新ティトス戦記 Chapter 24 |
「申し上げます! 魔族の大軍がパロスに向かって攻め上ってきました!」 【円卓の間】の扉が開かれ、物見の兵の報告がエリアルのもとにもたらされると、会議に連なっていた選帝侯たちは、いっせいに立ち上がった。 「その数、およそ四万!」 「なんだと!」 「魔族が、帝国に対して謀反を?」 「なぜ、今の今まで侵入に気づかなかった。北方の砦からの緊急信号はなかったのか」 うろたえつつ、声高に言い合う。 「先遣の使者が、さきほどから都の大門の外で口上を述べています。『魔族の王ティエン・ルギドが皇女エリアルに挨拶を述べに来た。すみやかな開門を要求する』と――」 「おのれ!」 オジアス侍従長が、悔しげに歯噛みした。 「よくも魔族の王だなどと、僭称しおって。味方についたふりをして姫さまを裏切りおって」 裏切った? 喧騒のただ中で、エリアルはぼんやりと考えた。 ルギドは私を裏切ったのか。当面の敵テアテラをこの大陸から駆逐したら、はじめから帝国を手中に収めるつもりだったのか。 それとも、知らぬ間にレイアと結託して、テアテラ側に与したのか。 しかし、頭の中でそれらの考えを弄びながらも、エリアルはまったく動じていない自分を発見した。気づけば、笑みさえ浮かんでいる。 ルギドが帝国を滅ぼすなら、それでもよい。 彼を信じると決めたのだ。それは、彼の選択が最善だと信じ続けることだ。 ただ私は皇女として、私のなす分を果たすだけ。 「門を開け」 「え、で、でも」 「二度言わせるのか。皇帝名代エリアルの命令だ。開門を!」 兵が出て行くと、エリアルは勇者の剣を手の中に握りしめ、すっくと立ち上がった。 「選帝侯の方々。会議はよんどころない事情により、一時中断します」 顔色をなくして立ち尽くす出席者たちに、宣言する。 「わたくしは今から、魔族の王との謁見におもむきます。帝国の行く末を見届けたい方は、ぜひご同席を」 開かれた門をくぐり、宮殿への大通りを整然と隊列を組んで通り過ぎていく魔族軍を、人々は凍りついたように見つめていた。 逃げ出す者も、泣き叫ぶ子どももいない。 間近に見ながら、自分の目が信じられなかったのだ。それまで市井の片隅で、社会の底辺を支える働き手としてだけ存在していると思っていた醜い魔族たちが、人間たちを尊大に見下ろしながら、このように美しく誇らしげに歩いていくのが。 そして何よりも、その先頭に立って彼らを率いる黒鎧の王。 堂々たる体躯と美貌、他を圧倒する王威に、パロスの住民たちからは感嘆のため息すら漏れた。 雲が低く垂れ込め、灯されていたガス灯の明かりが、進軍に長い影を添えている。 宮殿に着くと、魔族軍はさざなみのように動いたかと思うと、広い皇宮の前庭に隊ごとにすばやく整列した。 四万の敬礼を満足げに見届けてから馬を降りた王は、数名の屈強の供を率いて宮殿への階段を昇った。 入り口の大柱廊の間では、近衛兵たちが威嚇するように左右に待ち構えていたが、ルギドが近づいていくにつれて、自然とその列は退いていった。 謁見の大広間の扉を開け放つと、何百もの怯えた注視に出迎えられた。大臣、文官、武官たち。儀仗兵の槍の隙間から顔を覗かせるのは、恐怖に打ち震える下級貴族たちだ。 時同じくして広間に飛び込んできたジュスタンとラディクは、その貴族たちに混じって、目の前で繰り広げられている成り行きを、固唾を呑んで見守っていた。 第一皇女エリアルは、ぴんと威儀を正し、正面の玉座に着いている。 沈黙の中を進んだルギドは、玉座の前でぴたりと止まった。 紅い目を皇女にじっと注ぐ。皇女も緑の目で毅然と見返す。 ルギドは、絨毯の上に片膝をついた。 