新ティトス戦記 Chapter 31 |
夜が明けても、トスコビの町の北はずれでは、一進一退の攻防が続いていた。 数万の市民たちは熱に浮かされたような表情で行進の先頭に立ち、北の港へ続く線路の両脇を固めるようにして歩く。もちろんその中にはテアテラ魔導士が混在して、彼らを操っているはずだ。 彼らが守るのは、三台の貨車。蒸気機関車ではなく、十数頭の馬に牽引されて、しずしずと線路上を進む。その一台の幌つきの蓋車に女王レイアが乗っているのは間違いなかった。 港まで、わずか数キロ。帝国軍は、なんとかその進路を阻もうと威嚇の矢を放ったり、土嚢を積んだりするものの、一時しのぎにしかすぎない。 市民の命を最優先で守れという皇女の命令の前に、彼らはなす術(すべ)を持たなかった。 夜陰にまぎれて線路の一部を破壊する計画もあった。線路を寸断することで、行進の中心にある貨車の移動を阻もうというのだ。だが、工廠兵たちが近づこうとすると、魔導士の雷撃の魔法が飛んできたため、断念せざるを得なかった。 軍事力では圧倒的に優位のはずの帝国軍の兵たちを、敗北にも等しい無力感が苛む。 三台のうち最後尾の貨車には、巨大な荷がくくりつけられていた。すっぽりと布で覆われているため正体はわからないが、通常の馬車には乗り切らないほどの大きさだ。 これを運ぶために、テアテラ軍は信念を曲げてでも、鉄道を破壊せずに残しておいたのだろう。 「召喚獣ではないようですが」 皇女たちは、山腹の林の中から隊列の様子をうかがっていた。 「機械に見えぬか? 蒸気機関車のドームカバーのような」 「機械?」 その楕円の形状は布の上から見るかぎり、確かに金属のなめらかさを持つ人工物だ。 「まさかテアテラの連中が、機械を持ち運ぶなど」 「【転移装置】」 後ろで低くつぶやく声に、エリアルとジュスタンは振り向いた。ルギドが嫌悪のにじむ険しい視線を貨物に定めている。 「転移装置、ですか?」 結界の塔へ行っていないジュスタンたちにとっては、耳慣れない言葉だった。 結界の塔の最上階、時を操る十二人の魔導士たちを収めていたガラスの棺は、二回りほど小さいが、これとそっくりな形をしていた。 「転移装置はテアテラ城の地下にもあったな、ジュスタン」 黒魔導士は、はっと顔をこわばらせた。 幼いとき、一度覗いたきりの部屋。ユーグは咎められなかったのに、彼だけがひどく叱られた。父の目に、兄と自分がどう映っているかを思い知らされた瞬間でもあった。 「牢獄の最奥の、あの部屋ですね。あそこは――」 言いよどむ。「わたしたち城の者は、【召喚獣の部屋】と呼んでいました」 不気味さにぞっとして、エリアルが呟いた。「では、あれが召喚獣を生み出した機械――?」 「奴らは、そこからあれを運び出したということですか」 「いや、あの部屋の転移装置は、テアテラ王都陥落のとき、すでに俺が壊した。だがティトスには、あと三つの転移装置が現存するはず」 ルギドは記憶を手繰りながら、話しているように見えた。 「今目の前にあるのは、そのひとつ。ガルガッティア城から運びされたものだ」 「ガルガッティアの大図書館のどこに、そんなものが?」 「ダンジョンの最下層に安置されていた。ギュスとリグがその剣を見つけたという伝説の部屋の奥にな」 ローブの腰に差している水晶のレイピアを、ルギドは指差した。 「あのときふたりが出会ったというべヒーモスは、転移装置を介して行き来していたもの。