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The New Chronicles of Thitos

新ティトス戦記


Chapter 42



 洞窟に入ると、そこは光から隔絶された世界だった。
 低い天井。閉ざされた暗黒の中では、いくら深呼吸しても息苦しい。今は仲間たちの存在を間近に感じるが、もしたったひとりで暮らさなければならないとしたら、正気でいることは不可能だ。
 だが子どもの頃、ラディクは父親の折檻を受け、しばしばこの洞窟に丸一日閉じ込められたという。
「この中では、自分の歌だけが頼りだった。自分の歌で空気が震えるのがうれしくて、無我夢中で歌い続けた」
 感情を忘れてしまったような、淡々としたラディクの声が続く。
「そのうちに手のひらの上の小石が俺の思い通りに動くようになった。冷たかった岩は温もりを帯び、入口から漏れ入ったわずかな光が、まるでプリズムを通したように分解し反射して、洞窟全体を淡く照らすようになった」
 松明の炎に縁取られたラディクの後ろ姿を、仲間たちは見知らぬ者のように見つめている。
「たぶん、ルギドとアローテの子孫の中には、他にも俺のような能力を遺伝的に潜在させる者はいたと思う。だが、誰ひとりとして、その力を発現するには至らなかった。俺だけが、生きるために力を必要としたんだ――そして、奴に見つけられた」
「ジョカルの声が聞こえたと言ったな」
「そうだ。喉を焼かれた俺は、頭の中に響く声に導かれて、この洞窟に戻ってきた。眠りに陥った俺を治療すると、そいつは命じた。『海の底に眠っている「封じられし者」の封印を解け』と。そしてふたたび転移装置を使って、俺をこの洞窟に戻した」
 ラディクは足を止めて振り向くと、ルギドをまっすぐに見た。紅い目と紅い目が、からみ合う。
「ジョカルがルギドの封印を解くように命じた――」
「奴の目的は、『理想体』であるラディクを手に入れることだけだったはず。なぜ、そのうえにルギドの復活までを目論んだのでしょうか」
 彼らは、その場に立ち止まり、しばらく沈黙した。だが結局、答えを得られぬまま、洞窟の奥への歩みを再開した。
「悪い。松明を消すぞ」
 ラディクが分岐点で立ち止まり、焦れたように言った。「目で見ると、道がわからなくなりそうだ」
「ひゃああ」
 ゼルが力ない悲鳴をあげた。
 真の闇が液体のようにまとわりつく。方向感覚がなくなり、どちらが上か下かもわからない。一歩踏み出せば、奈落の底へ落ちそうな恐怖で足がすくむ。
 その中で、ラディクはためらいなく分かれ道を選んで、進んでいく。
 これほどまでに洞窟のすみずみを知り尽くすために、いったい彼はどれだけの時間をここで費やしたのか。半年や一年ではないはずだ。
 同じく、暗闇をまったく問題としない盲目のルギドを最後尾に、一同は歩き続けた。
 時間の感覚さえなくなった頃、ようやく先頭が足を止めた。
「ラディク。ここが目的地なのか?」
 答えはない。いぶかしく思ったエリアルが、彼の体があるべき場所に手を伸ばすや否や、熱湯に触ったかのように、あわてて引っ込めた。
「壁だ」
「なんだって?」
「ラディクと私たちの間に、壁ができた!」
 ジュスタンは松明に火をつけた。そびえ立っていたのは、なめらかな金属だった。天井から床までぴったりとふさいで、どこにも出入り口らしきものはない。継ぎ目も見えない。魔導の杖を差し伸べると、カツンと硬い音がした。
「離れてください」
「魔法を使うのか」
 エリアルは息を呑んだ。「向こうの状況がわからぬ。壁が崩れ落ちれば、ラディクまで巻き添えを食らうかもしれないのだぞ」
「崩れないように、内部から溶かしましょう」
 落ち着いた声が後ろから上がったかと思うと、ユーグが進み出てきた。「ジュスタン。【インナーフレーム】だ」
「わかった」
 魔導士の兄弟は、壁の前に並んで立つ。
『燃え立つ炎よ。キル・ハサテの水を焼き尽くし、エウリムの川を焦がせ』
『アマエラよ、アマエラよ、空に舞う氷霜よ』
 水と火の合成呪文。対象を内側から燃やし尽くす作用をする。
「まだ弱いな。続けて二度唱えるぞ」
「はい」
 今まで長い年月、反目し合っていたユーグとジュスタンが、何ごともなかったかのように協力している様子を、仲間たちは驚きをもって見つめている。兄の命令に従順に従う弟という図式は、ふたりが幼いころから、ごく自然に行われていたことなのだろう。
 ほどなく分厚い金属の壁が、薄い銀箔がくるりと丸まっていくように、その場に崩れ落ちた。
 歓声をあげる暇もなく、壁の向こうから現われたものに、一同の視線は釘づけにされた。
「うそだ。でたらめを言うな」
 逆光に照らされたラディクが、黒々としたシルエットとなって立っている。彼が対峙しているのは、暗闇の中で銀色に輝く転移装置。そしてその前に立つジョカルだった。
「俺はそんなことはしない。できるはずない!」
「できるのですよ」
 のっぺりと光る肌を持つ異世界人は、桜色の唇を引き上げた。「喜悦にむせびながらね。さあ、こちらへ」
 その言葉を聞いたとたん、ラディクの足が前に出た。また一歩。魔力に吸い寄せられるように転移装置のほうに歩いていく。
「ラディク!」
 最後尾から、まるで疾風のようにルギドが飛び出した。抜き放たれた剣は、すでに緑の炎を噴き出している。
 目をつぶすほどの閃光があたりを包み、地響きとともに止んでいった。
 転移装置とその主の姿は、もうどこにもなかった。大地の魔法剣の威力が、一瞬にして消滅させたのだ。そしてルギドの小脇には、壊れた人形のように力を失っているラディクが抱えられていた。
「ラディク」
 駆け寄る皇女の声に少し頭をもたげると、ラディクはか細い声で答えた。「エリ……ル。俺を……」
「なに?」
 答えの代わりに、吟遊詩人の竪琴が地面に落ちて、哀しげな不協和音を立てた。


