新ティトス戦記 Chapter 9 |
サルデス市街戦の終結から三ヶ月が経ち、厳寒の真冬をつかさどる「一角獣の月」が過ぎようとしていた。 もっともこのような古い月の呼称はとっくに廃れていて、今の時代の人間はただ「二月」と呼ぶ。ただし、それに続く夏までの五ヶ月を「鳳凰の月々」、それ以降の五ヶ月を「飛龍の月々」と呼ぶ慣わしは、季節をあらわす古風で雅なことばとして、今でも広く使われている。 「モニカ」 エリアルは、朝食の給仕をする侍女の手もとを見つめながら言った。 「ティエン・ルギドをお見かけしないが、だいじょうぶだろうか」 「お元気でいらっしゃいます。寒さが苦手だから冬のあいだは外に出たくないと、おっしゃっておいででした」 彼女は、よく蒸れた黄金色の茶をポットからコップにそそぎ、うやうやしく皇女に捧げた。 【翠石宮】において、交替でルギドの世話にあたる侍女たちは、全部で三人いる。この三人のほかには、皇女護衛の任につく騎士が四人。それ以外にルギドの存在を知る者たちは、この皇宮にはいない。 それだけに、知識に富み、機転が利き、武術のたしなみが人一倍の者たちを選りすぐっている。エリアルに対する忠誠心も堅固で、今目の前にいるモニカなどは、ルギドの生け贄をなることを自ら志願した女性でもあった。 「お食事が足りていないということはないだろうな」 その彼女の前で不用意なことばを漏らしてしまい、冷や汗が出るのを感じた。 侍女は口元を押さえて、くすくすと笑った。その笑顔が、エリアルには不思議なほど艶然と映る。 「それだけは絶対にありえないと存じます。いつも、たくさんお召し上がりでいらっしゃいますので」 「すまない。おまえたちには、気の休まらぬ大変な役目を与えてしまったな」 「いえ、たいしたことはしておりません。お心遣いはご無用に」 朝食の皿を下げ、エリアルの前を辞したあと、モニカは【翠石宮】に向かった。 中へ入ると、同僚の侍女が近づいてきて、彼女のポケットに一通の封書を差し入れながら、小声でささやく。 「東門脇の酒場の裏、【ザムリ】という魔族にこれを」 「わかったわ」 モニカは外出許可を得て街に出るとき、少し心を痛めながら皇宮の建物を振り返った。 「すみません、エリアルさま。あなたを裏切るつもりなどないのです」 「よし、今日こそ行くぞ」 自分を鼓舞する大声を上げると、ジュスタンは立ち上がり、部屋の隅にかけてあった剣を取って左の腰に差し、杖を右手に握った。 回廊に出たところで、エリアルに会った。 「姫さま」 「【翠石宮】に行くのか」 「はい、今日こそ、魔法剣を伝授してもらいます」 「だが今までにもう三度、門前払いを食わされているのだろう?」 それを聞くと黒魔導士はたちまち、しょげてしまう。 「あの方は、あれからずっと、わたしを毛嫌いなさっているような気がします。禁呪を無思慮に使ったあげく、気絶して背中にかつがれて、どうしようもなく軟弱なヤツだと思っているのでしょう。すごい目で睨みつけられます」 「そのようだな」 エリアルはこみあげてくる笑いを喉の奥で抑えた。 「そばにいて、とりなしてやろう。私も、何日かぶりに【翠石宮】にうかがうところだった」 「このところ、姫さまは寝る間もないお忙しさでしたね」 ジュスタンが、心配げに皇女の顔を見た。 「そうだな。選帝侯会議に、宮中会議。ほぼ毎日の軍議。まったく、会議ばかりの日々だった」 「【内海】に展開している帝国海軍の様子は、いかがなのです?」 「それが、不思議なことに、このところテアテラ海軍を押しかえす勢いなのだ」 と話しながらも、エリアルの顔色は冴えなかった。 「よいではありませんか。何をお悩みなのです」 「解せないのだ。提督は、わが艦隊の砲撃の精度と威力が格段に上がったおかげだと手放しで自慢していたが、それほど短期間にすべてが変わるものでもあるまい。何故急に、勝利を収めるようになったのだろう」 「テアテラ軍の陽動作戦を心配しておられるのですね。あのサルデスのときのように」 「用心に越したことはないと思う。だが一方では、人心が高揚しているときに可能な限りがむしゃらに突き進むことも、また必要とも思えるのだ」 エリアルは、唇を噛んだ。「私は、まだまだ未熟だ。