そうでなければ、密室に生物など生存しているわけがない」 「それは……確かに」 「奴らは、この転移装置を運び出すために、わざわざ手間をかけてサキニ大陸を横断せねばならなかったのだ」 「待ってくれ。と言うことは」 エリアルは、彼のことばを遮った。 「転移装置というのは、結局何だ。召喚獣が何処からか、このティトスに送られてくるための機械なのか」 ルギドは重々しくうなずいた。 「無尽蔵にな」 皇女と内大臣は、引きつった顔を見合わせた。 敵が無尽蔵に召喚獣を手に入れる力を持つならば、テアテラとの戦いは途方もない歳月を費やしても、決して終わるまい。 「わたしが、あれを壊してきます」 ジュスタンは、ぐっと腰の剣を握りしめた。 「魔法剣ならば、破壊は可能ですね、ティエン・ルギド」 「ああ」 「問題は、どうやってあの転移装置に近づくか、だ」 エリアルの頭の中では目まぐるしく、幾つもの作戦が組み立てられている。 だが、どれも不可能だった。トスコビ市民を傷つけぬまま、中央の貨車を攻撃することはできない。 授ける策がないのか、ルギドも沈黙を守っている。 (やはり、市民たちを攻撃するしかない。最小限の攻撃を行えば、術が解けて正気づいてくれるかもしれぬ。その混乱を突いて、一気に突入するしか) だが、それが戦略とも呼べぬ賭けであることは、エリアル自身が一番よく知っている。それでも、こうして手をこまねいているだけでは、さらに事態は悪くなる一方だ。 帝国軍の最高指揮者として、最終判断を下すべきときが来ていた。 「本陣へ戻ろう」 騎乗してエリアルを先頭に山を降りるとき、ルギドはジュスタンをひそかに呼び止めた。 「何でしょう」 「これから先、魔法力の消耗は最小限に抑えろ」 「え?」 「わかっているな」 念を押すように言い残して、魔族の王は馬体を翻した。 (イリブルを唱えるだけの魔法力は確保しておけという意味か) ジュスタンは手綱を握りしめながら、この大陸に来てからの数日間を思い返す。 ルギドが暇さえあれば横になり、できる限り体力と魔力を温存していたことに、今さらのように気づいた。 (この方はついに、レイアとの対決を覚悟なさったのか) 不思議と、特別な感慨は湧かなかった。ただ、視界に白い霞がかかったように、何もかもがぼんやりとして見えた。 夜明けが近いことを知ると、ラディクは静かに毛布からすべり出た。ゼルはまだ残った温もりにくるまれて、深い眠りをむさぼっている。 藍色の闇の中で、廃墟の塔は、湿った黴の匂いを放っていた。目を閉じ、苔に覆われた石に手をかけながら、朽ちた塔のまわりをぐるりと一周する。 瞼を開くと、崩れかけた石のひとつを選んで、腰を下ろした。 (俺はいったい、なんでここにいるんだろう) 決まっている。帝国のために戦うのが、馬鹿らしくなったからだ。どちらが勝とうが、どうでもいいことだ。テアテラは憎いが、帝国はもっと憎い。 六年前に歌の師レヴァンを殺された後、胸の悪くなるような化粧の香りと、体を貫く不条理な痛みの中で、かろうじて彼の正気を支えていたのは、師から教わった六千の歌を繰り返し頭で復唱することと、皇帝一族に対する憎悪の念だった。 何かを憎まなければ、おのれを憎むことになる。 親父を死に追いやった皇帝一族を、いつか地に這いつくばらせてやる。その思いだけが、ラディクを生きることへと向かわせた。 自由への機会はほどなく訪れた。彼が盲目であると思い込んでいた妓館の主たちは、何の警戒もせず、背後の扉に鍵をかけることさえ忘れていたのだ。 長い逃亡の旅。 やがて喉の傷が癒え、新しい大人の声を取り戻すと、ラディクは『力を用いるな』との師の命令を、ためらいなく捨てた。 