新ティトス戦記 Chapter 10 |
パロス発・北部行きの蒸気機関車は、半日かけて夕刻には、古い歴史のある港町ローダに着く。 しかし、不穏な空気をまとった一等車の乗客は、【国境の森】に近い途中の駅で下車した。 びくびくと怯えている車掌に、車中でしたためた侍従長宛の書状を託したエリアルは、降車口で悲しげなため息をついた。 「帝都が大騒ぎになっていないとよいのだが」 「奴らも馬鹿ではあるまい」 ルギドがこともなげに言った。 「騒ぎ立て、皇女が失踪したなどと敵に宣伝するような愚は犯さんだろう」 村で食料や馬などの装備を整え、国境の森に着いたのは、もう夕暮れ間近だった。 テアテラとの国境の森は、リュートとアローテが、その子どもジークとアデルとともに10年間暮らした場所でもあった。 だが、千年も前の丸太小屋の跡など残っているはずもなく、湖畔のそれらしき場所では、年を経た大樹や、生い茂ってからみ合う丈の低い潅木などに雪が降り積もり、薄暮の光にわびしく照らされているばかりだった。 三人の若者たちは、言葉を交わすことさえ憚って、ルギドの背中を見ていた。この古の魔族が今どんな気持で家族との思い出をたどっているのか、若い彼らには推し量るすべもない。 ふいに、ルギドがひとつの石の前で立ち止まった。 「これは……」 驚いたように、つぶやく。 古い墓石だった。角が削れて黒ずみ、昔は字が刻まれてあったとしても今はまったく読めない。だが、その周囲の枯葉や雪はきれいに取り払われ、その前には色鮮やかな花束が、凍りついてはいるものの、なおみずみずしい色を失わずに置かれていた。 「それは誰の墓?」 エリアルが近づいて、訊ねた。 「――ゼダ。俺の従僕だった魔族だ」 「花が供えられたのは、つい最近のようだな」 用心しながら、彼女はあたりを見回した。「手向けた者は、まだ近くにいるのだろうか……」 「ジュスタン、国境をまたぐ洞窟というのは、どこにある?」 ルギドは、急に話題を変えた。 「ここから森を抜け、北北東に2キロほど行ったところです」 「暗くならぬうちに、急ぐぞ」 さっさと先頭を進み出した長身の魔族を、残りの三人はあわてて追いかける。 「いったい、どうしたんだ」 ラディクは彼の真後ろにつくと、素っ気なくたずねた。 「なにがだ」 「さっきの花束に、心当たりがある様子だった」 「いや、そんなものはない」 ルギドは首を振って、かすかに長い髪を揺らした。 「……だが、アローテもああやって、ゼダの墓の前によく花を供えていた」 「……」 「馬鹿な話だ。千年も前に死んだ女が、生きているかと一瞬でも思うなど」 ラディクは、凍った落ち葉をつま先でぎしりと踏み砕いた。 「なあ」 その声は、少し苦しげだった。「アローテは、本当は……」 「本当は、なんだ?」 ルギドは振り向いて、不審そうに彼を見た。 次の瞬間、ひとつの黒い影が矢のように宙を走った。 「きさまの命、もらい受ける!」 影は叫ぶなり、ルギドの喉笛に向かって飛びかかった。 「ぎゃんっ」 甲高い悲鳴が上がった。 ルギドの右腕は、なんなく襲撃を受け止め、弧を描くように払い落としたのだ。 黒い物体は地面に叩きつけられ、腹ばいになって動かなくなった。 「何者だ、こいつは?」 呆気にとられたエリアルたちが、回りに集まってきた。 危険を感じるどころではない。それほど、襲撃者は小さかった。黒というより濃灰色の身体は、人間の生まれたての赤ん坊よりなお小さく、手足は細く、背中に生えている翼も透き通った花びらのように薄く震えている。 耳をすますと、さめざめと泣く声が聞こえてきた。 「……腹へったぁ。せめて、腹いっぱい食べてから死にたかった。狩をしようにも、狙った獲物には全部逃げられちゃうし、冬眠から覚めたばかりのクマには、反対に食われそうになるし、間抜けそうな人間の一行を襲おうとしたら、反対に返り討ちにされちゃうし……。