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The New Chronicles of Thitos

新ティトス戦記


Chapter 12



 一同はほどなく行軍を再開した。
 温泉で体をゆっくり温めたおかげで、ローブさえ吹き上げるほどの寒風も、それほどつらくは感じない。
 谷を出たところで、さきほどよりは少しましな村に出くわしたが、それでも民家は茅葺きや芝土屋根の粗末なものばかり。人気のない通りを歩く犬も、あばら骨が浮いて見えた。
「ライ麦や雑穀しか取れない厳寒の国が、80年も鎖国をしたらどうなるか、わかりきったことです」
 ジュスタンが苦々しくことばを吐き出した。
「辺境の民は、おなかいっぱい食べたという経験すらないでしょう。私はパロスの宮殿に来て、晩餐の皿からこぼれるほどの白い小麦のパンを見て、涙が出ました。テアテラは、戦って自分の糧を勝ち取るしか生き残る道のない国なのです」
「軍に入れば、食べることができる。そうやって若者が戦いに駆り立てられていくのだな」
 エリアルがつぶやく。
「それにしても、どうやって馬を手に入れたものか」
 ルギドが言った。肩にとまったゼルが爪で丁寧に銀の髪を梳いているのに、その反対側から、わしゃわしゃと髪をもつれさせている。
「この村にも、馬用の囲いはなさそうですね」
 と言うジュスタンをちらりと見ると、ルギドはラディクに向かって爪をパチンと鳴らし、手招きした。
「俺は、おまえの召使じゃねえぞ」
「この中で一番よく通る声を持っているのは、おまえだ」
 彼がなにごとか知恵をさずけると、ラディクは意外にもあっさりうなずいて、村の人気のない四つ辻に歩いていくと、大きく息を吸った。
「兵隊を呼べーっ。女王陛下を裏切ったお尋ね者ジュスタンが、この村に入り込んでいるぞ!」
「ええっ」
 ジュスタンはぼう然として、持っていた杖を取り落としそうになった。
 尋常でない叫びを聞きつけて、ばらばらと家から住民が飛び出してくる。
「あいつだ、あの青いローブを来たヤツ。お尋ね者を捕まえれば、王宮からたんまりと褒美が出ると言うぞ」
 黒魔導士を指差し、ラディクはますます騒ぎ立てた。
「うそ……でしょう?」
「さあ、ジュスタン。そろそろ逃げたほうがいいぞ」
 ルギドが平然と言ってのけた。
「あ、それからひとつ言っておく。魔法は禁止だからな」


 ジュスタンはがっくりと両手と両膝を地面について、あえいでいた。
 制服姿の下級兵士たちが三人、草むらの中に倒れている。さらにその傍らには、彼らの乗っていた馬が三頭。
「予想外に、うまく行ったじゃないか」
「冗談じゃあり……」
 抗議の叫びを上げそこね、激しく咳き込む。
 無理もない。小一時間というもの山道を走り続け、大勢の追手をようやく振り切ったと思ったら、知らせを受けて街道筋から駆けつけてきた騎馬兵三人と出くわし、たった今まで彼らの槍相手に、死闘を演じていたのだから。
 テアテラでも、すべての志願者が魔導士になれるわけではない。魔法の素質のない者は、こうして兵士となって、王宮や国境、村や都市の警備に充てられているのだ。
「別に俺が魔法を禁じたからと言って、その通りにする必要はないのに。律儀なヤツだ」
 ルギドが涼しい顔をして言うが、ジュスタンにはもう答える気力さえない。
 三人のテアテラ兵は、怪我をしているものの致命傷ではない。ラディクがその体を足で蹴って、道のわきにころがした。「運が良けりゃ、誰かが見つけるだろう」
 乗り手を失った馬を、ゼルがぱたぱたと飛び回りながら集め、手綱を引いてきた。
「あれ、でも三頭しか馬がありませんよ」
