テレビが宙を飛ぶ。額が落ち、台所では冷蔵庫がばたりと倒れ、仏壇から位牌が転がり落ちた。
一階で寝ていた主人の両親は、その中で立ち上がることすらできなかったという。
揺れが収まったあと、ガラスを踏まないようにと、とにかくスリッパを探して玄関へと出ると、下駄箱が横倒しになり、扉が開かない。
ようやく外に出ると、街灯も何もないまったくの暗黒。
少しずつ近所の人々が外に出てきた。
向かいの家にひとり暮らしをしている男性がパジャマのまま震えていた。
夜明けの光の中、義父は彼の家を指差した。「あ、お宅、二階がおまへんやん」
なんと、二階部分が横すべりを起こして、路地に倒れこんでいたのだ。
「あ、ほんとや。ありまへんなあ」と彼はそのとき初めて気づいて、びっくりして答えたそうだ。
阪急の夙川付近は、西宮でももっとも被害のひどい地域のひとつだった。
主人の実家のすぐ近所でも、2階部分が崩れ落ちて1階で寝ていた3人が死亡。同じ町内の文化アパートでも、一階部分で二人が生き埋めになった。
救助したくても、何もできない。警察署まで行って訴えた人がいたが、クレーンやジャッキがないので、なすすべがないという答えだった。
その日、あたりは異様な静寂に包まれていたという。近所のコンビニが、ひとり2点までという制限つきで店を開けてくれた。人々は押し合うことも怒鳴りあうこともなく、ただ静かに列を作った。
私はその頃、千葉の社宅で受話器にしがみついていた。
主人の家にも私の実家にも、こちらからまったく連絡が取れない。私も主人もほとんどの親戚は阪神間にいる。安否はなかなかわからなかった。
タイのバンコクに赴任していた主人から国際電話がかかった。西宮の家へなんとか電話が通じたという。交換手を通じた電話回線は優先扱いになるらしい。
芦屋にいる主人の妹一家に連絡を取ってほしいと頼んだ。ほどなく無事が確認できたが、家は全壊だった。住居のニ階部分がすっぽりと無人の一階にすべりおちて、全員助かったのだそうだ。
主人の実家も大きな被害を受けていた。どの部屋も足の踏み場もなく、柱は傾き、ニ階へ上がる階段はゆがんで空間ができていた。ニ階は転勤になる前まで私たちの住んでいたところだ。
「もし、あんたたちが二階に住んでいたら、家はどうなったやろう」と、義父は今でも口ぐせのように言う。
ニ階は家財や人間の重みで崩壊し、一階に寝ていた義父母を押しつぶしていたかもしれない。
夜になると、長田区の火災現場がテレビに映し出された。長田は私の両親の生まれた場所だった。なじみのある土地が炎に飲み込まれていくのを見ながら、私は祈ることもできずに、ただ泣くしかなかった。
6400人あまりの命を奪った阪神・淡路大震災。奇跡的に私の親族や直接の友人に亡くなった方はいなかったことは、ただ感謝するしかない。
家を失い、風景は変わっても、人がいれば、そこは元どおりの故郷だ。しかし愛する家族を亡くされた方の悲しみは10年という歳月さえ癒せるものではない。
亡くなられた方々とそのご家族のために、心からお祈りいたします。