おいら、ルギドさまにお会いする前に、こんなところで死ぬなんて、ご先祖さまに会わす顔がないよぅ」 「ゼダ……?」 ルギドは、まるで幽霊に出会ったような声を漏らした。たった今ゼダの墓に詣でたための思い込みではない。目の前にいるのは、本当にゼダそのものだった。 「その名を呼ぶのは……」 小さな魔族はがばと跳ね起きると、大きな黒い目をまんまるにしてルギドの顔を見上げた。 「銀色の髪、紅い瞳、世にもお美しいその御姿――、一目でわかりました。あなたは魔族の王子ルギドさまあぁ!」 絶叫して、ルギドの足にしがみつくと、おいおい泣き出す。 「うそつけ。一目でわからなくて、食うつもりで襲ったんだろ?」 ラディクは、傍らで肩をすくめている。 「やっと、お会いできました。おいらの名はゼルと申します。ゼダはおいらの、ひいひいひいひいじいさんにあたります。……あれ、ひいひいひいひいひいじいさんだったっけ?」 「ゼダの子孫だと?」 ルギドは戸惑って聞き返した。「だが奴には、子などいなかったはず」 「ご存じないのも、無理はございません」 ゼルと名乗った魔族は、地面に正座した。 「ご先祖さまが、ハガシムという魔将軍のもとに身を置いていた頃のことでした。舌を抜かれて殺されそうになり、いよいよ脱走することを決意したとき、同じ境遇の飛行族の女と一夜の契りを交わしたのです。そして、ゼダはその女にこう言いました。 『わたしは今からここを逃げ出し、ルギドさまのもとに馳せ参じるつもりだ。もし途中で殺され使命を果たせない場合は、おまえが産む子どもを、わたしの代わりにルギドさまのお役に立てるように育ててくれ』」 話しながら感極まったのか、ぷっくりとふくれた腹が小刻みに揺れる。 「ゼダが、そんなことを……」 ルギドはつぶやいて、あとは沈黙した。 「女は律儀にも、子や孫にゼダのことばを言い聞かせながら育てました。ご先祖さまはルギドさまの戦いに加わって壮絶な戦死を遂げ、我々飛行族の英雄として今も語り継がれているのはご承知のとおりです」 誇らしさのあまり、言葉の合間に自分の翼を打ち叩く。 「そしてその子孫であるおいらたちも、いつかルギドさまのお役に立てることを望みながら、長き月日を送ってきました」 ゼルは地面にひれ伏した。 「お願いでございます。どうか、おいらを旅のお供に加えてください」 威勢よく燃える焚き火の炎が、梢を揺らし、天の星々まで揺らしているようだった。 ジュスタンが張った結界のおかげで、凍るような風が首筋に吹きつけることはない。 火のそばでは、今狩られたばかりのクマの肉が炙られてじゅうじゅうと脂を滴らせている。そのそばには、皮を剥がれただけの生肉が、魔族たちのために木の葉の上に積まれた。 エリアルは寝不足と暖かさに負けてぐっすりと眠り込み、ジュスタンがその隣に座り、寒くないように時折り毛布の具合を整えてやっていた。 「三ヶ月ほど前、ルギドさま復活の報が、帝国側に与していた魔族の間に伝わりました」 ゼルは、人の拳大ほどの生肉を息も継がずに食べ終えると、満足したのか甲高い声で今までの苦労話を語り始めた。 「おいらはそのときラダイ大陸にいましたが、なんとしてもご先祖さまの遺言どおり王子にお仕えしたく、デルフィアの港から密航したのですが、一度目は出航前にとっつかまり、二度目は途中で見つかって海に放り込まれ、三度目にようやくローダの港に着いたのですが、そこから帝都への旅費もなく、結局うろうろとさまよった挙句、この森のゼダの墓の前にて、おいでをお待ちすることにしたのです」 「ああ。あの墓を清めて花を供えたのは、きみだったのだな」 ジュスタンが得心して、言った。 「はい、ルギドさまが、もしゼダのことを覚えていてくださったら、いつかここへおいでになるはず。そうしたら、おいらは死ぬまでルギドさまのおそばにお仕えする。ご先祖さまの墓の前でそう決意し、誓いをあらたにしていたのです。