新ティトス戦記 Chapter 30 |
敬礼して、天幕を出て行こうとする伝令を、エリアルは呼び止めた。 「待て。もうひとつ頼みたいことがある」 伝令役の兵卒は、不思議そうな顔をして向き直った。報告すべき事はすでに密書に認められ、口頭でも復唱している。これから北海岸まで早馬を飛ばし、待機している軍艦に乗り、パロスに明日の朝までに着くように命じられた。これ以上引き止められる理由はないはずだった。 「グスタフ・レヴァンという男の情報を集めるように、侍従長に命じよ。何かわかったら、至急私のもとに知らせてほしいと」 「かしこまりました」 伝令が出て行ったあと、部下とともに入口に侍っていたヴァルギス将軍が、眉をひそめた。 「おそれながら、レヴァン某とは何者です?」 「……個人的なことだ。気にするには及ばぬ」 将軍たちが辞去すると、エリアルはようやく朝の軍事会議の椅子から腰を上げた。 一睡もできなかった夜の後では、それだけの動作がひどく億劫だった。 『覚えているはずはないな。おまえたちが殺した男の名を』 目を瞑るたびに、ラディクの冷酷な声が耳元で響くような気がして、眠りがすり抜ける。 あの紅の目で間近に睨みつけられたとき、臓腑が震えた。憎悪に猛る色だった。 「いったい、私たちが彼に何をしたというのだ」 あれからずっとグスタフ・レヴァンという男を思い出そうとしているが、思い出せない。 先帝セオドリク二世が、テアテラのみならず帝国民衆からも恨まれていたことは承知している。多くの兵が死に、民は窮乏した――戦時という状況を割り引いても余りあるほどに。 その罪責を引き受けることは、皇族の務めだと承知している。だが、身近な人間の避けられぬ死にまで、罪をなすりつけられる謂れはない。 「父は善良な皇帝だった。民を愛していた。ただときどき、現実から目を逸らしただけなのだ」 と、頑なにつぶやく。愛されなかった娘だからこそ余計に、亡き父を汚されたくないという思いにエリアルは縛られている。 「ラディクにあれほど恨まれる覚えは――断じてない」 みじめな思いで唇を噛みしめると、ふたたび机の上の地図に目を落とした。 テアテラ魔導士軍がトスコビ市街に篭城して、もうすぐ二日が経とうとしている。 中央広場より南は完全に掌握したものの、街の北半分には、六万の市民とともに敵が潜伏している。いまだに通りには人ひとり見かけないが、迂闊に攻撃をしかけようものなら、テアテラ軍は市民の精神を操作して、人間の防壁を築いてくるはずだ。 街を包囲する帝国兵たちの中から、次第に焦燥のささやきが漏れてきた。人質にとられているトスコビ市民はなおさら、心身ともに限界だろう。 帝国軍に突入を命じなければならないときが来ている。だが、それは多かれ少なかれ、市民の中に犠牲を出すということだ。 ラディクが、先頭に立ってくれれば。 「いや」 エリアルはぐっと勇者の剣の柄を握りしめた。 「私が、私がラディクの代わりに、この剣に勇者と認められていれば」 「殿下、失礼いたします」 ふたたび天幕の入口の外に、誰かが立った。 「入れ」 供も連れず、たったひとりで入ってきたのは、先ほど出て行ったばかりのヴァルギス将軍だった。 日に焼けた顔が心なしか蒼ざめている。 「内密にお耳に入れたきことがございます」 下がるように護衛兵に身振りで命じると、ふたりは机をはさんで向き直った。 「グスタフ・レヴァンについて知っている者を見つけました」 「なに?」 エリアルは椅子の袖をつかみ、身を乗り出した。「誰だ?」 「わたくしの側近のひとりです。六年前の事件を目撃し、はっきりと覚えておりました」 「六年前の事件?」 将軍は、豊かな白い口髭の下で、苦しげに唇を引きつらせた。 