新ティトス戦記 Chapter 13 |
「族長!」 洞窟の中は、飛び込んできた魔族たちで大騒ぎになった。 族長を刺した犯人として、見知らぬ客人であるルギドたちが疑われてもしかたない状況だったが、幸い、最初の騒ぎを聞きつけた通路の見張りのひとりが、血濡れの剣を持って壁の中に消えていくレイアを目撃していた。 わき腹を黒い血に染めたエグラと、腕を赤い血に染めたラディクが治療のために運ばれていくと、部屋は奇妙な沈黙に支配された。 「ルギドさま……」 ゼルの心配をよそに、ルギドは椅子に座って頭を抱え、銀色の髪を掻き毟っていた。 「まさか。そんなはずは……」 何度打ち消しても、事実は変えられなかった。目で見たのなら、他人の空似を疑うこともあり得る。だが、彼は自分の魔力そのもので感じたのだ。間違いようがない。 「レイアが……アローテ?」 蒼白な顔をしたジュスタンが彼の傍らに立った。 「ティエン・ルギド。わたしの話を聞いてください」 「……」 「ルギド……」 「うるさい、黙っていろ!」 吼えるように叫ぶと、魔族はジュスタンを突き飛ばして部屋を出て行った。 「ルギドさま」 ゼルがあわてて後を追いかけて飛んでいく。 誰もが、こんなに取り乱した彼を今までに見たことがなかった。 「ジュスタン」 エリアルはすがるような目で、愛する男を見た。 混乱しているのは、彼女も同じだった。思い起こすほどに、すべての出来事がイヤな音を立てて、ひとつのモザイク画を作り上げていく。 「まさか、おまえは……知っていたのか」 「……」 「レイアが、本当はアローテだと?」 「……はい」 「知りながら、隠していたのか?」 「……すみません」 ジュスタンはうなだれたまま、落涙した。エリアルの中に、とめどもない憤怒の衝動が湧き上がる。 「なぜ、黙っていた」 思わず、彼の胸倉をつかんでいた。 「ルギドの封印を解くことを相談したとき、なぜ打ち明けなかった。われわれは彼におのれの妻と戦うように仕向けるのだということを!」 「すみ……ません」 「おまえは私までずっと騙していたのか!」 ジュスタンの頬を思い切り平手で叩くと、エリアルは後ずさりして彼をにらんだ。 「――最低の男だ」 ラディクは、多量の出血でぼんやりと焦点の定まらない目で天井を見つめていた。 部屋は薄暗く、暖かく、煙たい。怪我の治療のために、炉で薬草を燃やしているようだった。 床に敷いた薄いマットの上に寝ているらしい。周囲を見ようとして、右腕に激痛が走った。ようやくのことで、少しだけ姿勢を変えると、すぐ隣には、族長エグラの巨体が横たわっていた。 「目が覚めたか。小僧」 火棲族は、痛みを押し殺した一本調子の声を上げた。 「ああ」 「わしが命拾いしたのは、おまえがかばってくれたおかげだ。礼を言う」 「別にあんたを助けたわけじゃない。自分が助かりたかっただけだ」 「同じことだ。生き物というのは互いによりかかっているのだからな。自分を救えば、他人も救うことになる」 「元気だな。爺さん。腹を串刺しにされて、まだそれだけ御託を並べられるなんて」 「ハハ……いてて」 ラディクは熱っぽい瞼をもう一度閉じた。暗闇に、鮮烈にあの少女のすさまじいばかりの美しさがよみがえる。 「なあ。あの女が、テアテラのレイア女王なのか」 「ああ。そうだ。まさか、姿を消して、壁さえ通り抜ける術まで持っているとは――油断した」 「ルギドは、さぞショックを受けてるだろうな」 誰かがそっと近づいてくる気配を感じ、目を開く。その人間は、最初エグラの上に屈みこんでから、次にラディクの傍らに座った。 「ラディク」 エリアルが弱々しい微笑を浮かべ、彼の顔をのぞきこんだ。 「どうだ。具合は」 「いいわけないだろう」 「おまえもこれを飲め」 皇女は腰のサックから小さな壜を取り出し、蓋を取ってラディクの唇にあてがった。 無色だがとろりとした液体。濃密な香りが口の中に広がる。大量の薬草から、長い工程を経て薬効成分だけを抽出したものだ。 ラディクは二、三度咳き込むと、顔をしかめた。 「アムリタか。高い薬を。あとで代金を請求するなよ」 「ふふ。こんなもの皇女には何ほどのこともない。たかが、民衆の税金だ」 偽悪的につぶやくと、エリアルは唇を噛みしめた。涙を必死に押しとどめようとしたが、うまく行かず両手で顔をおおってしまう。 