新ティトス戦記 Chapter 11 |
「ルギドさま」 ゼルのつぶらな瞳は、ぽとぽとと大粒の雫を落として、この洞窟の水量を増やしていた。そのあいだも、翼は休むことなくずっと、主君の顔に向かって柔らかい風を送っている。 水の上にうずくまり、長い髪をしとどに濡らした魔族は、ようやく顔を上げた。だが、瞼を押し開く気力はまだないようだった。 「すまぬ」 ひどく掠れてはいたが、確かな声だった。「もうだいじょうぶだ」 「無理をするな。少し休んだほうがいい」 エリアルは片膝をつき、彼の腕にそっと触れた。 「ルギド、あなたは……」 ルギドは岩壁にもたれると、もうひととき大きく呼吸をした。 「ああ。封印を解くのが――早すぎた」 「……やはり、そうなのか」 「全生命を破壊し尽くそうとする畏王の欲望は、この体の中に封じ込められている千年のあいだに薄まりつつあった。だが完全に消えることはなかった」 彼は細く目を開け、紅い瞳でひたすら自分の内にある闇を見つめた。 「【イリブル】の封印の力がなくなった今、俺は魔力の大半を使って、畏王を封じ込めている。だが、ほんの少しでも魔力を戦いに割けば、その隙に畏王がこの体を乗っ取ろうと暴れ始める。さっきのように」 「私たちも、そのことを恐れていたのだ」 エリアルが、ぼとぼとと衣服から水滴を垂らしながら、立ち上がった。 「【イリブル】を解呪するとき、さんざん迷った。吉か凶か。もし凶と出て、畏王の封印まで解いてしまったら、ティトスは終わりだ。だが、あのときの我らには、吉の方に賭けるしか残された道はなかった。――私の考えが甘かった」 「そう落胆するものでもない」 ルギドは、せいいっぱいの虚勢を張って微笑んだ。 「魔力を使わぬかぎり、確実に畏王を封じ込めていることはできる。その代わり、俺はよほどのことがない限り、戦闘には参加できぬと思ってくれ。レイアとの戦いにすべてを注ぎ込みたい。やつは魔力の光球を使いこなすと聞いた。俺とて、同じ武器でなければ倒すことは難しいだろう」 皇女は黙ってうなずいた。 ルギドは次に、黒魔導士に向いた。 「ジュスタン」 「はい」 「レイアは必ず、俺の手で倒す。だが、その戦いが終われば一刻も躊躇せず、この剣に【イリブル】をかけて、俺をふたたび封印してほしい。俺が魔力を消耗しきったときにこそ、畏王は復活を狙ってくるはずだ」 「……」 「つまらぬ【禁呪】など唱えるなよ。おまえも、すべての魔法力を【イリブル】のために温存してくれ」 「わかりました」 「――頼りにしている」 ルギドはふたたび瞼を閉じると、すぐに深い眠りに陥った。精魂尽き果てていたのだろう。 「ルギドさまとせっかくお会いできたというのに、また封印されておしまいになるなんて」 ゼルがむせび泣く声だけが、水の洞窟に木霊した。 「くそっ」 ラディクは、ぬめぬめした岩肌に拳を叩きつけた。 腹が立ってならない。自分はいったい、何のためにルギドを海の底から解き放ったのだろう。 人間を縛る短い生や、死の恐怖、人を愛する苦しみからひとり逃れた孤高の存在。すべての者を従えて超然と立つ彼が見られるはずだった。それなのに。 目覚めたルギドが味わっているのは、永遠の苦痛ではないか。千年の孤独。自分が自分でなくなる恐怖。 それだけではない。レイアとの戦いにおいて、さらなる絶望が彼を苦しめることになるのだ。 「ラディク。話がある」 エリアルが、背後から固い声で彼を呼んだ。 「なんだよ」 「ルギドの話を聞いただろう。私たちはこれから敵地テアテラ領の只中で、彼の助けなしに戦うことになる」 「……」 「おまえまで巻き込んでしまったことをすまなく思う。だが今だけ、私たちに協力してはくれないか。三人で心をひとつにしないと勝てない戦いだ。状況によっては、心ならずも私の命令を聞いてもらうことも起こるだろう。そのときは、従ってくれ――私の命令では心もとないだろうが、それを承知の上で頼みたい」 「……また、皇女さまのうるわしきご配慮ってやつか」 「え?」 「俺が戦うのは、自分が生き残るためだ。そのためなら何にだって従ってやる。たとえ悪魔の命令でも」 エリアルは、自分に向けられた冷たい炎の瞳を見て、ぞくっとする。 「おまえはせいぜい、へとへとになるまでまわりに慈悲を与えているがいい。