「ただし……これから申し上げることについて、その者にお咎めが下されることなきように、この将軍ヴァルギス、自らの勲章に懸けてお願いいたします」 皇女にまっすぐ向けられているのは、あくまで部下の命を守ろうとする上官の眼差しだ。 「貴公の願い、聞き届けた」 「ありがとう存じます」 老将軍は、深々と拝礼する。 逸る気持とは裏腹に、ゆっくりとエリアルは椅子に座りなおした。「それで?」 「六年前、パロスの皇宮に、吟遊詩人の父子連れがやってまいりました。父は巧みにレベックをかき鳴らし、子は十歳過ぎと思しき少年でしたが、みごとなソプラノで歌うと皇都じゅうの評判でした。少年は盲目で、両目に黒い布を巻いていたということです」 心臓が止まりそうになった。歳から言って間違いない――ラディクだ。 「謁見の間にて、先帝であられる皇帝陛下と皇太子殿下が玉座に、おもだった皇族、貴族の方々も席に連なりました。父子は次々と悲歌や叙事詩を歌い上げ、人々の涙を誘い、万雷の拍手を浴びました。だが突然――本当に突然、彼らは列席者の方々のご不興を買ったのです」 「なぜ――」 将軍は首を振る。 「それについては、わかりませぬ」 記憶にない。六年前ならばエリアルは十二歳。皇族として皇帝の謁見に連なることができるのは、十四歳からだ。 「近衛兵たちがふたりを広間から引きずり出し、裏門から皇城の外に追い出すことになりました。雪のちらつく寒い日のことだったと聞きます。彼らが門兵に引き渡されるとき、ちょうど非番の兵たちが門脇で焚き火に当たっておりました」 ヴァルギスはしばしの間、言いよどんだ。 「陛下のお怒りを受けた者どもと聞き及んだ兵たちの、忠誠心と義憤がそうさせたのでしょう。彼らは吟遊詩人父子をよってたかって打ち叩き、そして何のはずみか、子をかばった父親はその場で息絶えてしまいました」 「……」 エリアルは声もない。 「死体はすぐに処理され、ひとり残された盲目の少年は――」 その子が誰であるかをようやく悟ったヴァルギスは、ぶるりと肩を震わせた。 「喉を焼かれ、その後、男娼の館に売り飛ばされた由にございます」 「おまえは、いったい何を考えている!」 胸倉をつかむと、ジュスタンは渾身の力でラディクを組み伏せた。想い人でもある主を傷つけられたという憤怒が、冷静な魔導士に我を忘れさせていた。 「帝国を根こそぎ滅ぼすために近づいたとエリアルさまに言ったそうだな。皇帝陛下やエリアルさまの息の根を止めてやると。……それはまさか、本気なのか」 仰向けに押さえつけられたまま、ラディクは掠れた声でうめくように笑った。 「本気だと言ったら?」 「今すぐに、この場で殺す」 ジュスタンは膝立ちになり、波立つ氷海のような灰色の瞳で見下ろした。 「出会ったとき、おまえは確かに得体のしれない奴だった。なぜ【封じられし者】の封印を解こうとするのか、なぜ我々の旅に同行したいと言うのか――それらしき理由を説明しようとしなかったからな」 「だが」と続けたとき、瞳は不意に哀しみの色に翳った。 「この一年ともに旅をし、生死を分かつ戦いの中に幾度も身を置いているあいだに、心を分かち合い、笑い合える友になったと思ったのに」 「そうか。俺はおまえたちに気を許したことなど、一度もなかったがな」 ジュスタンの水晶のレイピアが、一息に鞘から放たれた。 「――ひとつ訊く。グスタフ・レヴァンとは誰だ」 「答えたくない」 「答えろ!」 「おまえには関係ない!」 男たちの険悪なやり取りを、ゼルは翼を縮こめて見ている。 「ル、ルギドさまぁ、このままだと流血の惨事ですよ。なんとかしてください」 天幕の中央でクッションに囲まれて絨毯の上で横になっていたルギドは、ようやく上半身を起こした。 「その男――おまえの歌の師ではないのか」 大儀そうな声には、しかし有無を言わせぬ詰問の響きがこもっている。 