 洞窟から脱出したとき、ラディクは嘘のように何も覚えていなかった。
「ジョカルと話をしていたんだぞ。なにかを必死で否定していた」
 と説明しても、首を振るばかり。「全然、何も思い出せない」
 大きな吐息をついて、ジュスタンが背を伸ばした。
「やはり、ジョカルは何かの目的のために、またラディクだけを連れ去ろうとしたようですね」
「どうする。ルクラに行く計画は」
「計画も何も、ティトスに現存していた転移装置は、四つともなくなってしまいました」
 『考えなしの誰かさんのおかげで』という非難の視線が、ルギドの顔に集中する。魔族の王は平然と答えた。
「あんなものを使って、いきなり敵が待ち構えている本陣に飛び込むわけにはいかんだろう」
「じゃあ、初めから、こんな旅をする必要はどこにあったんですか」
「もちろん、最後の転移装置を破壊して、安全を得るためだ。これで奴らは、ティトスと自由に往き来できなくなった」
「それはそうですが……」
 これでよいのか。一万年もの間ティトスの歴史に干渉し続けていた存在は、ひとまず遠ざけた。これで、ティトスの未来は守られたことになるのか。恒久の平和が約束されるのか。
 ラディクは立ち上がった。
「俺は、それでもルクラへ行く」
 頑ななまでの決意に、ぎゅっと奥歯を噛みしめる。
「だが、どうやって」
「竜だって行き来できるんだろう。いざとなれば、泳いだって、筏を組んだって行ってみせる」
「そんな、無茶な」
「俺は、ティトスの叙事詩を書くと決めたんだ!」
 紅の目を燃え立たせて、ラディクは宙をにらみつけた。「これは、俺の書きたかった最後の一小節じゃない!」
 黙って聞いていたルギドは、「ふ」と口元を緩ませた。
「そう言い張るだろうと思った。では行くか」
 主の肩の上で、使い魔がのけぞった。
「ルギドさままで、そんなことを。まさか、ご自分の翼で連れて飛んでいこうとおっしゃるんじゃないですよね」
「そんな疲れることをせずとも、この世には機械というものがあるのだろう」
 尖った指がすっと差し伸べられる。その指が示す先を見て、一同は夢を見ているような、ぼんやりした顔つきになった。
 眼下に広がる森の向こうに、灰色の雲が低く垂れこめた空が見える。雲の合間から数条の光が射しこみ、夕の海を真珠のように輝かせている。その海と空のはざま、光の上をすべるような航跡を残して進むのは、黒々とした煙突が中央にそびえる巨大な蒸気船だった。
 しかも、そのマストにはためくのは、赤い帝国軍旗。
「帝国軍艦だ……」
「エセルバートのやつ、ぎりぎりで間に合ったようだな」
 ひとりごつルギドに、エリアルは驚愕の目を見開いた。
「では、あれに兄上が?」


