その日の早朝、私は千葉の社宅で電話を受け取った。
主人はすでに、赴任先のバンコクで暮らし始め、私たち親子三人は追いかけて4月に転居することになっていた。
電話は、西宮の実母からのものだった。
「あれ。こんなに早くどうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ。すごい地震だったんだから!」
興奮した声。
本棚は倒れ、食器棚から皿やコップが飛び出して粉々になった。明るくなるのを待って、やっと動き出したという。
「そっちは何にもないの? 関東が壊滅してるんじゃないかと心配してた」
と母は言った。
電気もストップしてテレビなどの情報がまったく得られなかった当初、関東で大地震が起こって、その余波が来たのだと、母はひとりでやきもきと心配していたらしい(父はそのとき、中国へ出張中だった)。
それほどに「関西には地震が起きない」と当時は信じられていたのだ。だから、転倒防止金具を家具にとりつけたり、子どもに防災頭巾を用意したり、家に地震補強をするといった考えを、私は千葉に来て初めて学んだのだ。
「とりあえず、無事だから」
と、母の電話は切れた。
あわてて、テレビのスイッチを入れた私の目に飛び込んできたのは、崩れ落ちた高速道路の上でバスが宙ぶらりんになっている映像だった。そして、国道43号線に真横に倒壊している阪神高速。
つい、一週間前、帰省していた私はあの道を通ったのだ。
事の重大さにようやく気づき、受話器に飛びついた。同じく西宮にいる主人の実家。通じない。もう一度私の実家にかけたが、もうそのときは全く通じなくなっていた。
悪夢のような30分ほどが過ぎて、やっと主人の実家から電話がかかってきた。
「家の中が、さっぱりワヤや。下駄箱が倒れて玄関がふさがってしもてるし、柱も傾いてる。向かいの家は屋根があらへん」
義父の報告に、私は驚いて声も出なかった。芦屋に住んでいる主人の妹の安否を尋ねたが、まだ連絡が取れないという。
その直後、中国にいる父から国際電話がかかってきた。中国でも神戸の地震のニュースが入ってきたらしい。
母も主人の両親も無事であることを伝えると、「とにかく何とかしてそっちに帰る」。
それから、父の帰国への苦闘が始まった。
なんとか、飛行機の切符を手配し、昼過ぎの関空行きを見つけた。広いジャンボ機の中に乗客は4,5人しかいなかったという。
関空につき、とにかく大阪の天王寺まではなんとか電車が通じているとのことだった。天王寺に着いてみると、梅田行きの地下鉄が復旧したと知らされる。行く先々で情報を集めながらの旅。とにかく家へ一歩でも近づこうとした。
梅田で、タクシーを見つけた。主要道路を迂回しながらなら、行けるかもしれないと言われて乗り込んだ。
尼崎までは特に被害はないように見えた。武庫川を渡ると、景色は一変した。
「通行止めで、もうこれ以上は行けない」というタクシーの運転手に裏道を教えながら、ようやく甲子園の家にたどり着いて、母と再会を果たした。
母はとても冷静で落ち着いて行動していた。それまでに、家の中を掃除し、近所の市場でたった一軒営業を再開した店を見つけ、行列に並んでカップラーメンを買い込んでいた。水道は、マンションの隣の公園の蛇口から水が出たので、3階まで何回も往復して運んだ。
マンション自体はひび割れ程度で済み、まわりの景色も特に変わった様子はなかったそうだ。その時点で、これほどの大きな災害であるとは思っていなかったという。
甲子園は西宮の南東の端にあたる。同じ西宮市内でも、被害は地域によって全然異なっていたのだ。
西宮の中央部にあたる阪急沿線、特に夙川の周囲など活断層のライン上、主人の実家がある地域は、もっと悲惨な状況だったのである。