「以前おまえが話していた、世界中を巡り歩いて古歌を集め、おまえに教えたという老師―ーそれが、グスタフ・レヴァン……違うか」 ラディクは顔をそむけたまま、そっけなく答えた。 「あんたにも、関係ないことだ」 「知られたくないのなら、なぜエリアルには話した」 「あいつがあまりにも能天気だからだ」 ラディクは焦れたように叫んだ。 「よりによって、俺にあっさりと勇者の剣を渡そうとしたんだぞ。自分が欲しいくせに。自分が勇者と認められたいくせに。そんなに悔しいなら、俺を殺してでも権利を奪い取ればいいじゃないか」 ジュスタンがそれを聞き、ぶるりと震えた。 「なんという勝手な言い草だ。どれだけあの方が今まで自分を犠牲にしてきたと思っている」 そして、剣身を心臓めがけて振り下ろそうと掲げる。 「すべてを帝国のために! 感情も意志も誇りさえも犠牲にして、おまえごときに頭を下げておられるのがわからないのか」 だが、ジュスタンの手は戸惑ったように空中で止まった。ラディクが仮面のように無表情に彼を見返していたからだ。 「なぜ……抵抗しない?」 「ふたりとも! やめろ!」 そのとき、天幕の入口からエリアルが飛び込んできた。 「やめてくれ……後生だ」 皇女はがっくりとその場にひざまずいた。目の回りを真っ赤に泣きはらしている。 「ラディク」 両の拳を胸に押し当て、服従の姿勢を取った。 「私は――私たちの犯した罪業を、おまえに償わねばならぬ」 ジュスタンは呆然と立ち上がり、ラディクも身を起こした。 「おまえの願いは、私たち一族が滅びること……そう言ったな。だが、父帝はすでに身罷られ、兄もあの有様だ」 エリアルは涙に濡れた毅然とした瞳で、彼を見据えた。 「私がおまえの恨みを引き受ける。だが、もう少し待ってくれ。この戦いが終結し、全土が平和を取り戻すのを見届けるまで……それまで私にしばらく、命を貸してくれぬか」 ラディクは何も答えなかった。 彼の顔には、復讐を果たした高揚も、相手をいたぶる残酷な喜びも浮かんではいない。むしろ、赦されぬ罪を負った咎人のように項垂れてしまったのは、ラディクのほうだった。 「否定しろよ。何も関係ないなら、そうと言えよ」 「え?」 「俺は――おまえにそんなことを言わせたかったんじゃない」 彼らの間をすりぬけ、天幕の入口の垂れ幕が揺れたかと思うと、ラディクの姿は掻き消すようになくなっていた。 後を追ったジュスタンが、しばらくして戻ってきた。 「ラディクが宿営から出て行きました」 憔悴した様子で報告する。 「天幕から、彼の荷物が全部消えていました――竪琴もなにもかも。番兵のひとりが、西に向かって走り出て行く馬影を見ましたが、誰何する間もなかったそうです」 「ルギド!」 悲痛な声でエリアルが叫んだ。「行かせてはならない。お願いだ。ラディクを止めてくれ。おまえの命令なら聞くはずだ」 「いや」 ルギドは首を振って否んだ。「自分の心が作り出した傷は自分で癒さねばならない。誰にも手助けすることはできぬ」 「だが……」 「ゼル」 肩に停まっていた飛行族の従者を手の甲に乗せると、ルギドは腕を高く上げた。 「ラディクについてゆけ」 「えーっ。お、おいらがですか?」 ゼルは魂消て、薄い羽根をばたばたを動かした。「む、無理ですよ。おいらには、帰ってくるよう説得なんかできません」 「何も言わなくともよい、ただついてゆけ。おまえなら、きっとあいつも無碍には拒絶しまい」 「で、ですが、もしラディクさんがヘソを曲げたまんま、戻ってこようとしなかったら、どうすればいいんです」 「そのときは、あいつをおまえの主として、生涯仕えよ」 ゼルは真っ黒な目をくりくりと動かして黙り込んでいたが、こっくりとうなずいた。 