「ご所望のものを持って、馳せ参じた」
 新ティトス帝国第38代皇帝エセルバート三世は、魔族の王に敬意を表して椅子から立ち上がると、疲れきった旅人たちを前甲板に導いた。そこには、旅人たちを癒すための敷物、足台つきの金の杯、それに冷たい水や酒の壺が並べられている。
「サルデスの船渠(せんきょ)にて建造されていた軍艦を、あなたの求めどおりの汽帆船に改造した。船足は、帝国に現存するどの船よりも二倍はまさっている」
 車座になった一同の前で、皇帝は杯を持ちあげた。最新鋭の軍艦を作り上げたという少年じみた誇りが、その声にはにじみ出ている。
「わずか二日乗っただけで、人手に渡すのが惜しくなった。だが、考えてみれば、ティトスにはもはや軍艦は不要なもの。また、そうせしめることが、わたしのこれからの仕事だ」
「礼を言う。皇帝陛下」
 ルギドは満足げにほほえみ、杯を干した。「おかげで、時間を無駄にすることなく旅立つことができる」
「では、この船でルクラに行くというのか!」
 エリアルは悲鳴に近い叫び声を上げた。「不可能だ。歴史上だれもたどりついたことのない新大陸だぞ。どれだけ遠いかわかっているのか」
「おそらく、この船をもってしても、何ヶ月もかかるだろうな」
 こともなげに、ルギドは答えた。「だが、不可能ではない。奴らがティトスの機械文明を恐れていたのは、これゆえだ。われわれがルクラに自力でたどり着けるほどの文明を築けば、ティトスは柵の壊れた牧場となる。家畜が中から逃げ出すのを奴らは止めることができなくなる」
「この船で南の海を渡る――」
 彼らはもくもくと白煙を吐きだす煙突を振り仰いだ。
 巨大な三角帆が悠然とはためいている。高速航行を可能にする細身の船体。蒸気で動く五枚羽根のスクリューと二本マスト。
 この船ならば、転移装置などに頼らなくとも、見知らぬ世界を縦横無尽に駆け巡ることができる。そう無邪気に信じられるような威容だった。
「妹よ」
 エセルバートは、同じ緑色の瞳で慈しむように、第一皇女を見つめた。
「本来ならば、女の身であるそなたを世界の果てなどに行かせたくはない。いつまでも、わたしの玉座の隣で、政務を助けていてほしい」
「兄上……」
「だが、そなたの運命は、そのような狭い世界には留まらぬ、大きなものであるのかもしれぬな。おのれの意志で決めよ。誰もそなたを縛る者はいない」
「おそれながら、兄上」
 エリアルは、男装の騎士姿でひざまずき、正しく臣下の礼を取った。
「わたしは、自らの目でティトスを取り巻いている真実を知りとうございます。ルギドどのをお助けしとうございます。どうか、ルクラに行かせてください。皇族の名と責務をすべて捨てることになろうとも、そうしたいのです」
 一筋の迷いさえない眼差し。
「そう申すであろうと思っていた。エリアル」
 皇帝は妹姫を立たせ、「そなたの行く道に幸いがあるように」と額に祝福のキスを与えてから、誰にも聞こえないようにささやいた。「決して、ドレスの袖を破いて泣いて帰ってくるのではないぞ」
「兄……上」
 彼女はエセルバートの首にすがりついた。
 小さいころから父の愛を一身に受けている兄を、どれだけうらやんだことだろう。戦火の帝国をたったひとりで治めるあいだ、赤子のようになってしまった兄をどれほど呪ったことだろう。
 その醜い思いも、背負い続けた重荷もすべて、ここに置いていく。
「ジュスタン」
 もう一組の兄弟、ユーグとジュスタンも、船の隅で互いに向き合っていた。
「わたしはともには行かない。テアテラに戻ることにした」
「兄さん?」
「何ヶ月、何年かかるかわからない旅に、悠長につきあってなどいられない。今テアテラの再興に取りかからねば、いつまでも民が苦しむ。帝国の奴らにいいようにされ、魔法そのものがつぶされてしまう」
「陛下はそんなことはなさらないよ。エグラとオブラが率いる魔族軍もいてくれる」
「もともと、レイアが気がかりでついてきただけだ。あとのことは、あの方に任せればいい」
 魔族の王に向け、信頼のまなざしを送る。
「わたしにできることは、もう何もない」
 少しのあいだ古い後悔に身をひたしていたユーグは、ようやく全てを振りきったように顔をあげた。
「それに」
 と、笑いを含んだ溜息をついてみせる。「おまえはどうも昔から、わたしがいると委縮するらしいからな」
「……委縮?」
「いっしょにいると、考えることを放棄して、ただの意気地なしになってしまうじゃないか。小さいころから、そうだった。本当はわたしより、ずっと大きな力を持っているくせに」
 兄は弟の肩に手を乗せた。
「ひとこと、礼が言いたかった。父さんはずっと、誰かに間違いを正してほしかったのだと思う。わたしにはできなかった。おまえには感謝している」
 ジュスタンは目をぎゅっと閉じた。その拍子に、留まる場所を失った涙が頬を流れ落ちる。
 若者たちのそれぞれの別れを、ルギドとレイアは並んで見つめていた。
「やはり、行くのね」
「それしかあるまい」
「あそこに戻れば、いろいろなことを終われるのかしら」
「今はまだ。俺たちが終わるのは、あの子たちの始まりを見届けてからだ」
「そうね」
 こわばった輪郭の横顔を見せながら、レイアは低くつぶやいた。「さっさと、そうしましょう。もう十分に長く生き過ぎたわ」
 ルギドは、何も答えない。
 ラディクはその横で、舷側にもたれて竪琴を掻き鳴らした。

