彩音にメールを送ったあと、すぐに実家の番号をダイアルした。 留守録に切り替わる。両親は私からだとわかると、絶対に受話器を取ってくれない。 「お父さん。お母さん。琴音です。ご無沙汰しています」 くじけそうになるのを堪…
月: 2012年8月
可憐な罠
弁解すれば、俺にとってアンジーとのキスは、動物の子どもが互いの毛を舐めるような、ごく自然な行為だった。 二週間、ひとつの完全な世界を創り上げるために、ともに苦闘した戦友同士。感謝と尊敬と。高揚と解放感と。 ほんの少…
暗夜回路
泣き明かした夜が終わろうとするころ、私は立ち上がり、明かりをつけて、アトリエの床に散らばった花を拾い集めた。花は無残に折れ、しおれていた。 「ごめんなさい、あなたたちに八つ当たりして」 自分だけが不幸だと思いこむ人は…
オレンジ色の人
アンジーはまず、俺の原画を下敷きにし、同じ色の部分だけトレースしていった。色調ごとに何枚もの版に分けるためだ。 できた版ごとに色を調合する。俺がアクリル彩色で塗った朝焼けを忠実に再現するために、ありとあらゆるオレンジ…
空中花
前触れなく、着信音が鳴った。 「彩音。今どこなの」 「ニューヨーク」 眠そうで素っ気ない返事に対抗するように、私は低い一本調子の声で問いかける。 「いつ帰ってくるの」 「当分は、ムリかな」 眼の奥がけいれんして、世…
沈殿都市
「これを、刷ってほしい」 勝負とばかりに、俺は描きあげたばかりの水彩画を、アンジーの前に置いた。 三日間ほとんどホテルに閉じこもって、ひたすら描いていた。この前、眠れずに街を歩き回ったときに目に焼きついた夜明けのセン…
ゆらりゆらら
昼休みに、若林さんから来たメールを開けてみて驚いた。彩音を残して一足先に帰国したという。 「どういうことなんですか」 なじるような調子になっている自分が止められない。 『版画の技法を学ぶために、もう少し滞在を延ばした…
不響輪音
「シルクスクリーンは、セリグラフとも呼ばれ、アメリカが発祥の地なんだ。アンディ・ウォーホールは知ってるだろう」 「知らない」 高校で芸術コースとか通ったけど、行ってもほとんど寝てたもんな。親父の家にも、現代美術の本は置…
読書の残骸
どうしても眠れないので、本を読むことにした。 はらり。 ページを繰る音が好き。一枚めくるたびに、違う世界へ行けるような気がする。過去あるいは未来へ。それとも、どこにもないステキな場所へ。 けれど、今はその恩恵も受…
飛行船群の襲来
アメリカへ来て、もう二回も飛行船が空を飛んでいるのを見た。 最初はたまげた。俺は子どものころ引きこもりだったから、生まれてから今まで一度もそんなものを見たことがなかったのだ。 真っ青な空に目がつぶれるくらい鮮やかな…