ぶっ倒れても、誰かがやさしく受け止めて介抱してくれるからな。だが、俺は違う。自分で自分のことを考えなきゃ、誰も考えてくれるヤツはいないんだよ」 言い捨てると、ラディクは洞窟の隅に行って、壁のくぼみに身を横たえた。 残されたエリアルは悄然と立ち尽くした。まるで八つ当たりだ。ラディクが彼女に向かって叩きつけてくる謂れのない憎悪は、いったい何ゆえなのだろう。 「姫さま」 黒魔導士が近づいてきた。 「夜まで少しでもお休みください。向こうに乾いた寝床を作っておきました」 「ああ」 疲れを見せぬように、皇女は答えた。 今日はあたりが暗くなるまで洞窟内で待って――といっても、地下では、懐中時計しか夜の訪れを告げるものはないが――それから、テアテラ領内に侵入する計画になっている。 「いよいよテアテラだな」 「はい」 ジュスタンは昏い表情をしてうつむいたが、すぐに顔を上げた。 「わたしには自信がありません。レイアとふたたび会ったとき、取り乱すかもしれません」 「……」 「それでも勝ちたい。自分の気持に訣別したいのです。そばにいて、わたしを助けてください。それができるのはエリアルさましかおられません」 「……うん」 ゆっくりとうなずく。 男というものは、ときに残酷だ。 「そばにいてほしい」と言われるのと、「忘れたいのに忘れられない」と言われるのと、どちらに強い想いを感じるのか考えてもいないのだろう。 「わかった」 エリアルは泣きたい思いを切り捨てて、こわばった微笑を彼にそそいだ。 「ともに、全力を尽くそう」 「帰ってきたわ」 退屈そうに座っていた女王は、玉座から滑り降りるように立ち上がった。 「誰が、ですか」 「あら、ジュスタンよ。決まってるでしょう」 彼女は快活に笑い、くるりと回る。その拍子に、長い黒髪がふわりと風をはらんだ。 「国境を越えて、こちらに向かっている。ジュスタンのことは、どこにいたってわかるわ」 広間の鏡のような床の上で、白いドレスの少女はほっそりとした長い腕を伸ばしてクルクルと踊った。濃緑のローブをまとった魔導士は、玉座のそばに立ったまま無表情に彼女を見つめている。 「でも」 ぴたっと体を止める。 「そのそばにいる大きい男は誰だろう」 「大きい男?」 「背が高くて、強くて、けたはずれの魔力を持つ男」 「魔力……」 魔導士は、ジュスタンそっくりの灰色の瞳を伏せた。「まさか……」 「いいわ、私が確かめてくる」 「レイアさま!」 彼は鋭い声を出して、広間を出て行こうとする女王を呼び止めた。 「余計なことに気をそらしてはなりません。今は全軍一丸となって、ベアト海の海戦に集中しているときなのです」 「私に指図する気?」 レイアは、腰に手を当てながら戻ってきた。大きな黒い瞳に、残酷な光が宿っている。 顔をそむけた。彼女を見てしまえば、その意志に逆らえないのはわかりきっている。 柔らかい唇が、首筋に触れた。思わず目をつぶると、血のように赤い世界が瞼の裏に見える。 少女は顔を上げると、くすくすと笑った。 「いいわ。あなたの言うことを聞いてあげる。ユーグ」 皇女一行は、真夜中に洞窟を抜けて地上に出たあと、慎重に樹木の陰にひそみながら回りの様子をうかがった。幸いにも国境警備は手薄で、発見されることはなかった。テアテラ軍もやはり、海戦のために多くの人手を割かれているのかもしれない。 闇にまぎれて山中を歩き、夜が明ける頃、谷底に貧寒とした村を見つけた。 用意してきた魔導士のローブに身を包んだラディクが単身、偵察に出かけた。ジュスタンのほうが事情は詳しいだろうが、彼の容貌を知っている者に、いつどこで出会うかわからない。 「馬を手に入れるのはムリだな。一頭の家畜も見かけなかった」 数時間して、ラディクは憮然とした表情で戻ってきて、報告した。「村人の数も少ないし、子どもはみな痩せこけてる」 谷の上から木立を透かして見える家々は、遠目には瀟洒なレンガ造りだが、よく見るとボロボロに壊れかけているものもあった。 「馬をなんとかして調達しなければ、テアテラの王都まで徒歩で行くのはつらいな」 エリアルは寒さに震えながら、ローブの前を掻き合わせる。雪の残る山間の道を夜通し歩いてきたため、体が芯から冷え切っていた。 「もう十数キロ行けば、次の村があります。