歌を武器にして、帝国と戦う。 そして、帝国を滅ぼすために、【封じられし者】を海底から解き放つ。 その目的のために、彼は歌を磨き、吟遊詩人として世界中で旅を続けてきたはずだった。 復讐の矛先にほかならぬ皇女が、【封じられし者】の封印を破ろうとしていると知ったとき、運命のあまりの皮肉さに、ラディクは狂喜した。 だが、あれほど憎んでいたはずの皇帝にパロス宮殿で再会したとき、彼らの一族がすでに崩壊していることに気づいた。 枯木のように干からびたセオドリク二世は死の床にあり、皇太子エセルバートは忘却という名の安穏の檻に隠れ、そして皇女は女の身でありながら、たったひとりで、帝国の滅亡という運命に必死で抗っていた。 彼が何年も後生大事に抱えていた復讐など、すでに何の意味もなさぬ古い亡霊にすぎないことを知った。 (それでも、俺は皇宮を去ろうと思わなかった。何故だったのだろう) かすかに、森がざわめいたような気がして立ち上がった。 夜明けの気配を感じ取った鳥が動き始めたのだろう。もうすぐ森は何千もの鳥の沸き立つような歌声に包まれる。 ラディクは思わず、うめくように歌った。 広遠なる大地 朝もやの中で まどろむ だが、喉が焼けるように痛んで、再び口をつぐんだ。 こんなものは、レヴァンが教えてくれた歌ではない。心のこもらぬ、ただの戯れ歌だ。 師の命にそむき、歌に【力】をこめた罰なのか。彼にはもはや、歌う資格がないのか。 あの黄金竜を間近で見、その言葉を自分のものにしたいと欲したとき、はじめて気づいたのだ。――もし世界を変容させうる創世のことばを手に入れても、自分には歌いたいと望む歌が何もない。 ルギドが、真の王、真の支配者としてティトスに君臨する日を夢見たこともあった。 彼ならば、帝国の有りようを、根本から変えてくれる。魔族と人間が融和する世界へ。魔と機械が共存する理想の世界へと。彼のために戦い、彼の歴史を歌にすることを強く願ったこともあった。 だが、今ルギドは重い秘密に口を閉ざし、レイアとともに封印される日だけを待っているように見える。 エリアルとジュスタンのじれったい関係に苛立ち、ふたりのために動いたこともあった。だが、ようやく彼らが互いに微笑みを交わすようになると、ひどく取り残されたような気分に陥っている。 『もしかして、ラディクさんはエリアルさんのことを――好きなんですか?』 ゼルに勘ぐられても仕方がないほど、あのときのラディクはエリアルに怒りをぶつけて、鬱憤を晴らそうとしていた。 「ばかばかしい。俺はずっと、ひとりで生きてきたんだ」 吐き捨てるように叫んだ。 これからも、ひとりで生きられる。 ひとりでいれば、何も期待せず、何も願わずにすむ。 だが、一度誰かの優しさと笑顔を味わってしまえば、もう二度とそれなしには生きられない。寂しいという感情を臓腑が覚えてしまえば、孤独は耐えがたい痛みとなる。 ルギドやエリアルやジュスタンやゼルと過ごした日々が、仲間とともに生きる喜びをラディクにふたたび思い出させてしまったのだ。 レヴァンが最初に彼に教え込んだとおりに。 『ラディク、覚えておけ。人を好きになれ。それが心に届く歌を歌うということだ』 「親父……」 誰も答えない。森の木々は、歌を求めて立つ聴衆のように、静かに彼を取り囲んでいる。 「俺なんかをかばって死ぬことはなかったのに……俺はまたひとりぼっちになっちまったじゃねえか」 師を失ってから、ラディクが泣いたのは初めてだった。 不意に、背中に何かが動く気配がした。 振り向くと、それは黎明の光だった。