「どうすればいい。私はルギドになんと謝ればよいのだろう……」 「おまえ、知らなかったのか?」 「……知らな……った」 「そうだろうな」 エリアルは顔を上げて、彼を見つめた。 「おまえは、知っていたんだな」 「ああ。そのために何年も世界中を旅して回ったからな」 ラディクは仰臥したまま、天井を見つめた。 「酒場で、市場で、往来で、人の集まるところに出かけては、うわさ話に耳をすませる。吟遊詩人は、情報を集めるには格好の職業だ。 去年ペルガで、ひとりの元魔導士だという男に会った。そいつは帝国との戦闘中に隊列から離れ、そのままテアテラ軍を逃亡して、雑居街にひっそりと住み着いていた。テアテラの宮廷にかなり近い高官だった」 そして、言おうかどうか迷ったあげく、 「そいつが重い口を開いて教えてくれたんだ。ジュスタンの父親が、テアテラで千年前に死んだアローテという名の白魔導士の墓をあばいて、古代の魔法を使ってよみがえらせて、女王の座に据えたのだと」 「墓をあばいて……なんておそろしい」 「おい、小僧、姫さん。それは違うな」 横で話を聞いていた族長が、低くうめいた。 「どう違う」 「どうとは言えないが、とにかく違う。くわしいことは、ジュスタンに聞くがよかろう」 「ジュスタンとは、……もう二度と話したくない」 エリアルは頑なな表情を浮かべて、うなだれた。 「怒っているのか」 「あたりまえだ。彼ははじめからレイアの正体を知っていたのに、黙っていた。私を騙したんだ。もし――もし、知ってさえいたら、私は絶対に……」 「絶対にルギドの封印を解いたりしなかったんだろ?」 ラディクのことばに、エリアルは涙に濡れた目を見開いた。 「ジュスタンが言えなかったのは、それを恐れたからじゃないのか。あんたは、たとえ帝国の滅びと引き換えにしてでも、甘っちょろい正義をふりかざす女だからな」 「……私の正義を、甘っちょろいというのか」 「それぞれの信じる正義を貫くのは、悪いことではない」 エグラは、痛みをおして半身を起こした。 「だが、その正義を奉ずるあまり、人の話を聞かぬことこそ争いの火種ではないのか?」 威厳に満ちた声だった。 「なあ、ジュスタン。おまえからも頼みなさい」 振り向くと、入り口の外に黒魔導士が静かに立っていた。 目の回りは泣き腫らして真っ赤で、朝の幽霊のように今にも消えてしまいそうに見える。 「姫さま」 「……」 「どうか、今だけでもわたしのことばを聞いてください。すべてをお話ししたあとでなら、いかような処分も喜んで受けます」 エリアルは、震えそうになる口元をきつく結んだ。もし人目がなければ、彼の胸にすがりついて、めちゃめちゃに叩きたい衝動に勝つことができなかっただろう。 「――わかった。話してくれ」 「はい」 ジュスタンは洞窟の床に座すと、ローブの裾をさばいて姿勢を整えた。 「このことは……」 「おい、俺を抜きにして、内緒の話を始めるつもりか」 朗々とした声が響き渡り、ゼルを肩に乗せたルギドが、入り口を屈みながら入ってきた。 「ルギド!」 「ルギドさま!」 ことばの軽い調子とは裏腹に、表情はまだ固い。だが彼が戻ってきただけで洞窟の中は、ほの明るい太陽の光が照らしたような安堵に包まれた。 ルギドは胡坐を掻いて、部屋にいる者たちに順番に、心の底まで見抜くがごとき紅い視線を注いだ。 族長エグラ、皇女エリアル、吟遊詩人ラディク。そして最後に黒魔導士ジュスタンの上でとどまった。 「ジュスタン。もう何も隠す必要はない。何もだ」 「はい」 灰色の瞳の青年は、覚悟を決めてうなずいた。 「すべてのことは、大魔導士ギュスターヴから端を発したのです」 暗く乾燥した洞窟の部屋で、千年前の秘された歴史が明かされようとしていた。 「彼のことばが編纂され、【大魔導士の書】として魔導士の間では広く流布していることは、前にも話しました。しかし、それ以外に【リグの書】と呼ばれる手書きの書が一冊だけ存在し、彼の直系の子孫だけに、【封印魔法イリブル】と黒檀の杖とともに伝えられてきました」 ときおり、自分の内側を見つめるような目をしながら、一語ずつ吟味して話す。 「【リグの書】は、今もユツビ村の図書館に保管されています。もちろん、千年前の直筆の羊皮紙は失われてしまいました。現存しているのは、その写本。