そこまで行くしかないでしょう」 「十数キロか……」 一行は疲れた体に鞭打って、谷に並行して、尾根伝いに歩き始めた。 朝もやが次第に晴れていく谷を見下ろすと、近くにある雑木林から、ひとむらの白い煙が立ち昇っているのが見える。 「あの煙は何でしょう」 主君の肩の上で歯の根をがちがち言わせながら、ゼルが訊ねた。 「温泉があるのです」 ジュスタンが答えた。 「この村は昔は、有名な湯治場でした。レンガ造りの建物は、保養所の名残。今でも豊富な量の湯が沸いているはずです」 「温泉か」 彼らは、そのことばの甘美な響きに、ほうっと吐息を漏らした。 「気持良いだろうな」 「暖まりそうだ」 「それはもう。このあたりは特にカルシウム成分が多く、傷や疲労回復に効果があると言われています」 「入りたいですぅ。なんたって魔族は寒さが天敵なんですから」 「よし、入っていくぞ」 ルギドが、こともなげに言い放った。 「えーっ」 一同の驚きの声を尻目に、「きゃあ、うれしい」と羽を打ち合わせて喜ぶゼルとともに、さっさと斜面を下っていく。 「そんな……」 エリアルとジュスタンは、途方に暮れて顔を見合わせた。 「どうする?」 「おひとりで行かせるわけにも、いきませんし……」 「お、おい、待てよ!」 嬉々として後を追いかけていく隊列の最後尾で、ラディクひとりが呆れたように怒鳴った。 「おまえら、何を考えてるんだ。ここ、敵地のど真ん中なんだぞ!」 冬枯れの木々に囲まれた露天風呂は、崩れかけているとはいえ、しっかりとした石組みで造られ、女性用と男性用の浴場がそれぞれ高い組垣で囲ってあった。 「うーん、最高」 ゼルは水面の枯葉を巧みに避けながら、ぷかぷかと満足げに漂っている。 「戦争がなければ、ここはさぞいい保養地になるだろうに」 エリアルは、金色の髪をゆったりと湯の中に広げながら、明るい青に染まり始めた朝の空をながめた。 「少し宣伝すれば、帝国中からどっと人が押し寄せる。鉄道をここまで敷設するには、かなりの資金が要るな。トンネルが最大の難工事になるだろうが、それさえ技術的に可能ならば……」 「もう、エリアルさんたら」 ゼルは水面をばしゃばしゃ叩いて、皇女の顔に飛沫をかけた。 「せっかく温泉でくつろいでいるというのに、こういうときくらいお仕事のことを忘れちゃいなさいな」 「あ、ああ」 「背中を流してさしあげますね」 ゼルはエリアルの背後に回ると、薄い羽を使って背中をこすり始めた。 「テアテラとの戦い、どうなるんでしょうね」 「そうだな」 「きっとレイアなんて女、弱いに決まってます。だから、おいらたちだけでさっさとやっつけて、ルギドさまがもう二度と封印に戻らなくてすむようにすればいいんです」 「うん……」 エリアルは顎を湯の中に沈めて、こっくりとうなずく。 ルギドの封印を解いた自分の決断に、強い責任を感じていた。ゼルの言うとおり、このまま封印の闇に戻らずにいてほしい。彼がパロスの政治に影から関わってくれれば、新ティトス帝国はあるべき理想の姿に戻れるような気がする。 「エリアルさんは、ルギドさまのお妃になられるつもりですか?」 「え?」 物思いに耽っていたエリアルは、ゼルの突拍子もないことばに思わず湯を飲み込んでしまった。 「……ゼルこそ、ルギドの妃になりたいのだろう」 「いいんです。おいらは第三夫人か第四夫人でじゅうぶん。高望みはしませんから」 「ルギドと……私が? そんなことは考えたこともなかった」 エリアルは、思わず目のふちを赤く染めた。 「だって、お似合いだと思いますよ。第一皇女と魔族の王子が結婚すれば、新ティトス帝国は磐石の態勢。万々歳じゃありませんか」 そうか。エリアルはつぶやいた。ルギドとの婚姻によって帝国の基礎を固める。私はそういうことも考えねばならない立場だったのか。 「でも」 ゼルは、皇女の肩から腕にかけて、ゆっくりと擦って行く。 「ルギドさまには、アローテさまという寵妃がおられましたから。亡くなられたとは言え、まだ愛していらっしゃるのでしょうねえ」 「そうだな」 「じゃあ、代わりにジュスタンさんはどうです?」 ゼルはにんまりと笑って、エリアルの目を覗き込んだ。 「ジュスタンさんも、すっごく見目麗しいじゃないですか。背も高いし。そりゃルギドさまに比べたら、天と地ですけど。