がしたので、後ろを振り向くと、ルギドは眠そうにおおあくびをしていた。 「疲れたな。俺はここで寝る」 「は?」 ルギドは組み立て中の巨大なタンクの中に陣取って、さっさと寝ころんだ。 「大部隊が入り込んでいるわけでもなさそうだし、あとはおまえらに全部まかせた」 「で、でも、ルギド」 エリアルが情けないほどうろたえている。「あなたが先頭に立って、私たちを率いてくれるものと……」 「あ? 何を言ってるんだ。指揮官はうしろで戦況を把握し、前線で戦うのは兵士と相場が決まってるだろう」 「戦況を把握って、寝てるだけじゃないですか!」 「俺は目で見る必要がないと言ったろう」 三人の漫才のような会話を聞いていて、ラディクは大笑いを始めた。 「あきらめろ。こいつは初めから、帝国の味方をする気なんか、全然なかったんだよ」 「……わかりました」 ジュスタンは、眉間のあたりを真っ赤に染めていた。信じていたのに裏切られたという表情だ。 「心行くまでお休みください。ここは、わたしたちだけで戦います!」 そのとき、ラディクは肩にかけていた竪琴をすばやく背中に背負いなおすと、腰のナイフを引き抜いた。 「……上の階に奴らがいる」 エリアルは即座に剣を放ち、ジュスタンは杖を構えた。 危険をはらんだ沈黙が続く。 「やはり、おまえか、ドニ」 黒魔導士の声に応えるように、四つの黒いローブ姿が二階に現れた。 「道理で、サルデス近郊の線路を爆破させたあの雷撃魔法は、プンプンとおまえの気を放っていたぞ」 「おや、もしかしてあの列車に乗っていたのか、ジュスタン」 薄茶色の蓬髪をしたドニという名の魔導士は、かつての同胞を冷ややかに見下ろした。 「そうと知っていたら、もっと念入りに狙えばよかったな」 「あの者たちは、おまえの知り合いなのか」 エリアルが不安な面持ちで訊ねた。 「魔導士学校の同期生たちです」 ジュスタンは押し殺した声で認めた。「だからと言って、お気遣いは無用です」 みぞおちに力を溜め、空気を大きく吸い込んで気持を集中する。魔導士の戦いは、いかに正確に、息を継がずに呪文の詠唱が行えるかで勝敗が決まる。 『ギゼルの神殿に煌く金剛石、ダマイの川に沈める藍晶石』 『ボルゲンの火の山の頂より、来たりて我が力となれ』 『アマエラよ、アマエラよ、空に舞う氷霜よ』 『蒼きラガシュ、天駆ける御者(のりて)なきいくさ車よ』 四人の敵魔導士は、それぞれ得意とする呪文を同時に唱え始め、同時に唱え終えた。相反する四つの属性は打ち消しあうこともなく、撚り合わされた死の四重奏となって襲いかかった。 『ムタールの慈悲深き神。我の回りに守りの輪を開き給え』 一瞬の差で、ジュスタンの唱えた【アンチマジックシェル】が、彼を中心に結界を生じさせた。轟音を立てて力と力のせめぎ合いが続き、やがて敵の攻撃は跡形もなく消散した。 間髪を入れず、ジュスタンは攻撃に転じた。杖を突き出して叫ぶ。 『燃え立つ炎よ。キル・ハサテの水を焼き尽くし、エウリムの川を焦がせ』 この黒檀の杖は、大魔導士ギュスターヴのかつての所有で、千年の時を経て直系の子孫に伝えられてきた。故郷のテアテラを逃げ出すとき、ジュスタンが兄ユーグのもとから持ち出すことができた、たったひとつのもの。 これを持つ者は、土・火・氷・風すべての属性に対して弱点がなくなるという。しかしそれでもなお火の攻撃魔法を真っ先に唱えてしまうのは、彼の幼いときからの癖のようなものだった。 巨大な炎の蛇が長いとぐろをほどき、周囲の空気を巻き込みながら敵の足元に噛みついた。みるみる床の鉄板が焼け溶ける。 攻撃を避けて飛びのいた四人の魔導士の最後尾のひとりが、突然悲鳴を上げた。 前のめりに倒れる背中には、深々とナイフが突き刺さっている。 残りの三人は、あわてて後ろを振り向いた。 ラディクが階段の踊り場に立ち、二本目のナイフをベルトから抜いているところだった。 呪文激突の一瞬の隙をついて、敵後方に回りこんだのだ。 「くそう」 彼らは復讐に燃えて、反撃の呪文を唱える。 敵が放った攻撃魔法を、ラディクはとっさに身を伏せてかわした。 「ラディク!」 