「……わかりました。御心のままに」 彼女が西に向かって天幕を飛び立って、わずか一時間の後に、宿営地は急に慌しい動きに包まれた。 テアテラ軍がトスコビ市民とともに、北の市門を突破しようとしているという報が入ったのだ。 「いつまで、ついてくる気だ!」 街道を進む馬上から振り返りながら、後をぴったりついて飛んでくるゼルに向かって、ラディクは叫んだ。 「ラディクさんが停まるところまでです」 「これ以上ついてくると、迷子になって宿営地に帰れなくなるぜ」 「迷子になるのは、そっちのほうだと思いますけどね」 「うせろ! さもないと」 言うが早いか、ラディクは馬を立て、弓に矢を番えて放った。 「ひゃああっ」 矢はゼルの体をかすめ、ごわごわの黒く短い体毛を何本か切り離した。 「し、し、死んじゃうところでしたよ!」 「そのつもりで撃ったんだ」 冷ややかに答えると、吟遊詩人はふたたび馬を駆歩させた。ゼルは前と同じく、翼に風をはらんで、どこまでもつき従う。 「まだついてくる気か」 「ルギドさまに命令されたんです。ラディクさんが帰ってくるまで、そばで仕えろって」 「はあん、おまえ役に立たないから、体よく厄介ばらいされたんだ」 「失礼な!」 一日中つかず離れず、ときおり言い合いをしながら続いた旅は、唐突に終わった。 ぜいぜいと喘ぎながら着地したゼルは、口をあんぐりと開けて、空を見上げた。 夕映えの中、古い石造りの塔が見える。崩れているとは言え、なお途方もなく高い。そして、その廃墟を取り囲むようにして、森がある。 魔族たちのふるさと、【北の森】だ。大気汚染のため、千年前よりもはるかに小さく、みすぼらしくなってしまったと言われる森は、夜の訪れを吸いこみ、黒々とそびえたつ城壁に見えた。 浅い流れのそばの草むらに馬をつなぐと、ラディクはためらわずに森の奥へ進んだ。 「何のために、こんなところへ来たんです?」 「なんだっていいだろ」 「お、おばけ出そう……」 「いやなら、ついてくるな」 竪琴を背負い直すと、なおもずんずんと奥に向かって分け入る。 森が切れて、開けた場所に来た。中央に塔が立っている。そこは古代ティトス帝国時代には、ゼルと同じ飛行族が城として使っていた塔であり、その後は、【風の階(きざはし)】と呼ばれる封印の神殿だったという。 天空まで届いたと語り伝えられる壮麗な塔も、千年前に守護者が滅びてからは、すべての役割を終え、今は朽ちるにまかされていた。 下層部分が残るだけの廃墟をじっと見つめると、ラディクは荷物を肩から降ろし、ぼろぼろの石組みの壁を背に座り込んだ。 やがて、周囲の森から枯れ枝を集めてきて、手際よく焚き火を熾すと、湯を沸かし、乾燥肉を焙り始めた。 火が燃えさかるにつれ、背後の夕闇はのしかかるように重さを増した。 ゼルは、取り分けてもらった乾燥肉をかじりながら、心細げに言った。 「あの……ルギドさまたちのところへ戻らないつもりですか」 返事はない。 「もし、そのつもりなら、おいらの人生に責任を取ってくださいね」 「責任?」 ラディクはようやく、そばにいたゼルをまじまじと見つめた。 「おいらルギドさまに、ラディクさんが戻ってくる気になるまで、そばで仕えろと言われました。もし、戻るつもりがないんなら、おいらはずっとルギドさまのもとに帰れなくなります」 ごくりと小さな塊肉を飲み込むと、威張って続けた。 「ルギドさまの第三夫人になるというおいらの野望は潰えることになります。そうなったら、ラディクさんが責任を取って、おいらをお嫁さんにもらってくださいよ」 「俺が?」 「はい」 「おまえを?」 「はい」 焚き火のそばのラディクのシルエットが、小刻みに揺れた。 「人間は、一夫多妻じゃないんだぞ。