ルギドほどの戦略家になるには、どうすればよいのだろう」 ジュスタンは、微笑んだ。 「ふたりで彼に教えを乞いに行きましょう」 「おまえさ、それって共食いじゃないのか」 ウサギの生肉をほおばっているルギドのそばの壁にもたれて竪琴を弾きながら、ラディクはげんなりしたように顔をしかめた。 「俺は絶対にウサギは食べられねえ。同族を食べてるみたいな気がする」 「細かいことにこだわる奴だな」 侍女が片づけをすませると、ルギドはごろりと寝台に横になった。 「また寝るのか」 あきれ果てたようにラディクが言った。 「まあ、ゆうべも遠乗りで忙しかったらしいしな。エリアルの侍女たちまで手なずけて、自分専用の通信係にしちまったし。さぞかし、ここに寝ていても、いろんな情報が入ってくるだろう」 「おまえこそ、毎夜宮殿を抜け出しては、酒場に入りびたってるそうだな。女でも買っているのか」 ルギドは、吟遊詩人をからかうように笑む。 「酒場に行って歌うのは、俺の生業(なりわい)だ」 ラディクは、手に持っている竪琴をぽろんと鳴らした。「それに、あそこで歌っていればイヤでも、さまざまな噂話が耳に入ってくる」 「ほう。で、何がわかった」 「帝国海軍は、【内海】で破竹の快進撃だそうだな。【エトル海】をほぼ制圧し、【ベアト海】に迫る勢いだとか」 「なるほど」 「全部、あんたの手下のしわざなんだろ?」 ラディクは紅い瞳を光らせ、挑むように言った。 「帝国艦隊と交戦中のテアテラの船に、部下の水棲族に命じて、こっそり火薬を仕掛けたか。スクリューを壊させたか」 「さあな」 「せいぜい陰から帝国を助けるといい。そのほうが、いざ自分のものにするときに値打ちが上がるからな」 「何の話だ」 「さあねえ」 宮殿の扉が開く音がして、ふたりは、ひたと口をつぐんだ。何も知らぬ皇女と黒魔導士が入ってくる。 「なんだ。ラディク、おまえもいたのか」 エリアルは、明るい声で言った。「久しぶりに、四人そろったな」 「……」 ラディクは、無言で竪琴を肩に負い、立ち去ろうとした。 「ティエン・ルギド!」 ジュスタンは彼の寝台のもとにひざまずいた。 「どうか、今日こそ魔法剣を教えてください」 「……魔法剣?」 ラディクはそのことばに興味を引かれ、足を止めた。 「【大魔導士の書】を読み、ずっと魔法剣のことを知りたいと思っていました。サルデス城遺跡の地下で実際に見て――魔法力がからっぽなわたしが唱えた一番弱い魔法でさえも幾十倍にも高めて、大岩を砕くことができた。 あれさえ使えれば、自分の無力さにうちのめされることも、……禁呪を使わねばという衝動もおさえられます」 「わかっていないようだな」 ルギドは、冷たく答えた。 「その書物には書いていなかったのか。魔法剣とは、【魔】の力と剣の技が相乗して、威力を得るもの。剣の心得もない人間が、使いこなせるものではない」 「心得なら、あります!」 魔導士は、噛みつかんばかりの勢いで叫んだ。「テアテラにいたときから、剣の鍛錬はしてきました」 「ほんとうだ。ルギド」 エリアルが横から助け舟を出した。 「私も何回か、ジュスタンと手合わせしている。彼の技はなかなかのものだ」 「その、腰の剣を見せてみろ」 鞘ごと渡すと、ルギドはゆっくりと抜いて、刀身を確かめた。 見る者が見れば、剣はその持ち主の腕を如実に示す。変な癖や握りの甘さがあれば、たちどころに見破られてしまう。 元通りに収めて、突き返した。 「この剣には、魔を宿す力がない。普通の鋼では、魔力を通じた瞬間に焼け溶けてしまう」 「……わかっております」 「俺の剣を貸そう」 「お、教えてくださるのですか?」 ジュスタンは、信じられないように目を見張った。 「決めるのは、おまえの腕を実際に見てからだ」 ルギドは寝台から俊敏に立ち上がると、広い歩幅で隣の大広間へ移動した。 三人も、あわてて後を追う。 「そのローブは、剣の練習には邪魔だな」 一瞬ためらったジュスタンだったが、しぶしぶ魔導士の象徴であるローブを脱いだ。綿のシャツからは、適度に筋肉のついた長い腕が覗いている。 「なかなか、鍛えた身体だな」 ソファに腰を落としながら、ルギドが意外そうに言った。 「魔導士は、心身ともに鍛錬を積むもの。