エリアルは抜き身の剣を片手に、援護へと階段を駆け上がった。 三人の敵は、死んだ仲間を残して奥へと走り去っていくところだった。近接戦闘を避けるために、逃げ道を確保しながら呪文を打つのが、魔導士の戦いの常道なのだ。 「だいじょうぶか」 物陰に逃れていたラディクに、駆け寄った。 「ああ」 「待って」 背を向けて駆け出そうとする少年を、エリアルはとどめた。 「なるべく、敵を殺さないでくれ。あれは、――ジュスタンの近しい知り合いなのだ」 「おまえの指図を、受けるつもりはない」 ラディクは冷ややかな目で見下ろした。 「俺はおまえの家臣でも何でもない。相手がテアテラだろうと帝国だろうと関係ない。刃向かう奴は殺す」 言い捨てて、死体からナイフを抜き取ると、敵を追って行った。 「気遣いは無用だと申し上げたのに……」 ジュスタンは苛立ちながら小さくつぶやき、皇女のもとに走った。 「わたしたちも追いましょう」 「うん」 エリアルは、ちらりとルギドを気遣う視線を落としたが、そのまま二階へ駆け上がった。 「驚いたな」 ルギドはじっと目を閉じ、自分の身体をおおっている微弱な魔力によって、工場全体の様子をくまなく探ろうとしていた。 「千年前と比べて、明らかに魔法の完成にかかる時間が短い」 魔導士の戦いの様子をつぶさに観察し、出した結論だ。 長い詠唱を助けるために、戦士が前衛に出て時間を稼ぐ必要がもはやないのだ。だから魔導士だけの部隊編成が可能なのだろう。千年のあいだに、魔法も進化しているということだ。 「俺はあまりにも、今の時代に対する知識が少ない」 千年という時の流れの残酷さ。ときどき己のことを赤子のごとく感ずるときがある。 そして皮肉なことに、千年という時のあまりの短さも、彼はいやと言うほど味わっているのだ。 「どれくらい……この身体がおとなしくしてくれるか」 つぶやいて目を開き、海の底から海面を見上げてあえぐように、高い天井を仰いだ。 「やつら、どこに隠れた」 ラディクは三階まで達したが、巨大な墓石のように立ち並ぶ工作機械の中で、完全に敵を見失っていた。 「ナイフを抜き取る手間の分だけ、遅れたか」 手元の、どす黒く血に濡れたナイフをじっと見つめる。敵はあと三人。最低三本のナイフは必要だった。それが失敗すれば、もうひとつの【武器】を使うしかない。 空気がどこかでさやと鳴り、振り向いたとたんに、猛烈な空気の亀裂が襲ってきた。真空の魔法だ。 見えない刃をかわし、魔法が飛んできた方向に反射的にナイフを投げつける。しかし体勢が崩れていたせいか、攻撃に思ったほどの威力がなかった。ナイフはやすやすと敵の杖に叩き落されてしまった。 「くそ」 こちらも機械の陰に隠れ、二本目のナイフを腰から抜き取り、あたりに気を配る。ひとりのいる位置はわかった。あとのふたりはどこだ。 追う者も追われる者も、息を殺して次の行動に全神経を集中する。 「ラディク」 エリアルの低く抑えた声が、階段をそっと這い上がってくる。しかしこれだけの沈黙の中では、筒抜けだ。 あの馬鹿女が。 ちょこまかと動かれてはかなわないと、彼はわざと立ち上がった。待ち受けていたように、二方向から魔法が飛んできた。 氷の呪文は、背負っていた竪琴をかざして防御した。風の呪文は、彼のばさばさの髪の端を切り落としながら、かすめていった。 ラディクは、身体をひねって氷の術法者にむかって、ナイフを放った。 確かな手ごたえ。 エリアルが彼の横をすり抜け、抜き身の剣を手に電光石火のごとく走りこんだ。 男は機械のすきまに横たわり、もがいていた。ラディクのナイフを肩に受けて苦しんでいる。 「抵抗するな! 殺しはせぬ」 エリアルは男の上に馬乗りになると、剣をかざした。 魔導士はにやりと笑うと、顔をそむけ、ぐっとうめいた。 ラディクは風使いに向き直った。敵はすでに逃げ出し、作業台の向こうを駆け抜けていくところだった。組み立て中のシャフトやシリンダーなどの部品が障害となって、ナイフを投げることができない。 天井を見上げる。 網状の天井には、鉄道の線路に似たレールが縦横に長く伸びていた。チェーンと歯車を蒸気で動かすことで、作業台から作業台へ、階上から階下へと、完成した部品を搬送する仕組みだ。 