ところがお待ちしているうちに、持っていた食料は尽きるは、寒いは、ひとりで心細いはで、さんざんな目に会いました」 そして、上目遣いで一同の顔を見回した。 「お連れのみなさんにも、伏してお願いします。一生懸命働きますので、おいらを仲間に入れていただけませんか」 ラディクは答えの代わりに、持っていた竪琴で哀歌を奏で始めた。 折れた矢の影は長く 長く 赤い残照が血塗れた翼を照らす 勇壮で、それでいてもの悲しい、英雄ゼダへの鎮魂歌だった。ジュスタンが静かな声で言った。 「わたしたちは――エリアルさまもわたしも、そして多分ラディクも、異存はありません」 「ルギドさま……」 ゼルが訴えるような声を上げると、ルギドはその腹をそっと握って、自分の右肩に乗せた。 「ゼダが生きていたときは、いつもここに止まっていた」 「ありがとうございます……わが主」 小さな魔族は涙をいっぱいに貯めた目を、何度もしばたいた。 千年前ルギドとともに戦った冒険者たち、アシュレイ、ギュスターヴ、アローテ、そしてゼダの子孫が、ふたたびこうして集結した。その場にいる誰もが、不思議な運命の導きを感じずにはおかない出会いだった。 「おいら、きっとお役に立ちます。命を賭して、ルギドさまをお守りいたします。何でもお言いつけください―ー不調法ではございますが、夜伽(よとぎ)だってせいいっぱい勤めます!」 それを聞いたとたん、ルギドはぴくっと顔をひきつらせた。 「ゼル……おまえ、まさか――女なのか?」 「あれぇ、言いませんでしたか?」 【彼女】は大きな目を細めて、にっこりした。「おいら、まだまだ未成熟ですけど、いずれはルギドさまの妾妃にしていただくのが目標ですから!」 空がすっかり白んだ頃になって、一行は苦心の末、ようやく洞窟を探し当てた。 見つからなかったのも当然だ。厳しい冬のあいだに、穴の入り口がすっかり分厚い氷にふさがれていたのだ。 ジュスタンが火の呪文を唱えて、氷を溶かすと、真っ暗な縦穴が現れた。彼らは縄を使い、ひとりずつ慎重に降りていった。 全部で百メートルほども下っただろうか。手指がかじかむような寒さだった地上に比べて、洞窟の中は驚くほど暖かかった。 「テアテラの東部一帯を、火山脈が縦断しています。地上の雪が地熱で溶かされて、この洞窟へ流れ込んでいるのです」 ジュスタンが灯した魔法の光に照らし出されたのは、そこかしこを水に覆われた、明るい砂色をした石の鍾乳洞だった。磨かれたごとくにつるりと光る壁には、幾本もの小さな滝が伝い落ちる。地面には扇に似た自然の文様が刻まれ、そのそれぞれにエメラルド色の水をたたえていた。 「……美しいところだ」 エリアルが思わずつぶやく。 「こちらです。離れないようについてきてください」 魔導士の先導で、一行は長い回廊の奥へと進み始めた。 水のさらさらと流れる音は高く低く、途絶えることのない和音となって洞窟中に反響している。 「ここを守護する召喚獣とは、どんな奴だ?」 ルギドが訊ねた。 「薄気味の悪い、半透明のゼリーのような姿をしています」 ジュスタンが、嫌悪をにじませた口調で説明した。「決まった形を持たず、物理攻撃もまったく効きません」 「物理攻撃が効かない?」 エリアルが叫んだ。「それでは、私にはまったく為すすべがないな……」 腰に帯びた【勇者の剣】の柄を握りながら、魔法の使えない皇女は落胆を隠せなかった。 「私ができるだけ魔法で弱らせます。ラディク。きみの歌も有効かもしれない」 ラディクは少しためらった末、答えた。「ああ、やってみる」 「あとは、ティエン・ルギド、あなたの魔法剣があれば――」 振り向くと、最後尾を歩いていたルギドは眠そうな顔をして、そっぽを向いていた。 「……わかりました。いざというときはお願いします」 ため息をつきながらも、ジュスタンはルギドに対する信頼が、一同の心に根づいているのを感じていた。