大魔導士ギュスターヴのお教えどおりです」 「ギュスターヴ? あのギュスターヴか」 「はい。ティトス史上随一の魔導士と呼ばれるギュスターヴは、文武両道にすぐれた方であったと聞きました。わたしは少しでも彼に近づきたいと願っています」 無言が続くのでジュスタンが振り返ると、ルギドは彼をしみじみとあわれむように見つめていた。 「俺の知っているギュスターヴは、女よりも体力のない奴だったぞ」 「そんなまさか。だって【大魔導士の書】には――」 「あのペテン師に、千年越しでだまされたな……」 ほうっとため息をつくと、手にしていた自分の黒い剣を差し出す。 「まあ、実際はともかく、教えは間違ってはおらん。この剣を構えてみろ」 「は、はい」 ジュスタンは口元を引き締めると、受け取った剣の柄を握り、鞘から放った。 右足を一歩引いて、構える。 頬杖をついて見ていた魔族は、ぴくりと反応した。 「真正面と右側に敵がいるつもりで、斬りかかってみろ」 柄を握る手をぎゅっと絞ると、ジュスタンは目に見えぬ敵に向かって踏み込んだ。上からの一閃、そして手首を返してなぎ払い。 剣先が止まり、構えをほどく前に、ルギドは立ち上がってつかつかと歩み寄った。 「いたっ!」 拳骨でしたたかに赤茶色の頭を叩くと、魔導士の手から剣をひったくる。 「てめえがこの剣を使うのは、一千万年早え!」 「そ、そんな」 ジュスタンは両手で頭をかかえて、痛さのあまりうずくまった。 「……そんなに下手なのか」 ソファに不機嫌そうに身体を沈めたルギドに、おそるおそるエリアルが訊いた。 「下手なんてもんじゃねえ」 吐き出すように、彼は答えた。「……その逆だ」 「逆?」 またあの古めかしい卑語を使っているルギドに戸惑いながらも、彼女は問い返した。 「あれは、俺の構えだ。隊商と旅をしていたときに、独学で編み出したものだ」 目を細め、つぶやく。 「千年前に俺といっしょにいた者以外に、あの構えを知ってる奴はいねえはずだ。……いったい、誰があの野郎にそれを教えた?」 一角獣が去り、五匹の鳳凰の訪れる季節には、帝国海軍はほぼ【内海】の半ばまでを制圧した。それに伴い、【翠石宮】の広間の壁に貼られた地図では、テアテラ艦隊との最前線を示すピンが次第に北西の方向へ移動していく。 そして後世の歴史家が【ベアトの大海戦】と呼ぶ一連の大規模な攻防戦に突入したのは、3月の11日だった。 「ルギド、さきほどの軍議で――」 広間に飛び込んだエリアルの目に映ったのは、まるで自分の領土を眺めて悦に入る王のように、帝国領地図の前に立っているルギドの姿だった。 近づくと、まさに先ほどの軍議で報告されたばかりの地点に赤いピンが移動している。 「……なぜ、そこが現在戦闘中の海域だとわかった?」 「あ? これのことか」 ルギドは、長い爪の先でピンをはじきながら、とぼけた声を出した。「邪魔だから、少し動かしただけだ。他意はない」 エリアルは身震いをおさえた。 皇帝名代である彼女より先に、帝国内で起こるすべてのことを、この男は知り尽くしているのだろうか。そう考えると、突然の怖気が襲ってきたのだ。 「帝国艦隊200隻、テアテラ艦隊150隻が、トスコビの北方500キロメートルの海上で激突した。【内海】の覇権を、ひいては戦争全体を左右する海戦になることは間違いない」 「ふむ」 ルギドはマントをひるがえすと、広間の中央に立った。高いドームから射し込む日光が分解され、全身が蒼く光っているように見えた。 「そろそろ、頃合いだな」 険しいまなざしが、瞬時に皇女を射た。「明朝、テアテラに向けて出発する」 「私は、今パロスを動けない」 エリアルはかたくなに否んだ。 「帝国の運命を決する戦いの途中なのだ。万が一のことでもあれば、一分一秒でも素早い対処が必要となろう。皇帝名代の私が、今ここを離れるわけにはいかない」 「その心配は無用だ。帝国は必ず勝つ」 ルギドは、至極当然といったゆったりとした調子で答えた。 「勝敗の決まった退屈な戦争など、年寄りどもにまかせておけばよい。全ティトスの目が、【内海】に釘付けになっている。テアテラに潜入するとしたら今しかないのだ」 「わたしも、その意見に賛成です」 ジュスタンが言った。 