 ルギドとラディクは、それぞれ一頭ずつ馬を渡され、最後に残ったエリアルとジュスタンは同じ馬に乗ることになった。ジュスタンの腕の中にすっぽり包まれたエリアルは、野原を駆けてきた幼い少女のように頬を染めている。ゼルはそんな彼女を見て、にんまりとほくそ笑んだ。
「で、今からどこを目指すんだ?」
 ラディクが訊いた。
「『炎の頂』です」
 ジュスタンが答えた。「千年前まで活火山でしたが、今は活動を止めています。そのふもとに、魔族だけの村があるのです」
「魔族の村?」
「はい、王都に向かう前に、どうしても寄っておかねばなりません」
 テアテラは、平地の乏しい山国である。暖流の影響で、西の海岸に近い地域は比較的暖かいが、東の山岳地帯は氷と雪に覆われ、森はまだ暗い真冬の色に沈んでいる。
 旅は困難だが、それだけ人に会う恐れも少ないと言えた。
 夜が訪れ、彼らは岩陰に陣取り、ジュスタンの作った結界の中で身を寄せ合うようにして、二度目の野宿をした。
「おまえは、剣を誰から教わった?」
 食後、ルギドはまじまじとジュスタンを見つめながら訊ねた。
「……レイアです」
 彼の赤茶色の髪は、焚き火に照らされるといっそう燃えるような色になった。
「レイアとわたしは幼い頃、よくふたりで剣の稽古をしました。彼女が、剣の持ち方を教えてくれたのです」
「レイアは誰から?」
「わかりません」
 笑顔とも泣き顔ともつかぬ曖昧な表情で、ジュスタンは首を振った。心の中ではひとつの光景が浮かび上がっている。宮殿の長い冬の夜、ふたりは毛織物にくるまれ、体を寄り添わせて、炉ばたに座っていた。
『むかし、ずっと昔、剣はそうやって持つんだよって、だれかが教えてくれたの。だれかは忘れたけど』
 幼いレイアは舌足らずな声で、そう言って笑った。
 そして、ジュスタンが呪文で熾した暖炉の火を、うれしそうに見やった。
『ジュスタンの作ってくれた火は暖かい。とても、やさしい色』
 と褒めてくれた。
 だから自分は今でも炎の魔法を真っ先に唱えてしまうのかもしれない、と思う。
 思い出に閉じこもる彼を、隣にいるエリアルがいたたまれぬ表情で見つめている。
 ルギドはゆっくりと黒い鞘から刀身を抜いた。
「こっちへ来い」
「【魔法剣】を、教えてくださるのですか?」
 魔族の剣士は、ジュスタンに剣の柄先をしっかりと握らせると、その上から水かきのある大きな手をかぶせた。
「一番弱い氷結魔法を唱えろ」
「はい」
 魔導士の口から、細い針のような呪文のことばが紡ぎだされる。それを受けて、黒い刀身が蒼く光った。剣全体が鼓動するように震え、きらきらと細かい霧のように、氷の粒が舞った。
「クッ――」
「感じたか?」
「……感じます」
 ルギドは剣を軽く翻して、かかっていた魔法を解くと、柄をジュスタンに差し出した。
「今度は、ひとりでやってみろ」
 ジュスタンは剣を両手で握り、同じことを繰り返したが、今度は刀身は光らなかった。
「……だめです」
「俺も最初は失敗した。焦ることはない」
「はい」
「焦るなだと?」
 隅で傍観していたラディクは、誰にも聞こえぬように毛布の中でつぶやいた。「本当はあんた自身が、誰よりも一番焦ってるんだろうが」


 さらに一日と一晩馬を進め、目指していた【炎の頂】に着いたのは、太陽が山の端から昇る頃だった。
 かつては、テアテラ中から見えるほど盛んに白煙を上げ、赤くたぎる溶岩をしたたらせていた山は、千年前に守護者を失ってからは、すっかり活動を止め、冷えてごつごつした岩肌をむき出しにしていた。
 麓には、周囲を高い木の塀で囲まれた大きな村があった。
 高い木の門の前で手綱をしぼり、馬から下りるとジュスタンが言った。
「まず族長に話をつけます。門衛の砲弾が届かぬほどの距離で待っていてください」
 頭からフードをはずすと、彼は途中で折り取った常緑樹の枝を、休戦のしるしに片手に高く掲げて、単身近づいた。そして、見張り台から下を覗いている門番に向かって、叫んだ。