あのサルデスの機関車工場のときのように、ぎりぎりまで彼らにまかせて、手出しを控えるつもりだろう。 三人の成長を妨げないようにと、配慮しているのかもしれない。そう考えると、大きな存在に見守られる安心感があった。 「ゼル、きみの魔力というのは?」 「あんまり、当てにしないでください」 ゼルは、ルギドの肩で小さく縮こまる。「なにしろ、クマだって倒せなかったんですから。おいらの特技ってばせいぜい、自在に空を飛べることと、暗い場所でも遠目が利くこと、くらいです」 「それは助かる」 洞窟は奥に向かうほど勾配が強くなり、水が川のように勢いよく足元を流れていた。 いくつもの分岐が現われ、地図を完璧に記憶したはずのジュスタンでさえ、間違った道に足を踏み入れないようにするためには、一瞬も気が抜けない。空を飛べるゼルが先回りして、行き止まりを確かめてくれるだけで、大いに道ははかどった。 「ずっと疑問に思ってたんだがな」 ラディクは歩きながら、退屈そうな間延びした声を出した。 「魔導士は、どうしてもローブを着なきゃならんのか?」 彼の視線の先では、ジュスタンが濃紺のローブの裾をびっしょりと濡らして歩いている。 「どう考えても不便で動きにくいだろう。こういうときは、別に脱いでもかまわないんじゃないか」 「魔導士は必ずローブをまとうべし。そう【大魔導士の書】に書かれてあるから、従っているだけです」 ジュスタンが辛抱強く答えた。 「【大魔導士の書】って、いったい何なんだ」 「ギュスターヴの【言行録】と魔法に関する【研究】を、後世の研究家が一冊にまとめた書物です。魔導士はそれを座右の書として暗唱することを幼いころから義務づけられているのです」 「そう言えば、ギュスターヴはそんなことを言っていたな」 ルギドがあくび交じりに言った。「魔導士がローブを脱ぐときは、魔導士を辞めるときだと」 「はい、そうも書いてあります」 ジュスタンは、英雄譚を聞く子どものように目を輝かせた。 「ティエン・ルギド。ギュスターヴのことを、もっと教えてください。彼はどんな方だったんですか。毎日どんな素晴らしいことばをお語りになっていたんですか」 魔族はまた、いかにも気の毒そうな顔をして若者を見た。 「口を開けば理屈ばかりこねるし、いつも斜に構えて素直でない割には、人に対してやたら気を使う。働くより楽することばかり考えているが、そのくせ妙なところで熱くなる。扱いにくいこと、この上ない男だったぞ」 「……」 「もっとも」 ルギドは、楽しそうに喉の奥で笑った。「悪いヤツではなかったがな」 洞窟に満ちている水の軽やかな音が、にわかに激しくなった。 「滝?」 「うわっ」 ゼルは手で大きな両耳を押さえた。「変な気持。ドキドキする。なにか――なにか変です!」 行く手の岩壁が、まるで凹レンズを透かして見る景色のように、ぐにゃりと歪んだ。 そして、それが敵の巨大な身体を透かして見ているのだと気づいたときには、もう遅かった。 剣士たちは腰の剣を、吟遊詩人はナイフを、魔導士は杖を、それぞれ反射的に手に握ったが、できたことはそれだけだった。 「蒼き雷(いかずち)よ――」 雷撃呪文を唱え始めたジュスタンを、敵は猛然と襲った。飴でもねじるように、触手とでも言える身体の一部を伸ばし、その内部にすっぽりと彼を取り込んでしまったのだ。 ジュスタンの持っていた魔法の灯りが消え、闇が訪れた。 皮肉なことに、それでようやく敵の全体像が残りの者に見えた。 いにしえの召喚獣。 地面から天井まで埋め尽くすほどの巨大な半透明の体が、ぼうっと鬼火のようにオレンジ色に光っている。その内部のあちこちに、どろどろの形状をした半固体が模様のように浮き出ている。吐き気を催すような生命体だった。 [イオ・エルハ] ルギドが、古代ティトス語らしき言葉を口にした。召喚獣はそのとたん彼に向かって触手を伸ばした。しかし、完全に予測していたのか、魔族は間一髪でうしろに飛び退った。