糸のように撚られた光が木々の間隙をかすめ、廃墟の石の割れ目を穿って、冷え切っていた背中に当たったのだ。あたかも誰かの指がそっと触れたように。 細い光はみるみるうちに膨れあがり、暗闇は急速に後方へと退いていく。ラディクは、初めて目を開いて世界を見た者のような驚きに打たれた。 一条の光 射し 鳥はねぐらから舞い立つ ものみな黄金に輝き 美しきかな わがティトス 東の森全体がぼうっと白く浮き上がったとき、何かに突き動かされるような切迫を覚えて、走り出した。 一本の高い木を選び、その幹をよじ登り始める。 梢から体を乗り出すと、森の頂は曙光を受け、見渡す限り、濃緑の凪いだ海のように見えた。 しかし、その色はわずか一瞬。留め置くこともできず、緑は刻々と色を変えてゆく。 ラディクを乗せた木は、彼の重みでゆうらりと揺れた。まるで、柔らかい腕に揺られているように。 濃密な気が立ち昇り、彼を包み込む。 足元の葉を一枚むしり取った。生命の根源に直接触れたような、あまりにも精密で、あまりにも瑞々しい感触。 葉脈は絶え間なく水を送り、清浄な気を吐き出す。幹は、虫や鳥の宿りとなり、実は獣の養分となり、枯枝はティトスの土となる。 息が詰まるほど、美しいと思った。この世界の空も大地も、生き物も空気の色に至るまで、これほど美しいと思ったことはなかった。 「親父。これなんだな。あんたの言っていたものは」 押し寄せてくる感情に翻弄されながら、ラディクはかすれた声で叫んだ。 「俺もこれが歌いたい。ずっと歌いたかったんだ。あんたと同じ歌を。ものにではなく、人の心に届く歌を。……教えてくれ、レヴァン。俺には無理なのか。人間でも魔族でもない俺には!」 朝の風に梢が揺れ、木の葉がバラバラと枝から離れた。森は突如沸き立った。鳥が一斉に空に舞い上がったのだ。 白い翼が陽光を反射し、目に見える景色すべてを覆った。 長い間、呆けたように見つめていたラディクの口から、溜め息に似たささやきが漏れた。 [ビルラ] その瞬間、彼の全身を熱い力が包んだ。 目を覚まし、隣にラディクの姿がないことに気づいたとき、ゼルの全身の血がすっと引いた。 「まさかおいらが、ゆうべあんなことを言ったから……」 不吉な考えが浮かんできて、頭をぶるぶると振る。それほどに昨夜のラディクは、生きることに絶望しているように見えたのだ。 「ラディクさん」 ゼルは小さな翼を広げ、夜明けの風を捕らえ、木々の隙間を抜けて舞い上がった。 そのとたん、風がかぐわしい芳香をはらんでいるのに、気づいた。 歌が聞こえる。 声に導かれて、上空にぐんぐん昇っていくと、一本の木の頂にラディクがいた。枝に腰かけ、竪琴を宝物のように抱いて弾いている。 その歌はひとりに囁きかけているようでありながら、世界中に届くような深い響きをもって豊かに広がってゆく。 水際に立ちて 我は歌う 木々のさやぎも 啼く鳥も 岸辺にまどろむ いとしき乙女を 起こしたもうな 夢路にあれば 流れに花の ただよいて 窓辺に風の たわむれて 夜の沈黙(しじま) 谷をおおえば 甘き香り ものみな包まん 「ラディクさん」 ゼルは、ふわりと梢に舞い降りた。「……声が元に戻ったんですね」 「なんとか、な」 ラディクは弦にかけた指を止めて、紅い目を開いてほほえんだ。その穏やかな表情は、昨日までとはまるで別人だった。 「おまえ、どうしたんだ?」 「あれ、あれれ?」 ゼルは自分の顔をぺたぺたと触った。いつのまにか、その大きな目から大粒の涙があふれ出している。 「変だなあ。