印刷技術が発明されてからも、カレル家の者によって一文字一文字を忠実に書写してきたものです」 彼は横たわっているエグラに振り向いた。 「族長どの。わたしが宮廷から逃げ出したとき、預けていった荷物はまだ残っていますか」 「ああ。ある。若い者に持ってこさせよう」 ほどなくして、一冊の書物が届けられた。粗末な紙を紐で綴じて油紙で包んだだけの、簡素なものだった。 「これは、【リグの書】の一部をわたしがこっそり抜書きしたものです」 いとおしそうにページをめくると、ジュスタンは一箇所を指で指し示しながら、ルギドに差し出した。 「この部分は、原本ではギュスターヴの晩年の直筆だったと伝えられています」 ルギドには、文字を読む必要がない。目を閉じ、右手を書の上にかざすと、年老いた友が暗いランプの灯りを頼りに羽根ペンで書き記した文章が、湖面に浮かぶ木の葉のように頭の中に浮かんでくる。 『ガルガッティア城に残された古代ティトスの書物の体系化はすべて完了した』 新ティトス暦42年に行われたテアテラ王立魔導研究所のこの公式発表は、実は真っ赤な嘘だった。 実際には、数々の真実を秘めたままにしてある。それは公に発表してはならぬものだからだ。 そのほとんどは、古代ティトスに存在するはずのない【科学】と呼ばれる強力な魔法である。 魔法そのものが、ティトス以外の世界から持ち込まれたというのが、私の仮説だ。してみると、【科学】というものも、まったく別の世界、ティトスとはくらべものにならない文明を持った未知の世界から持ち込まれたものだとしても、不思議ではない。 そのひとつが、人間を【卵】と呼ばれる核に封じ込める魔法だ。ルギドの腹心ジョカルが畏王の体を一個の卵と変化させて、妊娠していた放浪民族の女の子宮の中に埋め込んだ、あの技術である。 しかし、あれは本来の使用法ではなかった。この【科学】の真の目的は、人間と魔族の混血児を産み出すことにある。 そこまで読んで、ルギドは雷の放電に当たったように手を離した。ジュスタンはほかの三人に、かいつまんだ説明をしている最中だった。 千々に乱れる思いに耐え、それに打ち克つと、ふたたび手を頁の上に戻した。 ティトスの記録された歴史の中では、自然分娩による魔族と人間の混血児は、たった二例しかない。 人間の王・須彌【しゅみ】と飛行族の女のあいだに生まれた畏王、それから、森のきこりの娘と水棲族の男のあいだに生まれたジョカルである。 たとえ、それ以外の例があったにせよ、おそらくは出産までに母子ともに死に絶えてしまったはずだ。【拒絶反応】。意味はわからないが、そんなことばが古代の書物には散見された。 【卵】の魔法の真の目的とは、第一に、人間または魔族の体を小さな核に閉じ込めること。そして第二にその核を、別の種族の女の宿した胎児に植えつけることである。この二段階が成功すれば、【拒絶反応】を起こさずに、魔族と人間の混血児が誕生するという。 ジョカルが畏王の【卵】を用いて、リュートすなわちルギドを生み出したのは、いわばこの魔法の応用だった。と言うのは、畏王はすでに混血であり、苗床となるべき胎児を必要としなかったからだ。 なぜ、このような技術が生み出されたのかは、わかるような気がする。魔族と人間の混血児は、ほぼ例外なく強靭な肉体と強大な魔力を持つ、不死に近い生命体だからだ。この【科学】があたりまえのように用いられれば、人間と魔族以外の第三の種族が誕生することになり、ティトスは劇的に変わってしまうだろう。 私はこの魔法を世に出すことを恐れた。これは、神ならぬ者が踏み込んではいけない領域であるという気がしたのだ。実際に使ってみた私だからこそ、そう言えるのだ。 私はこの魔法を【禁呪】と宣言する。永遠に使われることがあってはならない。 私がみずからの手で行なった、取り返しのつかない唯一の例外を除いて。 ルギドは、疲れきったように目を開いた。 「章の終わりまで、お読みになりましたか」 「ああ」 「それでは、こちらを。それより二十年後に書かれた、ギュスターヴの妻リグの手記です」 今思い起こせば、夫はときどき鬱々とした気分の迷路に入り込んでしまうようでした。 私や子どもたちといるときは、いつもの陽気さを取り戻すのですが、魔導士の会議などで公の席に出るときのギュスターヴは、まるで能面のような無表情で、感情をどこかに置いてきてしまったようだとも噂されていたのです。