気がつけばいつもエリアルさんを見てるし、きっと惚れてるんですよ」 「あ、あの、彼は」 内心の動揺を隠しおおせようと、エリアルはむなしい努力をした。「私の臣下ゆえ、いつも命令を待って私を見ているのは当たり前だ」 「じゃあ、ラディクさんにします?」 ゼルは、溜め息をついて首を振った。「やっぱだめですよね。まだ頭の中身がガキですからね。あと二、三年すれば、いい男になるかもしれないけど」 エリアルは思わず、笑い出した。 「仲間になって、そう日が経っていないのに、よく観察しているんだな。ゼルは」 「そりゃあ。男の品定めは女の本能です。いい男は、おいらにとって心の栄養ですから!」 「ゼル。『おいら』というのは、女性のことばとしてはよくない。できれば、やめたほうがいいな」 「自分でもそう思うんですけど、癖なんですよね」 ゼルはエリアルの脇の下を洗おうとして、まじまじと彼女の胸に目をやった。 「きゃっ。エリアルさんて……服の上からじゃわからなかったけど、巨乳なんだぁ」 「あははは。ゼルったら、くすぐったい!」 垣根の向こうから、女性たちの笑い声が聞こえてくる。 「あんなに楽しそうな姫さまは、はじめてです」 ジュスタンは、風呂の縁石にゆったりと首を預けながら、大きな吐息をついた。 「テアテラに入ってから、わたしたちは必要以上に緊張しすぎていました。その緊張をほぐそうと、ここに連れて来てくださったのですね。ティエン・ルギド」 「[イオ・エルハ]の粘液のせいで、体中が気持悪かったしな」 ルギドは石に腰かけて、恵まれた体躯を惜しげもなくさらしていた。 「ユツビ村に行ったときも、必ず温泉につかった。あそこも良い湯だったな」 「はい、ユツビ村の湯は炭酸泉で体がよく温まるのです。今でも大きな湯治場があります」 「そういえば、ギュスターヴの奴があそこの女風呂をのぞいた罰で、村中引き回しの刑にあったと言っていたな」 「……うそ」 「本人から聞いたのだから、間違いない」 ルギドは、底意地の悪い笑みに頬をゆるませた。 「おまえは、ギュスターヴに関する憧れを少し改めたほうがいいぞ。でないと、先祖に自分の生きかたを縛られることになる。ギュスターヴもアシュレイも、女に欲情もすれば酒で失敗もする、ごく普通の人間だった。おまえたちと何も違いはない」 「でも、ギュスターヴは少なくとも晩年は、神のような人でした」 ジュスタンはむきになって反論した。 「多くの研究をなし、忘れ去られていた古代魔法さえ復活させ、そして最後には――」 そして麦の穂が垂れるように、そのまま口をつぐんだ。 「それも、【大魔導士の書】とやらに書かれた、後世の誇大な言い伝えだろう」 「いえ、そのことは、【リグの書】に書かれていたのです」 「【リグの書】?」 「ギュスターヴの奥方リグが編纂した、彼の書簡や自筆の走り書きを集めたものです。たった一冊しかなく、代々彼らの子孫であるカレル家の血を継ぐ者にしか見ることが許されていません」 「ふん」 ジュスタンの苦しげな表情を見て、ルギドは目を細めた。 唐突に、記憶の底にリグの必死に叫ぶ声が響いてきたのだ。 『ギュスは、もう口がきけないの。でも、ずっと泣いてる。「俺のしたことは間違っていたのかもしれない」って。お願い。何も聞かずに、枕元に立って「赦す」と言ってあげて』 テアテラ領内に入ってから、もやもやとわだかまるものが胸を焦がしている。何かの予感。とてつもなく恐ろしい運命が訪れようとしている。 それを振り払うため、注意をほかに逸らそうとした。 露天風呂の向こうの端、一行の脱ぎ捨てた武具や荷物のそばで、ラディクが寒さに震えながらうずくまっている。 「だいたい、敵の只中で素っ裸になって、襲われたらどうするんだ。暢気に湯になんかつかってる、おまえらの気がしれねえ」 「ジュスタン、手伝え」 魔族は笑いを殺しながら、そばの黒魔導士にそっと耳打ちした。 「ラディク」 湯から上がると、ルギドはゆっくりと彼の背後から近づいた。 「おまえは、そんなに疑り深いから目つきが悪くなるのだぞ」 「余計なお世話だ」 「偉大な先祖の忠告は聞くものだ」 愉快そうに言うと、ルギドはいきなりラディクの背中を蹴飛ばした。それと機を一にして、ジュスタンが湯の中から飛び上がり、引きずり込む。 「わあっ!」 ラディクはあえなく服のまま、温泉にころがり落ちた。 |