なんだか……ラディクさんの歌を聴いてたら……自然に出てきちゃったんです」 「ふうん」 「やっぱりラディクさんて、――最高にいい男です」 「あたりまえじゃねえか。今さら気づいたのか」 ラディクは笑いながらゼルの頭をなでた。そして竪琴を背負うと、ゼルを肩に乗せて立ち上がった。 それと呼応し、木の葉が意志を持って彼を支えるように、ざわめいた。 その葉は、ゼルがまったく見かけたことがないものだった。北の森の中には、それと同じ種類の木など、どこにもなかった。 「ゼル。ぐずぐずしてないで、出発するぞ」 ラディクは頬を引きしめ、確信に満ちた声で言った。 「急いで戻ろう――みんなのところに」 太陽が中天に差しかかる頃、行列の先頭が港の入口に着いた。 「今しかない」 エリアルは、苦渋の決断を下した。 貨物がすべて港の中に入ってしまえば、レイア女王の下車と荷解きのあいだ、敵はトスコビ市民たちを幾重もの防壁とさせるだろう。そこに下手に攻撃をしかければ、犠牲は余計に増えてしまう。 行軍の列がまだ長く伸びている今、事を起こすしか方策はなかった。 「ルギド」 「ああ」 頼りなげに振り向いたエリアルに、ルギドはただうなずいただけだった。もはや市民の生命などには頓着していないように見える。 すでに神経のすべてを、迫り来るレイアとの戦いに集中しているのだ。そしてそれは、転移装置の破壊と【イリブル】の詠唱に、持てる全魔法力を注ごうとしているジュスタンも同じだった。 (しかたがない。ふたりとも、今は周囲に心を配れるときではないのだ。代わりに私がそれをやらなければ) エリアルは、ぎゅっと勇者の剣を握りしめると、部隊に命令を下すために、息を大きく吸い込んだ。 そのとき、異変は起こった。 群集の垣が割れ、その先頭部分は埠頭の方向へと離れていく。 三台の貨車は、対峙している帝国軍に対して、無防備にさらけ出された。 「何をするつもりだ」 全員が息を呑んで見守る中、中央の蓋車の扉が開いた。 先に現われたのは、摂政ユーグ・カレル。 そして、彼の差し出した手に支えられて、ゆっくりと降りてきたのは、女王レイアだった。 火棲族の村の洞穴住居で会ったときのレイアは、白い質素な服を血だらけにして、まるで幽鬼そのものだった。 だが、今目の前に現われたのは、刺繍入りの薄いサテンのドレスを身にまとい、豊かに結い上げた黒髪に豪奢なティアラを着けた女王の装いだった。 まだ幼さの残る顔に浮かんだ蠱惑的な笑み。その美しさは、見る者をひどく危うい心地にさせる。彼女の願うことなら、どんな罪も進んで犯してしまいかねないという危うさだ。 摂政は帝国軍の本陣に向かって顔を上げ、よく通る声で言った。 「皇帝名代であられる第一皇女殿下に、直々にご相談申し上げたき儀がございます。おいでになってはいただけませぬか」 帝国将軍ヴァルギスが、怒りを含んだ大音声で返した。 「なんと、無礼な。降伏の話し合いなら、そちらからまかり越すのが筋であろう」 「降伏のつもりはありません。これは和平のための交渉」 「和平だと? フン、この後におよんで今さら!」 双方は、長い沈黙をもって睨み合った。 「わかった。行こう」 「エリアルさま!」 「よい。ヴァルギス。ここに待っていろ」 エリアルは勇者の剣を腰に帯び、丘を下り始めた。ルギドとジュスタンが当然のようにそれに従う。 テアテラ側からは、女王と摂政のふたりが進み出た。 煉瓦作りの倉庫が立ち並ぶ石畳の港前広場で、双方は緊張を孕んで相対した。 ユーグの手でローブを肩に羽織ったレイアは、ひとりひとりを驕慢なまなざしで見渡した。 