「族長エグラ殿にお目通りを願いたい。ジュスタン・カレルが来たと伝えてください」
 かなりの時間が経ったあと、分厚い門がきしんで、一人がやっと通れるだけの隙間が開いた。
「ジュスタン・カレルとはな。珍しい客人が来たものだ」
 大声を上げて中から現れたのは、【炎の頂】の岩を切り取ったような肌をした巨躯の魔族だった。
「お久しぶりです。族長殿」
 丁重に頭を下げるジュスタンに、彼は嘲るように鼻を鳴らした。
「で、祖国を裏切った宮廷魔導士が、何の用かな」
「お引き合わせしたい方がおられます」
 族長はジュスタンの背後に目をやり、肩に使い魔を乗せた銀髪の魔族を見て驚愕したようだったが、すぐに固い声で答えた。
「話だけは聞こう。中に」
 彼の合図で門が大きく開け放たれた。サンザシで組んだ矢来がどかされると、その向こうには、芝土で壁を塗られた木の小屋が、見渡すかぎり整然と並んでいる。
 その背景にある山の中腹には、いくつもの横穴がうがたれ、遠くから見るとまるで蜂の巣のようだった。
 エグラが、王子に対するにしてはあまりにもぞんざいなお辞儀しかしなかったため、ルギドはとたんに不機嫌になった。
 彼らは馬を取り上げられると、すぐに左右を武装した兵士にはさまれ、族長の先導で両側に小屋の並ぶ通りを徒歩で行進し始めた。
 まだ早朝なのに、魔族の民は大きなわら束や木箱を抱えて、忙しそうに立ち働いている。そのほとんどが族長と同じ【火棲族】らしいが、長い年月にわたる混血のせいか容貌はさまざまだった。外界の客が族長に率いられてくると、彼らはぎょっとしたように立ち止まり、不安げな面持ちで互いを見交わした。
「このたくさんの小屋は何なんだ?」
 漂ってくる強烈な臭気に顔をしかめながら、ラディクが訊ねた。「人が住んでるわけじゃなさそうだが」
「家畜を飼っておる」
 先頭を行く族長が、振り向きもせずに答えた。
「この小屋が全部?」
「食用のためではありません」
 ジュスタンが代わりに説明した。「ここの目的は、硝石の採取です」
「硝石?」
「あの【火薬】とやらの原料か」
「はい。芝土と草で作った壁に家畜の糞尿をしみこませて発酵させ、硝石を作り出すのです。ここと合わせて4つの魔族の村で、全テアテラで使われる火薬のすべてがまかなわれています」
「硝石だったら、おいらも生まれ育ったデルフィアで見たことがあります」
 ゼルが、ルギドの肩でふわりと翼を広げた。「でもあそこでは、地面を掘って採取していましたよ」
「ラダイ大陸やサキニ大陸のような乾燥地域には、天然に硝石が存在します。でも、テアテラのような北国では、人工的に作り出すしかないのです」
「家畜小屋というより、軍需工場というわけだ」
 エリアルは、唇を噛んだ。「これだけの家畜のためには、餌として大量の穀物や野菜を消費する。その食糧を民へ優先して回したら、飢える者は大幅に減るだろうに」
「で、こっちのみすぼらしい洞窟のほうが、魔族の住処ってわけか」
 無礼な口をきいたラディクを、エグラはじろりと睨んだ。
「みすぼらしくなぞない。この洞窟群は【火棲族】にとって、地脈の力と地熱を利用することのできる、絶好の場所なのだ」
 と言いながら、族長は洞窟の前に渡された木の足場をのしのしと登っていく。三階ほども昇ったところで、ひとつの広い入り口から中に入った。
 そこは思ったより広く、広間と言ってもよいほどであり、エグラの言った地熱のおかげか、驚くほど暖かだった。
 岩を掘り出した大テーブルの回りに、十数人の火棲族が座っていた。
「わが村の長老たちを、急ぎ召集しておいた」
「感謝します」
 ジュスタンは、彼らの前で一礼して立った。