「テアテラ国境の警備は、並大抵のものではありません。このたびの海戦によって、テアテラ側に針の先ほどのわずかな隙が生じるとすれば、それを見逃してはなりません」 「だが、おまえは二年前、その鉄壁の警備の中で国境を抜けて来たんだろ?」 ラディクが、狙いすましたような横槍を入れる。 「……だからこそ、そう言えるのです」 ジュスタンは感情を交えずに、説明を続けた。 「奴らの内部にいて当時の実情を知り尽くしていたはずのわたしさえ、追手を撒くことができませんでした。最後は山越えの途中でわざと雪崩に巻き込まれ、首の皮一枚で命をつないだのです。逆のルートをたどることは不可能です。第一、結界に触れるだけで黒焦げになってしまう」 「じゃあ、どうするつもりだ」 「結界に触れずに、テアテラ領内に入り込む方法がひとつだけあります。地下の洞窟を通るのです」 「そんな方法があるなら、なぜ二年前そこを使わなかった?」 「強力な【召喚獣】がいるのです」 「ショウカンジュウ?」 「わたしたちはそう呼んでいます。ドラゴンたちと同様、古代ティトス帝国以前に地上に君臨し、滅びたものたちだと言われていますが、確かなことはわかりません。テアテラの先代の魔導士たちがそれを長い眠りから目覚めさせて、要害の守護のために放っているのです」 「……」 ルギドは考え込むように、視線を宙の一点に定めている。 「召喚獣は、わたしひとりの手で倒せる相手ではありません」 ジュスタンは、灰色の瞳を伏せた。 「みなさんの力が必要です。お願いします。――わが祖国を救ってください」 彼らがふたたび【翠石宮】に集ったのは、次の日の夜明けだった。 「北行きの汽車が7時に発車予定です。偽名で切符を手配しておきました」 ジュスタンが報告し、皇女の顔を見て口をつぐんだ。 「姫さま。ゆうべは徹夜されたのではありませんか」 「しなければならない仕事を、出発までにすませておきたかったのだ」 エリアルは熱っぽい瞼を手でそっと押さえた。「大丈夫だ、車中で寝られる」 「では行くぞ」 ルギドの号令で、彼らは宮殿の外に出た。中庭を抜けたとき、通用門の前に近衛兵がずらりと並んで待ち構えていた。 「しまった。勘づかれたか」 エリアルは、蒼白になって立ち止まった。 「姫さま。どこへ行かれるのです。どうも昨日からご様子がおかしいと思っておりましたら」 侍従長が隊列を背に、噛みつきそうな剣幕で叫んでいる。 「待て、侍従長。これには訳がある」 「またおかしな者たちと示し合わせて、どこかへ行かれようというのですか。絶対になりません、この非常時に」 「すまない。ルギド」 エリアルはおぼつかない声で言った。「私を置いて、先に行ってくれ。後から必ず追いつく」 「チ、面倒くさい」 ルギドはつぶやくと、いきなり軽々とエリアルを肩に背負い上げた。 そして、槍を十字に組んで阻もうとする近衛兵たちの隙間を、信じられない速度ですり抜けた。 その煽りでバランスを崩した兵のひとりの背中を足台に、ラディクが身軽に跳躍した。次いでジュスタンが、杖を水平に突き出し、左右にせまる兵を押しのける。 四人は、霧がひたひたと流れるパロスの石畳の坂道を駆け抜けた。 「放せ、放して。自分で走る」 真っ赤に頬を染め、背中を叩くエリアルの抗議を、ルギドは笑いながら当然のように無視した。 朝の市が立ち始めた大通りを横切ると、駅が坂の下に見えてくる。 蒸気機関車がしゅうしゅうと白い煙をあげて停まり、プラットホームはちらほらと乗客でにぎわい始めていた。 列車の一等車に飛び込む。ラディクひとりだけが、そのまま最前列まで走り、機関室によじのぼった。 「今すぐ、発車しろ」 「え、無理です。発車時間まで、まだあと――」 「つべこべ言わず、今すぐ出すんだよ!」 ナイフを抜いて、ひとりの首に後ろから押し当てると、機関士たちは「ひゃ」という悲鳴を上げた。 「わ、わかりました」 汽笛が鳴り響き、車体の左右から白い蒸気が噴出した。 離れ始めたプラットホームを振り返ると、乗り損ねた乗客たちの列に、駆けつけたばかりの近衛隊が加わり、ぼう然と汽車を見送っていた。 車両に戻ると、吟遊詩人は仲間たちと顔を見合わせて、にやりと笑った。 「俺たち、とうとう皇女誘拐犯になっちまったな」 |