「新ティトス帝国の創祖、比類なき皇帝アシュレイの血を継ぐ皇女エリアル殿下に、魔族の王ティエン・ルギドが、衷心よりのご挨拶を申し上げる」 ルギドはさらに一歩にじりよると、玉座の肘掛けに置いていたエリアルの手を取り、身を屈めて唇をつけた。 人々はざわめいた。 臣下の接吻。 千年の歳月を生きてきた【封じられしもの】、魔族の最高主権者が、わずか十八歳の皇女の前にひざまずいて忠誠を誓ったのだ。 彼の唇と手が離れると、エリアルは静かに息を整えた。 「ようこそ、パロスへ。貴下を歓迎する」 「殿下の命により、長きにわたり帝国に敵対していたテアテラ王国を攻め、これを陥落させた。あらためて、テアテラ全土を帝国の領土として、殿下にお返ししたい」 「大儀である」 「ついては、このルギドにテアテラを封土として賜り、今このときよりテアテラ候と任命し、選帝侯会議に連なる栄誉をお授けいただきたい」 そのときルギドはまっすぐに身を起こし、意味ありげに微笑んだ。 エリアルは落ち着いて答えようとしたが、喜びのあまり、かすかに声が上ずっていたのは誰にも責められまい。 「貴下の望みを聞き届けた。皇帝名代であるエリアルは、皇帝の名において、魔族の王ルギドをテアテラの終身選帝侯に任命しよう」 「ありがたき幸せ」 皇女は玉座からすっくと立ち上がった。ルギドが差し出した手を受けて段を降りると、悠揚たる微笑を浮かべて人々を見渡した。 「選帝侯の方々。お待たせしました。中断していた選帝侯会議をこれより再開する。――欠けていたテアテラ選帝侯を加え、千年前に行なわれていた本来の姿の六者会議を」 再開後の会議は、中断前に比べて大きく情勢が変わった。 デルフィア候フェルナンドは、なんとかして主導権を取り戻そうとやっきになったが、新しく加わったテアテラ候の前には、なす術もなかった。 「だから、女帝を認められぬという理由を訊いている」 ルギドは、戯れるように言葉を継ぐ。 「帝国前夜のサルデス王国では、グウェンドーレンが女王として君臨し、アシュレイはその臣下だった。であるのに、歴史上、女性が国を治めた先例はないと言われる根拠は何か」 「そ、それは……」 「千年経っても、帝国における女性の地位はそのようなものなのか。貴殿の治めるデルフィア領では男女同権を掲げているそうだが、それは工場での安い労働力確保のためのお題目に過ぎぬのか」 怒りのあまり、とっさには言葉が出てこないフェルナンドから、まるで玩具に興味を失った子どものようにそっぽを向くと、ルギドはエリアルに向き直った。 「まあよい。デルフィア候の出された案件を審議しよう。皇太子エセルバート殿下の即位を認める代わりに、皇女殿下の結婚相手を選帝侯会議で決定するというのだな」 「ああ」 「なんという下品な提案だ」 ルギドは眉をひそめながら、大仰なため息をついてみせた。「女性への蔑視がひどい魔族ですら、そのようなあくどいやり方は思いも及ばぬ」 「そ、そうは申されるが」 デルフィア候は首筋まで赤く染めて、弁解を始めた。 「皇族にとって婚姻は一大事。帝国の運命を左右することにもなりかねぬ。万が一の事態を考え、選帝侯の親族との婚約を整えることは、帝国のために……」 「で、その該当者は、貴殿のご子息以外にはいないと」 「まさにそのとおりじゃ。選帝侯の直系で未婚の男子を持つのは、わがデルフィアだけ……」 勝ち誇ったように言い募るフェルナンドのことばを、ルギドは指を一本すっと立てて、遮った。 「もうひとりいる」 「なに?」 「エリアルと結婚することのできる男はもうひとりいる。――俺だ」 「はあ?」 部屋にいた選帝侯たちの誰よりも、当のエリアルが一番すっとんきょうな声を上げた。 「千年前に連れ合いを亡くし、今の俺は妻を持たぬ。