 広遠なる大地
 朝もやの中で まどろむ
 一条の光 射し
 鳥はねぐらから舞い立つ
 ものみな黄金に輝き
 美しきかな わがティトス
 美しきかな わがティトス
 永久に 栄えん

 鉄道最南端の駅に最も近い港に、船は接岸した。皇帝一行とユーグは、ここから陸路で帝都に戻ることになっている。
「そういえば、まだこの船の名前が決まっていなかったな」
 下船するときエセルバートは、さりげなく重大事を告げた。「これは、あなたの船ゆえ、あなたが決めてほしい」
 ルギドは振り向いて、道連れたちを見た。ある者は微笑を返し、ある者は素知らぬふりをする。
 不安げな顔はない。皆、旅立つ心構えはできているようだ。
「それでは」
 威厳を持って、魔族の王は大声で宣言した。
「この船を、【うるわしのティトス】号と命名する」


 南への旅は、太陽とともにある旅だった。
 日いちにちと真上に近づく太陽から照りつける日差しは、甲板にわずかな影しか落とさない。
 ジュスタンとラディクは水兵たちに混じって帆を張り、錨の綱を巻き上げているうちに、手のひらまで真っ黒に日焼けしていた。さすがにエリアルとレイアはパラソルの陰に隠れる気づかいを忘れず、ルギドは、それ以前に甲板にさえ出てこない。
 銅板のような朝日が東から昇って、灼熱の溶鉱炉で燃えさかり、ふたたび冷えて西に沈むまでの時間は、シャツ一枚で過ごしても暑いほどだった。
 陽が沈んだ後は心地よい涼風が訪れる。満天の星が、ぐるりを取り囲む水平線の端々まで丹念にちりばめられ、短い夜を彩った。
 ラダイ大陸の最南端の岬を過ぎてからは、いくつかの群島が浮かぶだけの深い藍色の海が、来る日も来る日も続いた。
 最初のうちは石炭を燃やし、蒸気タービンがフル稼働してスクリューを回して進んでいたが、幸運にも北からの風を捕らえるようになってからは、マストの帆桁に帆をいっぱいに張って、風の力を最大限に利用した。鉄の竜骨で組んだ細長く頑丈な船体は、まるで空を飛ぶような勢いで進んでいく。
 目標物がない海では、船が一日にどれだけ進んだかわからない。航海士が太陽や星を六分儀で測定して、位置を知る。航海長が海図に書き込み、翌日の進路を決定する。魔導士のジュスタンは目を輝かせて、熱心に天測術を学んでいた。
 船長室のチャートテーブルには、巨大な海図が張りつけられている。
 ティトス大陸付近のくわしい図の下の部分は、ほとんど空白だった。それでも、今通っている群島あたりまではかろうじて書き込まれているのは、遠い昔、まだ蒸気船も発明されていなかったころ、すでに勇敢な船乗りがここまで訪れていたのだろう。エセルバート帝が、図書館に命じて国じゅうから探し出させた、貴重な海図だった。
 それだけではない。この船には、新世界への旅に関連があると思われる、ありとあらゆる古書や伝承が同時に集められていた。
 ルギドがデルフィアの宮殿で二ヶ月間も無為に過ごしていたのは、この準備が整うのを待つためだったのだと、エリアルはそれらの書物を手に取りながら、あらためて思い知る。
 ラディクは爪弾いていた竪琴も放り出すと、退屈そうにテーブルの縁に顎を乗せたまま、海図の上の駒をもてあそび始めた。
 白地図の上で、予備の駒を五つ、並べたりあっちへ寄せたりしている。
 ゼルがふわりと彼の肩に舞い降りた。
「何をしているんですか。ラディクさん」
「ん? ああ。戦闘配置をな」
「戦闘配置?」
「これが、ジュスタンとエリアル。こっちがルギドとレイア」
 部屋の隅で爪を磨いていたレイアは、ちらりとこちらを見る。ルギドは船長用の安楽椅子にもたれて、目を閉じている。
「なんだ、戦闘じゃなくて、ラブラブ配置図じゃないですか。で、こっちのひとりぼっちがラディクさん……あーっ。おいらは? おいらの駒は?」
「おまえは数に入ってないの。鳥だろ」
「鳥じゃありません、飛行族です。失礼しちゃう!」
 ラディクは笑いながら、二組の駒を交互に入れ替える。
「でさ、こういう組み合わせもありかなと思って。ジュスタンとレイア、ルギドとエリアルって」
「ふーん、なるほどねえ……」
 隅でお茶を飲んでいた皇女と魔導士も、聞いていないふりをしながら、しっかり耳をそばだてている。
 ゼルは小さな腕を組んで考え込む。「意外と、今のこう着状態を打破する名案かもしれませんねー」
「だろ?」
「ラディクさんとレイアさんっていう組み合わせも、ありですよねえ」
「あー、それはないな。祖母ちゃんと孫の関係だぞ」
「それじゃ、ラディクさんとエリ……」
 ゼルは、とっさに言葉をのみこんだ。ラディクが「それを言うな」という険しい目で彼女を睨んだからだ。
「そ、それじゃ、ラディクさんとルギドさま!」
「げっ」
「愛に性別はありません。紅い目同士のふたりが結婚したら、どんな目の色になるか、楽しみじゃありませんか」
「で、どっちが子どもを産むんだよっ」
「ル、ルギドさまには、不可能はありません!」
 とうとう堪えきれなくなったレイアは、体を折って笑い出した。