大魔導士としての威圧感にあふれて近寄りがたいと評されているのを聞き、私も子どもらも、家にいるときとのあまりの違いに大笑いしたものです。 彼が大きな苦しみを抱えていることを、私は彼の死間近になるまで気づきませんでした。 死の床に着いたとき、彼は大声をあげて泣いたのです。 『俺はなんということをしちまったんだろう。あんなこと、すべきじゃなかった。ルギドになんと弁解したらいいんだ』 しかし、彼はひとことも私たちにその苦しみの理由を教えてくれないまま旅立ってしまったのです。 書庫から発見したアローテの手紙を読み、ようやく何が起こったのかを理解することができました。 愛するギュスターヴ。夫は、妻の私に一片たりとも重荷を負わせないように、途方もない苦しみの中でも黙し続けたのです。 あれから歳月が経ち、ようやく私も、夫の待つ黄泉に旅立つ年齢となりました。 彼に再会する日は、私の希望であり喜びです。彼に会ったら、生きているあいだ何も相談してくれなかった愚痴をうんと言ってやります。 洞窟の病室では、沈黙を破るのを恐れるかのように、しばらく口を開く者もなかった。 「この、アローテの手紙というのは?」 かすれた声で、ルギドが訊いた。 「わかりません」 ジュスタンは、首を振った。 「ユツビ村の図書館にあったのかもしれませんが、父はわたしには見せてくれませんでした。ですが、ある程度の予想はつきます」 ルギドの脳裡に、国境の森の小屋で、雪の舞う窓辺に座るアローテの姿が思い浮かぶ。やつれた頬に笑みを浮かべて、かじかんだ指で手紙を綴っていく姿が。 アローテはギュスターヴに、自分に【卵】の魔法をかけてくれるように頼んだのだ。そして、ルギドの封印が解かれるときに、いっしょに生き返らせてくれるようにと。 ギュスターヴは幼なじみの切なる願いをどうしても断ることができなかった。彼女の体を小さな核へと変え、ユツビ村の長老の館に保管した。そして、自分の直系の子孫たちに、彼女の復活を託した。 【封じられし者】ルギドの封印が解かれる時が来たら、ギュスターヴの子孫の女性ひとりを選び、その子宮にアローテの核を移植せよと。 そのために、事細かにその方法も書き残した。新しい生命としてアローテはもう一度この世界に誕生し、成長し、やがてルギドと出会う。そういう道を用意することになっていた。 「父クロード・カレルは、ギュスターヴの直系の男子として、【封印魔法】と《アローテの卵》の両方を受け継ぎ、とどこおりなく次世代に譲り渡す使命を担いました。けれど……」 ジュスタンは、息がつまる思いで口をつぐんだ。しかしこれを言わなければ、彼の義務は終わらない。 「父は、それにそむきました。帝国とのあまりにも長く悲惨な戦争が、父を狂気に駆り立てたのです」 【ガルバの虐殺】。飢えて死んでいく民。帝国への憎悪はもはや和解という生易しい選択肢を、テアテラ国民の頭から完全に消してしまった。 帝国の殲滅。ただそれだけが、テアテラの指導者であるクロードの望みとなった。 「父は、自分の血族の女性の代わりに、妊娠した魔族の女性を連れて来て、その胎児にアローテの【卵】を埋め込みました。ふたつの核は融合し、魔族と人間の混血児として、レイアが生まれたのです」 驚くべき話だった。ラディクもエリアルも、いったいどこに焦点を合わせたらよいのかわからない目をしている。 「そのときわたしは6歳でしたが、レイアは誕生したときすでに3才くらいの体つきをしていました。魔族の母親は、重い出産で体を損なったのでしょう、結局すぐに死んでしまい、それ以来、兄ユーグとわたしとレイアの三人は、兄妹のようにして育ちました」 ジュスタンは一瞬だけ幸せそうな微笑を浮かべた。それを見たエリアルの心がちくりと痛む。 「子どもの頃は、性根のやさしい子でした。すべての生き物を分け隔てなく労わることを知っていました。父が口癖のように、『おまえは、帝国との戦いに勝利するために、この国を治めるのだ』と言うたびに、戦争なんてしたくないと、こっそりと泣いていました。それなのに何故、突然レイアがあんな残虐な性格に変わってしまったのか。そして何の理由で、父が彼女を殺そうとしたのか――いったい何があったのか。