ラディクは迷うことなく、口を開いた。 星よ月よ 永遠に回り続けよ 火の回りをめぐる 踊り子のように 油にまみれた歯車がギギと動き出す。チェーンが甲高いきしみを立てたかと思うと、するすると歯車に沿って回り始めた。 あまりにも唐突で急激な機械の動きに、工場全体が揺れ出したかのような錯覚にとらわれ、逃亡者は凍りついたように足を止めた。チェーンの先の重いフックが大きく揺れ、生き物のように襲いかかった。魔導士は悲鳴を上げると、登ろうとしていた階段からバランスを崩して下に落ちていった。 「ラディク」 エリアルが剣を手に立ちすくみ、こわばった表情で彼を見ていた。 【力】を使うときは、自分の目が紅く光るのを知っている。きっと他人の目には悪魔か何かのように見えていることだろう。 皇女はすぐに気を取り直し、唇を引き結んだ。 「こちらの魔導士も、死んだ。……自分で舌を噛み切った」 「残るのは、あと一人だな」 ラディクは竪琴を背負いなおした。激痛が走る。竪琴で防ぎきれなかった敵の氷魔法が、肩にかなりのダメージを与えていた。 「上には今、ジュスタンが向かった。急ごう」 エリアルは剣を鞘に戻して、敵が落ちた奥の階段に向かって歩き始めた。 「……今のは、おまえの歌の力なのか?」 ラディクはしばらく無言で、それから「ああ」と答えた。そして、弁解するように小さく付け加えた。 「俺の歌は、命あるものには届かない。……動かせるのは、命のないものだけだ」 かつての同期生だった男が、階段から身を乗り出して下に落ちていくのをジュスタンは間近で見ていた。 手を伸ばせば、受け止められたかもしれない。だが、受け止められなかったかもしれない。人の運命に「もしも」はない。 自分がテアテラを裏切らなかったら、彼らとは今でも仲間だったかもしれない。そして帝国に反逆し、エリアルを殺そうとしていたかもしれないのだ。自分の選択した道にも、「もしも」はなかった。 敵の身体が一階の床で動かないのを確かめてから、上の階へと急ぐ。 四階は、どこにも逃げ場がない行き止まりだった。 「ドニ!」 その声は、天井に反響して、幾重にもこだました。 「おまえひとりか」 答えがかぶさるように反響し、黒ローブの魔導士が機械の影から姿を現した。 「仲間がすぐ来る。あとの三人はもう全員倒した。逃げられないぞ」 それを聞いて、ドニはくすくすと笑い出した。 「おまえがテアテラを裏切るとはな。こともあろうに、ジュスタン、摂政の息子であり、最上級エリートのおまえが。今でも信じられないよ」 揶揄の混じった軽口を、ひとにらみで黙殺する。 「おまえが消えてから、俺たちのあいだでどんな噂が流れたか知っているか?」 ジュスタンを知り尽くした旧友は、彼の最大の弱点を揺さぶりにかかった。 「レイアが、おまえではなく兄のユーグを選んだから、腹立ちまぎれに出奔したのだと」 「ばかばかしい」 ジュスタンは冷笑を返した。「そんな与太話でもしていないと空腹が紛らわせないのか、テアテラの奴らは」 「与太話などであるものか。敵を知るための情報だよ」 饒舌にしゃべりながらも、ドニは視線をあちこちに配っている。昔から油断のならない男だ。 「ユーグは今も忠実に、レイアに仕えているよ。昼も夜も片時も離れずにな」 「あいつらしいな」 声がわずかに揺れた。レイアと兄の名が耳に届くたびに、どんどん冷静さを失っていく。罠だ、落ち着けと自分に言い聞かせながら、言った。 「おまえ、自国の女王を尊称なしで呼び捨てにするとは、不敬罪もいいとこなんじゃないか」 「俺は女王でなく、祖国テアテラに忠義を尽くしているだけさ。あいにく女性の色香というのに、とんと疎くてね。おまえと違って」 「……」 ぶるぶると、拳が震える。 「ユーグもあの女と契ってすっかり骨抜きにされちまった。ふふっ。売女め、以前はおまえの父親とも契っていたというではないか」 「うわあっ!」 ジュスタンは叫んだ。必死の努力にもかかわらず、もうとっくに正気を失っていた。 そして血走った目で敵をにらむと、杖の先を己の心臓に当てて、唱えてはならない呪文を唱えた。 |