ひとりしか結婚できない」 「はい、だから、おいらがラディクさんの正妻ということになります」 「俺はおまえ相手に、どうやってナニすればいいんだ」 「お、乙女に、そういうこと言わせないでくれます?」 堪えきれなくなって、ラディクは大声で笑い始めた。後ろにひっくり返っても、なお笑っている。 「ほんっと失礼ね、まったく」 ゼルは彼の胸に乗って、水かきのある足でげしげしと蹴っ飛ばした。 (おいら、ほんとにそうなったらいいと――ほんのちょっとは思ってるんだから!) ラディクはようやく笑うのをやめた。その声は相変わらず、痛々しいほど掠れていた。 「ずっと昔、俺はこんな声だったんだ」 ラディクは、濃い藍に染まっていく夜空を見つめながら、言った。 「十一歳のとき、パロスの兵に松明で喉を焼かれた。治るまで何年も、声が出せなかった」 ゼルは驚きのあまり、口も利けない。ラディクの喉にそれらしい傷痕はなかったからだ。 「だからかな。今やたらと、あの頃のことばかり思い出すのは」 ラディクはくるりと寝返りを打つと、そのまま目を閉じた。 「それでですか?」 ゼルはおずおずと訊ねる。「帝国兵に歌のお師匠さんを殺されて、自分もひどい目に会わされたから、それで今もエリアルさんを憎んでいるんですか」 ラディクは答えなかった。 ゼルは、深々と冷えていく森の夜気にぶるりと身を震わせた。魔族は、人間ほど体温の調節がうまくできない。 ラディクの荷物から毛布を取り出して、彼にかけた。そして、焚き火に枯れ枝を何本か放り込んでから、自分も毛布の端に静かに潜り込んだ。 しばらくして、闇を少しずつ溶かすような密やかな調子で、ラディクが話し始めた。 「あいつが俺の村に流れてきたのは、俺が六歳のときだった」 ゼルは黙っていた。ラディクがグスタフ・レヴァンの追憶を辿り始めたことを、すぐに悟ったからだ。 「父親にずっと閉じ込められていた俺を助け出し、引き取って、旅に連れ出してくれた。俺はすぐに、自分の生まれた村のことなど忘れ、あいつのことを『親父』と呼ぶようになった。ただし、親らしいことをしてくれたなんて一度もない。文字も楽譜も読めない俺に、五年間で六千もの歌を教え込み、少しでも間違えると容赦なくぶっ叩いた。それでも――俺を獣からひとりの人間にしてくれたのは、あいつだった」 ゼルは、両手で口をふさいだ。「ふうん」や「へえ」という相槌を打ったとたんに、ラディクは我に返って、話をやめてしまうかもしれない。それほどに、まどろむような夢見心地の声だった。 「古い歌を教わるうちに、俺はティトスの歴史に秘められた真実に行き当たった。この新ティトス帝国を初代皇帝アシュレイとともに築き上げたのは、ルギドだったこと。【封じられし者】は、決して殺戮者でも悪の具現者でもない。民衆が誤解するように歴史をねじまげたのは、代々の皇帝たちだったことを、俺は親父から教わった。だから、俺のこの紅い目を――」 ラディクが瞼を指先でそっと触っている気配が、背中越しに伝わった。 「魔王の子孫であることを、卑下する必要はどこにもないと、俺は生まれてはじめて学んだ」 長い沈黙があり、ゼルはもう少しでラディクが眠ってしまったと思うところだった。 だが彼はふたたび話し始めた。 「親父は、俺に歌を教えるとき、【力】を使うことを固く禁じた。 『その力は、心なき物には届くかもしれない、だが、心ある者には届かないぞ』 と。確かに、親父の歌には人の心に届く何かがあった。決して声がきれいな訳ではないのに、聞く人はいつも、その美しさに聞きほれ、涙した。……けれど、俺はついに最後まで、その秘密を知ることはできなかった」 ラディクは後悔に身を浸すように、またしばらく押し黙った。 「俺たちの歌がパロスで評判になり、宮殿から招待状が届いたとき、俺は親父に内緒で、あることを決意した。