「わたしは、前の摂政クロード・カレルの息子ジュスタンです。横にいるのは、吟遊詩人のラディクとエマ」
 敵国テアテラで帝国の第一皇女だということがバレては、ただではすまない。【エマ】というのは、そんなときに日ごろ用いている偽名だった。
「そして、そのうしろにおられるのが、ティエン・ルギド。そして従者ゼルです」
 居並ぶ魔族たちの間に、ざわめきが走った。
 そして、天井の低い洞窟の中に入ってきた堂々たる長躯に、彼らはそのざわめきさえも喉の奥に飲み込んだ。
「お座りください、魔族の王子よ」
 族長エグラは、重々しい声で言った。
「あなたが千年の眠りから目覚められたことを、わたしどもはついさっきまで知らなかった。考えをまとめる時間をいただきたい」
 ルギドは求めに応じて彼らの正面の長椅子に腰かけた。黒い鞘入りの剣を杖のように持ち、もう片方の手で顎を支え、族長を真正面から見据えた。
「おまえは、鍛冶屋オブラの血縁だな」
「ほう、すでに兄にお会いになったか」
「どうして、わかったのです?」
 ジュスタンが面くらいながら、ルギドに問うた。
「あたりまえだ、顔が瓜二つだからな」
「……そうですか」
 魔導士は少し決まり悪げに言った。今までふたりが似ているなどとは思いもしなかった。人間には、岩を固めたような火棲族の顔形は、ほとんど区別がつかないからだ。
「百年このかた、兄には会っておらん」
 吐き出すように、エグラは言った。
「魔族は本来、地脈の流れに寄り添い、森や大地の魔を吸って生きるもの。それなのに、根こそぎ森を切り倒し、焼き、土も空気も毒に変えてしまう帝国の人間どもに服従する奴など、兄と思いたくもない」
「いずこも、兄弟というのは仲が悪いようだな」
 ラディクはジュスタンの背中に、聞こえよがしにつぶやいた。
「テアテラ女王レイアさまは、そんな我々に生きる標(しるべ)を与えてくだされた。機械を打ち壊し、ふたたび大地に魔を取り戻すために戦うとおっしゃってくださった。
ルギドさま。千年も眠っておいでだったあなたは、なにもご存じない。今我々魔族を導いてくださっているのは、レイアさまなのだ」
「だから、俺には従えぬと申すのか」
 ルギドは静かに言ったが、その声の底は明らかに憤怒の色に染まっていた。
「それはあなたの出方次第だ。レイアさまにお会いになり、テアテラに与し、ともに帝国と戦うと誓っていただけるのなら、我々はいつでも、あなたに命をささげましょう」
「俺に、レイアに頭を下げろと?」
「魔族の大義に従っていただくのだ。そうでなければ、ティエン・ルギドといえど偽りの王。魔族にとって遠い過去の存在となろう」
 おそろしい沈黙が洞窟の中を満たし、破裂せんばかりになった。
 ルギドはゆっくりと口を開いた。
「魔族の王子の誇りにかけて、そんなことをするつもりはない」
「では、交渉は決裂ですな」
 エグラは予期していたとばかりに、すっくと立ち上がった。
「魔族の慣わしに従い、旅人には一杯の酒と食事のもてなしをいたそう。しかし、それが終われば、すみやかに立ち去っていただきたい」


 洞窟の内部には、部屋と部屋とを連結する通路が網の目のように掘られ、互いに自由に行き来できるように造られている。住居そのものが、さしずめ要塞となっているのだ。
 長老たちとの会見のあと彼らが通された部屋は、通路の奥の行き止まりにあった。
 外への出入り口も窓もないので、閉じ込められたという印象が強かった。ここから逃げ出すには、通路に立つ見張りを力ずくで倒すか、山そのものを切り崩さねばならないだろう。
 酒と食事が饗されてすぐ、族長がひとりで現れた。
 厚い岩の扉が閉められると、ただちに巨人は膝を折った。
「先ほどは失礼しました。ルギドさま」
 打って変わったうやうやしい口調で、額を床につける。