その直前まで王宮を離れていたわたしには、わからないのです」 身をよじるようにして、ことばを吐き出す。 「兄ユーグはそれでもレイアに従うことを選んだが、わたしは敵になることで彼女を救いたかった。打ち負かすことで、わたしが知っている本当のレイアに戻ってほしかった」 罪人がざんげをするような目で、ルギドを見つめる。 「そのために、ティエン・ルギド、わたしはあなたを利用しました。初代皇帝アシュレイと大魔導士ギュスターヴとともに帝国の基礎を築いたあなたなら、きっと帝国全体を魔法と共存する千年前の理想郷に戻してくれる。そしてなによりも、アローテの夫であったあなたなら、レイアを殺すことはしない。きっと正気へと目覚めさせてくれる。……そう計算しました。そして」 喉を嗚咽に震わせながら、エリアルに向かった。 「エリアルさまさえ騙して、自分の手段のために使った。あなたのおっしゃるとおりです。わたしは最低の人間だ」 「もういい!」 エリアルは激しく首を振った。 「いくら謝っても、過ぎてしまった時間は元には戻せぬ」 そして、低く絞り出すような声で付け加える。「もう戻れぬ。私たちはもう進みだしてしまったのだ」 岩壁にうがたれた窓から霧をともなった冷気が入り込む。長い夜は明け、空はいつのまにか白み始めていた。 「――ルギド」 「なんだ」 「私を主として誓った誓いから、今この瞬間あなたは解かれる」 エリアルは、毅然とした声で言い放った。 「もうあなたは自由だ。帝国の味方になることも、テアテラのレイアとともに帝国の敵となることも」 「いいのか」 「それが、あなたを騙した皇女エリアルの償いだ。もし、あなたの手によって帝国が滅びることになっても、私は民を守るために、最後まであなたと戦う」 その目からひとすじの涙が流れる。 「どんなに甘っちょろいと言われようと、それが私の正義だ。あなたを苦しめたことを赦してほしい」 身をえぐられるような思いで最後のことばを言い終えると、エリアルは目を閉じて宣告を待った。 「誓いは破らぬ」 思わず目を開くと、ルギドはやわらいだ微笑を彼女に向けていた。 「俺はおまえたちに感謝している。たとえどんな形であれ、この時代にアローテとふたたび会わせてくれたことを」 「ルギド……」 「俺はこれからも、帝国に与して戦う。それが、わが友アシュレイと交わした約束であり、その子孫エリアルと交わした約束だ。だが――」 銀髪の魔族は頭をめぐらせると、今日最初の曙光にその紅い目を燃え立たせた。 「この戦いは、俺にとってそれ以上の意味を持つことになった。俺の体に畏王の記憶があったように、レイアの体にもアローテの記憶が残っているはずだ。いちかばちかの賭けだが、俺はそれに賭けたい。アローテを取り戻すために、俺はレイアと戦う」 そして、目を細める。「ティトス全体の運命と引き換えるには、ずいぶんと身勝手な理由だが」 エリアルは、それを聞いてくすりと笑った。 「人の戦う理由など、そんなものだろう? 以前、私にそう言ってくれたのはあなたじゃないか」 「そうだな」 ルギドは、うなだれている黒魔導士の肩を抱いた。 「ジュスタン」 「……はい」 「おまえは正しいことをしたのだ。俺の封印を解いたことは正しかった」 「ティエン・ルギド……」 「もう泣くな」 黙って話を聞いていた族長エグラが、しきりに咳払いをしたあとでぽつりと言った。 「よかったな。ジュスタン」 ジュスタンはそれを聞いたとたんに、ルギドの胸にすがって大声をあげて泣き伏した。 ルギドはもう片方の腕を伸ばして、エリアルを引き寄せた。そして和解のためにジュスタンの手に彼女の手を重ね合わせる。 皇女とその家臣は、長いあいだの重荷をすべて解き放たれて、父親の胸で泣くように泣いた。 族長は、大きな音を立てて鼻水をすすった。 ゼルはふたつの翼で目を覆い、ひくひくと声を殺している。 ラディクはひとり離れたところに横たわりながら、天井を仰いで考えていた。 この旅から生きて戻ることができたら、そのときは叙事詩を作り始めよう。 千年前のルギドたちの戦いを、正しく語り伝える歌を。 そしてこれから紡がれようとしている、新しい戦いの歌を。それは今までにまして壮大な歌になるはずだ。 頭に次々と浮かぶ雄爽なる旋律に身をゆだねながら、吟遊詩人はゆっくりと目を閉じた。 第一部 終 |