歌会の日が来ると、俺たちは吟遊詩人の正装をして皇宮に赴いた。人前で歌うときは必ず目隠しをして、紅い目が絶対に見られないようにしていたから、宮殿に着いても何も見えなかったが、正面の玉座に皇帝、皇太子、皇女がずらりと並んでいる図を頭に思い描いて歌い始めた。いつものように拍手と歓声が湧き起こり、歌会が佳境に入ったとき、俺は突然、予定していた曲目を勝手に変えた。――【封じられし者】こそが、新ティトス帝国の創始者であり、支配者であるという古歌を、高らかに歌った」 ゼルは、唾を飲み込むことすら忘れていた。 「歴史を書き換え、ルギドを帝国を滅ぼす者として民衆に教え込んできた罪を、皇帝たちに気づかせてやる。俺の歌を聞けば、奴らはきっと恥じ入るはず。ガキの俺は愚かにも、自分の歌を過信していた。親父は俺の暴走にさぞ驚いていただろう。だが――歌が近衛兵たちによってむりやり遮られるまで、親父のレベックの伴奏が止むことはなかった」 ふたたび、長い間があった。 「俺と親父は、近衛兵に両脇を抱えられ、床にねじ伏せられた。皇帝セオドリク2世の咳(しわぶ)きが長い間続いた。ついで皇太子エセルバートの不機嫌そうな命令が聞こえた。『そいつらを追い出せ。二度と宮殿の敷居を踏ませるな』と。皇宮から引きずり出されるとき、目隠しがずれ、一瞬だけ親父の顔が見えた。俺に向かって、笑っていた。『よくやった』と。――それが、親父をこの世で見た最後だった」 ラディクは唐突に話を終えると、目を閉じたまま、また仰向けになった。 ゼルは毛布から這い出すと、薄絹のような翼を丁寧に折り畳んで、正座した。 「でも、……それじゃあエリアルさんが、歌会のその場に出席していたとは限らないですよね」 「ああ」 ラディクは薄く目を開いた。 「エリアルはその場にいなかった。俺はずっと後で貴族のひとりを捉まえて、そのときのことを聞き出したんだ」 「それじゃあ、エリアルさんを憎む理由なんかないじゃありませんか!」 「そうだな」 「それに……あえて言わせていただければ、ラディクさんがそんな歌さえ歌わなければ……」 非難めいたことを口走ったゼルは、ラディクの怒りを買ってしまったのではないかと、咄嗟に目をつぶった。 だが彼は、ゆっくりと身を起こしただけだった。 「わかってる」 紅い目が、森陰の落とす闇に染まっていた。 「わかってる。親父が殺されたのは、俺があんな歌を皇帝の面前で歌ったせいだ。他の誰のせいでもない」 「じゃあ、なぜあんな言い方をして、エリアルさんをいじめたんです」 「いじめた?」 「お姫さんの性格をよく知ってるでしょう、たとえ自分は同席していなくても、父親や兄の罪を全部背負い込んでしまう人だって」 「……そんなつもりはなかった」 ラディクは途方に暮れた面持ちで、首を振った。 「俺にもわからない。なぜあんなことを言ったのか」 「もしかして」 ゼルの頭に、突然ひらめいたものがあった。 「もしかして、ラディクさんはエリアルさんのことを――好きなんですか?」 「おまえなあ」 ラディクは呆れたような怒声を上げた。「おまえの脳みそは、どこを輪切りにしても、色恋のことしか入ってないのか!」 「は、入ってませんよ。悪かったですね」 「馬鹿馬鹿しい。話にならねえ」 毛布をゼルに投げつけると、ラディクは寝転んで向こうを向いてしまった。 「ああ」 ゼルは毛布の下から這い出すと、落胆の溜め息を吐いた。 (なんでおいら、いつもひとこと多いんだろなあ) 皺だらけになった毛布を延ばして、もう一度こわごわとラディクの背中にかけてやる。 そして、自分は冷たい毛布の端で手足を縮めたとき、突然腹をつかまれた。 ラディクは無言のままゼルを両手でくるみ、暖かい懐の中に潜り込ませた。 |