ゼルはその衝撃で、壁際まで吹き飛ばされてしまう。 「気をつけろ、みんな」 なおも集中して仕掛けられる攻撃を、巧みにかわしながらルギドは叫んだ。 「こいつには目がない。声を出した者を真っ先に攻撃しているらしい」 ラディクは、その隙に音も立てずに走り出すと、ルギドとは反対側に回り込んだ。 いくら不定形だと言っても、同時に逆方向に何十メートルも身体を伸ばせるはずはない。そう判断したのだ。 峡谷の端に 千の軍勢 その向こうには 万の軍勢 いくさ車の 土煙 陽光(ひかり)にきらめく 槍と矛 足元の水の流れが突如、竜巻のように空中に噴き上がった。よじれた鋭い一本の槍となって、敵に襲いかかろうとする。 「しま……ッ」 しかし、それより一瞬早く、召喚獣の触手がするすると長く長く伸びてきて、ラディクの身体を捕らえた。すっぽりと内部に取り込まれ、あっというまに彼は宙を舞い、本体に引き寄せられる。 口から、耳や鼻から、ゼリー状の物質が体内に侵入してくる。声を出すどころか息すらできない。 ラディクは、懸命に手のひらに力を集めようとした。だがその程度の微弱な魔力では、この巨大な敵にダメージを与えることはできなかった。 目を横に転じると、ジュスタンも同じようにもがいでいた。このままでは、ふたりとも溶かされて、こいつの栄養になってしまう。召喚獣の体のあちこちにあった模様は、そうして命を失った生き物たちの名残なのだと気づいて、ぞっとした。 皇女が必死に剣で敵の体を叩き切ろうとしているのが、水中から水面を見上げるようにぼんやりと見える。 「ふたりを放せっ」 エリアルは無我夢中で、勇者の剣を何度も敵の体にむなしく突き刺した。 自分が勇者であるなどとは、夢想したこともない。だが少なくとも勇者の子孫であるなら、神聖なる光を放つという剣の加護を受ける可能性はゼロではないはず。そうであってほしい。私には人々を救うための力が必要なのだ。 「どけ、エリアル!」 ルギドが叫んだ。 左手には黒い剣が、そして右手には巨大な光球が握られている。 両の手が柄の根元で合わさったとき、黒い剣は高温で燃える炎の色となった。 怒涛のような斬撃が叩き込まれ、もうもうと熱い蒸気がたちこめたかと思うと、次の瞬間、ジュスタンとラディクの体は地面に投げ出され、彼らの肺は待ち焦がれていた新鮮な空気を、はち切れそうなほどいっぱいに吸いこんだ。 「――だいじょうぶか、ラディク」 何十秒か、気が遠くなっていたのだろう。ラディクが目を開いたとき、エリアルが頼りなげな微笑を浮かべて彼を覗きこんでいた。 当然、ジュスタンのところに一番に駆け寄ったのだろうなと皮肉っぽく考えながら、彼はエリアルの手を払いのけて起き上がった。 地面には青黒くにごった腐汁のようなものが溜まり、少しずつ洞窟の水で押し流されていた。これがあの巨大な召喚獣の死体ということなのだろう。 「【イオ・エルハ】というのは、こいつの名前ですか」 すでに立ち上がっていたジュスタンが、おぞましげにその液体を見下ろしながら、ルギドに訊ねた。 「ああ。【答えぬもの】という意味の古代ティトス語だ」 「名前を知っているということは、以前どこかで会ったことが?」 「……そのはずだ」 ルギドは答えながら、心もとない表情をした。「俺がこいつに会ったのは――」 「ルギドさま?」 ゼルが異常を感じて、ふわりと彼の肩から浮かび上がった。 銀色の髪がさわさわと動き、回りの空気に火花が散った。 「ぐ……ああっ!」 突然の絶叫とともに、ルギドが自分の頭をかきむしり始めた。 「ルギド!」 「俺から……離れろっ」 言われるまでもなく三人は、知らず知らずのうちに数歩うしろに下がっていた。そうせざるを得ない。恐怖から来る本能的な行動だった。先ほどの召喚獣など比べ物にならないほど恐ろしい存在が目の前にいる。 それほど、ルギドの体からほとばしる黒の炎は、すさまじい邪気に満ちていた。 |