 甲板に登ると、満月が煌々と、行く手の海を照らしていた。
「いい気持ちですよ、姫さま」
 ジュスタンは船べりをつかみ、夜空を仰いだ。
「こうやって穏やかな日々を送っていると、わたしたちは本当に家族のような気がしてきます。ずっとこのまま、笑い合って生きていけたら、どんなにいいでしょう」
「ああ、そうだな」
 彼のよじり合わせた髪の長いおくれ毛が風になびくのを、エリアルは見つめていた。
 彼の言うとおりだと思った。このまま、皇女と忠臣の関係でいることは、どんなに楽だろう。争うこともなく、傷つけあうこともない。そして、恋しさに思い悩み、葛藤することもない日々。
「もう、以前のように私のことを『エリアル』と呼んではくれないのだな」
 隣に立つと、ジュスタンの肩がぴくりと揺れるのがわかる。
「すみません」
「責めているのではない」
「わたしは父を殺した人間です。そればかりではなく、心の傷に苦しむレイアに、その罪を押しつけるという二重、三重の罪を犯してしまった」
 ことばの滑らかさは、心の中で数限りなく自分の罪状を読み上げている証拠だった。
「心の傷とは?」
「レイアは子どものころから絶えず、父と兄の……性的暴力を受けていたのです」
「……そうだったのか」
 デルフィアの大浴場で、『私には、ひとりの男の妻になる資格はない――私は娼婦なの』とつぶやいたレイアの言葉が思い出された。
(もし、彼女がそのことでルギドを拒んでいるのだとすれば、なんと悲しい――)
「だからと言って今さら、レイアに罪滅ぼしをするなどというつもりはありません。そんなことをする資格も、わたしには」
 自嘲の笑みに唇を引きつらせながら、彼は顔をそむけた。「わたしはもう、たぶん一生、誰のことも愛せないのだと思います。愛したりしてはいけないのです」
「ジュスタン」
「ゆるしてください」
 逃げるように離れていく背中に、エリアルは引きとめる言葉を持たない。
 誰もが相手を思いやるあまり、一歩も動けなくなっている。
 それとも、この旅が、何かを変えてくれるだろうか。未知の世界を見れば、前に進むことを思い出せるだろうか。
(白紙の海図の上で駒をあちこちに動かしながら、ラディクはそのことが言いたかったのだ)
 冴え冴えと夜空に輝く月の光の中で、エリアルは舳先の向こうに待ち受ける海を、祈りをこめて見つめた。







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