「長老の中には、ひそかに王宮に通じている者がいるやもしれません。なので、あのような芝居を打たせていただきました」
 呆気に取られている一同に、ジュスタンが説明した。「族長どのは、わたしたちの味方なのです」
「何を隠そう、二年前この坊主をテアテラから逃がす手はずを整えたのは、このわしでしてな」
 顔を上げたエグラは、若き魔導士を見てにやりとした。
「そう、それでひどい目に会ったけれど」
 ジュスタンはすっかりくつろいだ様子で答えると、ルギドのほうに向いた。
「黙っていてすみません、言いそびれただけで悪気はなかったのです」
 しかし、彼のいたずらっぽい目の輝きからすると、言いそびれたわけではないのは明らかだ。馬を手に入れるためにいきなり囮にされて、さんざん苛められたことへのささやかな復讐と言ったほうがよいかもしれない。
「まったく驚かせてくれる」
 ルギドは肩をすくめて言ったが、その仕草はどこか愉快そうだった。
「【緑の森軍】の末裔であるわたしが、なんでルギドさまを裏切れましょうぞ」
 エグラは酒壺に手を伸ばし、黄色い蜜酒をそれぞれの杯に満たして、自分もごぶりと飲んだ。そして居住まいを正してから部屋にいる者たちを見渡し、
「百年ほど前、わしが兄と袂を分かったのは、事実です」
 話し始めた。
「その頃から、ティトス中の魔族は帝国と反帝国のまっぷたつに分かれました。
まだ揺籃期だった機械文明の中にあって、魔力を捨てて人間とともに生きていくことを選んだ兄たち。飽くまでも昔の生き方を貫こうとした我々は、やがて魔法王国テアテラに移り住み、反帝国活動をともにすることを選びました。
幼いレイアさまが女王の位に就き、この坊主の父親クロードが摂政となってからの求心力は、それは見事なものでした。テアテラは帝国の中で徐々に勢力を拡大し、我々は、【魔】がふたたび文明を支配する古代ティトス帝国の復活を夢に思い描いて、酔いしれたものです。ところが」
 エグラは暗い面持ちになってジュスタンを見た。ジュスタンは目を伏せたまま、何も言わなかった。
「二年前、突然、ほんとうに突然、レイアさまがクロード・カレルを殺害なさったのです」
「自分の摂政をか?」
 ルギドにとって、このことは初耳だった。
「それ以来、テアテラは坂を転げ落ちるように、陰惨な独裁政治へと変わってゆきました。それまでは、どちらかと言うと美しいお飾りで、国民の希望の象徴というだけだったレイアさまは、鬼神のように戦いを好む残虐な性格へと変わっておしまいになったのです」
「そのとき、レイアにいったい何があったのだ」
「わからないのです」
 ジュスタンは、苦しげに首を振った。
「そばにいたわたしでも、いったいあのとき何があったのかわかりませんでした。ただ、父は突然レイアに向かって斬りかかり、そして次の瞬間、彼女の魔力の光球で黒焦げになっていました」
 聞いていた者は、あるいはうめき、あるいはただ身を震わせた。
「そのときから、ジュスタンの兄のユーグも王宮の廷臣たちも、まるで魅入られたようにレイアさまに盲従してしまった。ここにいるジュスタン一人だけが王宮を逃げ出し、古くからの知り合いであったわしを頼って来たのです」
 ジュスタンはうなずいた。
「あのときのわたしは、群れから一匹離れた惨めなオオカミでしたが、今はこうして協力してくださる仲間を得て舞い戻ってきました」
「わしはそれ以来、テアテラに反旗をひるがえす準備を、ひそかに進めてきました。まだまだ帝国の魔族たちは、レイアに心から信奉している者が多い。レジスタンスの計画は極秘のうちに進めなければなりませんでした。しかし、ジュスタンもわしも、祖国を裏切っているのではない。これはテアテラを、人と魔族が平和に暮らせるまっとうな国に戻すための戦いなのです」
 エグラの族長らしい雄弁なことばは、聞いたすべての者に感化を及ぼす力を持っていた。