「確か、もうひとりいたと思ったけど」 朱をさした唇を引き上げて、笑う。 「でも、ふたりもいれば十分よね。ねえ、エリアル。どちらの男のほうが気持よくしてくれる?」 エリアルは、キッとまなじりを吊り上げたが、何も言わなかった。 ルギドは、かつての妻の淫らな発言にも、まったく動じず、表情を崩さない。 「もういいかげん帰ってきなさい、ジュスタン。これ以上逆らうと、本当に怒るわよ」 ジュスタンは黙したまま、ひたすら目を伏せていた。レイアと、その隣に寄り添うユーグの姿を見てしまえば、冷静さを保てる自信がない。 ルギドの言ったどおり、自分の務めだけに集中する。決して相手の挑発に乗らないように。 エリアルが怒りを抑えて、口を開いた。 「それで、そちらの提案とは?」 「手短に申し上げましょう」 ユーグが無表情な灰色の瞳を皇女に向け、代わりに答えた。 「トスコビ市民を無事に解放する代わりに、テアテラ軍全員を、この港から安全に出航させていただきたい。――それともうひとつ。その輸送に必要な民間の船を、そちらで準備していただきたい」 「ずいぶん、一方的な条件だな」 「やむをえません。そもそも、二十隻あった我々の軍艦は、我々がこのサキニ大陸に上陸してからの二週間のあいだに、たった五隻に減ってしまいました。報告によれば、帝国軍艦の砲撃により沈没したのは、ほんのわずか。そのほとんどは座礁、衝突、あるいは何の理由もなく自沈したと」 ユーグはルギドを見て、うっすらと笑んだ。「貴方の水棲族部隊の工作であったと承知しておりますが」 「ここを出て、どこへ行くつもりだ?」 エリアルは挑むように言った。「ティトスのどこにも、そなたたちの逃れる場所などないぞ」 ユーグは首を傾げ、考え込む仕草を見せた。 「とりあえずは、ラオキア自治領の片隅へでも。ゆくゆくはアスハ大陸全体を、そっくり拝領したいと考えていますが」 「そんな条件を飲めると思うのか」 「飲まねばなりますまい。彼らのために」 ユーグは港に向かって、魔導士の杖を突き出した。 その先には桟橋があり、数千のトスコビ市民たちが鈴生りになって立っている。古い木の桟橋は、彼らの重みで今にも崩れ落ちそうだ。 「あなたたちの態度によっては、彼ら全員に桟橋から飛び込めと命じます。それでもよろしいか」 「卑怯者!」 エリアルは、怒りに震える声を上げた。「それでも――それでも、一国の司か。無関係な市民を巻き添えにするなど!」 「その悪しき先例は、あなたがた帝国がまず作ってくださったのではありませんか」 乾いた声でユーグは答えた。「さあ、どうなさいます?」 エリアルは、レイアを見た。同じ女性として、同じく国を治める者として、わずかな良心の片鱗でも見せてほしい。祈るような思いで彼女の感情を読み取ろうとした。 だが、レイアは目の前で行なわれているやりとりには全く興味を持たず、じっとルギドに無邪気な視線を注いでいた。 「わがテアテラの魔族のほとんどを掌握したようね。ルギドとやら」 「そのようだな」 ルギドは、短く答えた。 「早くあなたと戦いたい。うふふ。その首に鎖をつけて、私の飼い犬にしてあげるわ」 「断る」 「鎖はおいや? じゃあ殺してあげる。手足の指を短く切って、両目をくりぬいて、ね」 「アローテ!」 ルギドは牙を剥き出して叫んだ。その全身から憤怒の蒼い炎が立ち昇る。 剣の柄に手がかけられようとした瞬間。 「やめろ」 エリアルは押し殺した声で、その場を制した。 「わかった。テアテラの要求を飲もう。――ラオキア自治領に行くがよい」 |