テアテラ選帝侯として、エリアルの花婿に立候補する資格はあると思うが」 デルフィア候は今度は、壁土よりもなお蒼白になった。 目を見開いたまま固まってしまったエリアルの姿を、すでに掌中に収めた珠のように愛でながら、ルギドは微笑んだ。 パロスの夜空には、祝いの花火が途切れることがない。 宮殿の屋根に掲げられた緑の旗を目にした途端、人々は街に繰り出し、新皇帝エセルバートの誕生を祝って、夜通し楽器を掻き鳴らして、踊った。 その音楽に、魔族軍の打ち鳴らす鼓や鉦(かね)のパーカッションが彩りを添える。 魔族と人間のシルエットは、この夜ばかりは、ひとつに混じり合って何の隔てもなかった。 選帝侯会議が終わって、すでに四時間が経つ。 皇宮でも、祝いの宴がにぎやかだった。帝国各地から訪れた盛装の選帝侯夫妻、また随行の貴族・貴婦人たちが広間を埋め尽くし、華やかなダンスを繰り広げている。 ただ早々に本国に引き上げてしまったデルフィア候父子の姿が見えない。 デルフィア候フェルナンドは、自身の提出した案が否決されたとたんに、席を蹴って会議場を去ってしまったのだ。 会議には、選帝侯六人全員がそろった。 そのうち、デルフィアとの古くからの同盟国であるスミルナ候と、買収されたエペ候はデルフィア側についた。 そして、帝国に恩義を感じているペルガ候と、パロス候エリアルは、ルギドの提案を支持した。 三対三の同票の場合は、皇帝によって最終的な判断が下されることが、帝国創始以来の法律で決まっている。 そして、皇帝名代エリアルは、ルギドとの結婚を選んだのだ。 その結末を聞いて以来、怒涛のごとき事後処理に忙殺されているあいだも、ジュスタンとラディクは口が開きっぱなしだった。 「いったいどうすれば、そんな話になる?」 たった今現われたばかりの男が選帝侯会議に加わり、その場で帝国の第一皇女の花婿に立候補して、たちまち承認された。 普通ならば、そんな提案は一笑に伏されてしまうのが落ちだろう。おまけに、彼は人間ですらない。 誰にも口をはさむ暇を与えずに、それをなしとげてしまったのは、ルギドの巧みなかけひきと、押しの強さと、なによりも全身から放つ強烈な存在感だ。 それだけではない。離れたところにいたはずなのに、なぜ選帝侯会議の内容を熟知していたのか。なぜ、四万の軍隊をあれほど最高の時機に帝国領内に侵入させ、パロスに到着させることができたのか。 その手際のよさは、皇宮以外の出席者の中に、内通する者がいるとしか思えなかった。 この三ヶ月間、彼の情報収集の手腕をテアテラでいやというほど見てきたラディクも、あらためて舌を巻くほかない。 (あいつには、心の中までがすべて見透かされているような気がする) ふと見ると、ジュスタンがひどく不安げに眉をひそめて、考え込んでいた。 「ルギドは――本当にエリアルさまと結婚するつもりなんだろうか」 「まさか」 ラディクは笑った。 「フェルナンドの結婚話を消滅させるための方便さ。あとは、ほとぼりが冷めた頃に、適当な理由をつけて破談にしちまえばいい」 「……それは、そうだけれど」 掃きだし窓のガラスをコツンコツンと何かが叩く音がする。 ジュスタンが窓を開けると、夜風とともに、ふうわりと軽い感触が肩に当たった。くりくりとした目玉が、にゅっと彼の顔をのぞきこむ。 「ゼル!」 「お久しぶりです、ジュスタンさん」 「元気そうだな。ゼル」 「ジュスタンさんも、男っぷりがあがりましたね。おいらの採点では、ラディクさんをまた五ポイントくらい引き離しましたよ」 「だから、おまえが採点してるのは、何のポイントだ!」 「『いい男ポイント』に決まってるじゃありませんか」 ゼルとラディクのひょうきんなやりとりを聞いて、ジュスタンは長い間忘れていた笑顔をようやく取り戻した。 