「王宮までの手引きをしてもらえないでしょうか。族長どの」
 驚くほど力強い声で、ジュスタンは言った。普段の控えめな姿ではない。きっとこちらのほうが生来の彼の性格なのだろう。
「時は満ちました。ティエン・ルギドがこちらに味方していることを、レイアたちはまだ知らないはず。今が不意をつくチャンスです」
「だが、ジュスタン」
 エグラはじっと彼の顔を見た。「つらい戦いになるぞ」
「もうその覚悟は、2年前にすませました」
「……わかった。方法はいくつかあるが」
 と前置きして、目を瞑った。
「一番手っ取り早いのは、王宮近くの軍本部へ硝石を運ぶ荷馬車に潜むことだ。ここから王都まで二時間、窮屈な木箱に隠れてもらうことになるが、それでよければお連れすることはできる」
「そうしてもらえると、助かります」
「定期便の出発は3日後の朝だ。そうと決まれば」
 エグラは壁を背に立つと、陽気に杯を掲げた。
「さっそく宴だ。戦勝祈願の宴を始めよう。さあ、みなさん。魔族のしきたりでは、杯の酒を一滴でも飲み残すと、まずい酒を出したと族長に恥をかかせたことになりますぞ」
 族長から差し出された杯に、ルギドは手を伸ばした。
 しかし、その杯は、受け取られずに床に落ちた。紅い瞳が驚愕に見開かれた。
「エグラ! うしろだ」
「え?」
 背後を振り向こうとした族長は、自分の腰にいきなり剣が突き立てられたのを、ぼう然と見つめた。「なぜ……」
 隣に座っていたラディクは、すばやく身を翻してナイフを引き抜いたものの、ふりかざした腕を刃にざっくりと貫かれた。
 エグラとラディクの黒と赤の鮮血が、部屋の壁に飛び散った。
「裏切ったのね。族長」
 ふたりの後ろにあったのは壁だけだった。通路も窓もない。いるはずのない人影だった。
 襲撃者は白いドレスを血に染めて、ほっそりとした腕で剣を胸元に引き寄せると、赤い唇に幼げな笑みを浮かべた。
 黒い髪。大きな瞳。壮絶な美貌の魔族の少女。
「会いたかったわ。ジュスタン」
「レイア……」
 ジュスタンは、熱病に罹ったように震えていた。魔導士の杖を取ることも忘れている。
 剣を構えようともしないのは、ルギドも同じだった。
「レイア……だと」
 うなり声を漏らしたきり、木偶の坊のように突っ立ったまま。ゼルは恐ろしさのあまり、ルギドの背中にへばりついた。
 衝撃から最初に立ち直ったのはエリアルだった。
「何者!」
 剣を抜き、壺や皿を蹴散らしてテーブルを飛び越え、雷撃のごとく勇者の剣を少女に叩き込む。
 だが、レイアは亡霊のような動きで攻撃をするりとかわすと、ルギドをまっすぐに見た。
「おまえが、あの大きな男だったのね。強い魔力を持つ者」
「……」
「でも、魔族に王はふたりもいらないわ」
 彼女は、数歩うしろに下がった。まるで、岩壁にめりこんでいくように見えた。
「ジュスタン。早く王宮に戻ってきなさい。歓迎してあげるから」
「――待て、レイア!」
 彼女は冷たく微笑むと、完全に姿を消した。
「誰か来て!」
 エリアルが大声で叫んで、床に倒れている負傷者たちの上にかがみこんだ。
「ラディク……エグラ族長! 生きてる。早く手当てを!」
 だが、そばに立つふたりの男はまだ放心していた。
「レイア……だと」
 ルギドは、食いしばった牙の間からもう一度同じことばを繰り返した。
「違う……あれは」
 ようやく我に返った魔導士は、恐怖に顔を引きつらせて彼を見る。
「レイアなどではない」
 百戦錬磨の戦士と言えど、今自分を襲った不条理への怒りに対しては、身を震わせるしか術はなかった。
「――あれは、アローテだ!」
       


 
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