再び、仲間が全員そろったのだ。いつのまにか彼らはジュスタンにとって、かけがえのない仲間となっていた。 剣がおのれの鞘に戻されるように、暖かい火の燃える暖炉の前にいるように、彼らのそばにいるだけで、安らいだくつろぎを覚える。 どこかから、くぐもった音楽と甘い香りが漂ってくる。 誘われるようにバルコニーに出て見おろすと、提灯の列が煌々と宮殿の前庭を照らし、人々がにぎやかに行き交う。灯りは、見渡す限りずっと向こうの街にまで連なり、夜空のふちを白く染めていた。 帝都パロスは、今夜は朝まで眠りにつきそうになかった。 「ルギドは?」 「先ほど宴の席から【翠石宮】に戻られましたよ。エリアルさんもとっくに居室に。だってもうそろそろ真夜中です」 ゼルのことばを聞いたとたん、時間の感覚とともに、急激な疲労が襲ってきた。 欠伸をかみ殺しているラディクとともに、うなずき合う。 「そうだな、わたしたちもそろそろ眠ったほうがいい。明日も忙しくなる」 宮殿の公的部分であるファサードから内庭を抜け、奥の皇宮に入る。 中庭に面した回廊を通るとき、彼らは騒ぎに気づいた。 白い長衣をまとった男が、奥の【翠石宮】から廊下を渡ってくる。 銀の髪は輝くばかりに梳かれ、全身から淡く青い光を放っているように見えた。 「ルギド……? どこへ行くんだ?」 かたわらに立つ彼らに目もくれず、彼はエリアルの居室の前で立ち止まった。 「扉を開けよ」 朗々とした声で、警備兵に命じる。 「わが花嫁エリアルを、受け取りに参った」 「えーーっ!」 ジュスタンとラディクは、本日最後の絶叫を放った。 しずしずと中から、かんぬきが外される。 扉が開くのを待ちかねるようにして身体を押し入れたルギドは、部屋を見渡した。 「エリアルは?」 「奥の寝所でお休みでございます」 腰をかがめていた侍女たちのひとりが、恭しく答えた。 「それでは、そのまま連れていく」 「はい」 「お待ちなされ」 奥から年老いた女が飛び出て来て、寝所の扉の前に立ちはだかった。 「赦しませぬ。何の前触れもなく、まるで下賎のもののようなふるまい。無礼でありましょう」 「非礼の段、お詫びしよう」 ルギドは丁重に頭を下げた。 「だが、美しい花嫁を恋い慕い、一夜すら待てぬ男の気持を、お察しいただきたい」 「まだ婚儀の日取りすら決まっておらぬというに、姫さまを汚されるなど――しかも、おまえのような魔族などに! たとえ、選帝侯たちの決定が下されたとしても、この乳母であるわたしは赦しませぬ!」 「無粋なことをおっしゃる」 ルギドは、悲しげに微笑んだ。そして、老女の手をつかみ、彼女の目を見つめながら皺だらけの手の甲に口づけた。 「な、な、なにを!」 乳母は、顔を真っ赤に染めたかと思うと、ふっと意識を手離した。 そばにいた侍女が、崩れ落ちる身体をとっさに支える。 「乳母どのを頼む。モニカ」 「はい、心得ております」 侍女頭は訳知り顔にうなずいた。 ルギドは扉を開け放つと、薄いカーテンの奥の寝台で身を起こしたばかりのエリアルのもとに近づいた。 「……だれ?」 半分夢の中から、おぼつかない声で問いかけるエリアルの頬をゆっくり撫でると、次の瞬間、彼女を高々と抱き上げた。 「あっ」 エリアルは、面食らったような悲鳴を上げた。「ル、ルギド、何をする!」 「今宵は、貴女をわが【翠石宮】にお連れする」 腕の中の皇女に笑いかけると、彼は大股に部屋を出た。 ふたりの白い衣がひるがえる。回廊を吹き抜ける風に、銀と金の髪がからみあい、まるで宝石をこぼしたようだ。 若者たちが指一本すら動かすことができないうちに、【翠石宮】の重々しい扉は、花婿と花嫁を受け入れるや、固く、固く閉じられた。 |