私が日記をブログに移行しようと思った一番の理由は、ブログには「カテゴリー」というものがあることでした。今までは身辺雑記やサイト情報を書いているだけで、すぐにネタに詰まってしまいました。ブログなら、いろいろなテーマをコラム風に連載することができると思ったのです。
で、クリスチャンであることが自分の重要なアイデンティティのひとつである私は、「クリスチャン」というカテゴリーを作ることにしました。そしてせっかく連載するのなら、「旧約聖書」をテーマにしたいのです。
旧約聖書は難解で、クリスチャンでも敬遠する人が多い書物です。「あれはユダヤ教の教典だから、キリスト教とはまったく異なるものだ」という考えを持つ人もいるくらいです。しかし、事実は新約と旧約ふたつ合わせて、ひとつの聖書なのであり、旧約を読まなければキリスト教は理解できないのです。
というわけで、旧約聖書を肩のこらない読み物風にアレンジして紹介できたらと願っています。
万が一、肩が凝ってしまったらごめんなさい。
初回はやはり、創世記。
そして、創世記1章1節「初めに神は天と地を創造した」から始めるべきでしょう。
しかし、しょっぱなから、ひっかかってしまうことになります。ここからずっと、進化論と相反する記述が続くからです。
「神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。
それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた」(創世記1:11、12)
聖書特有のしつこい描写ですが、この調子で水の生き物、空の鳥、地の獣、最後にヒトという具合に創造が進みます。
ところが、ここでイヤというほど出てくる「おのおのその種類にしたがって」ということばは、明らかに進化論の説明する進化の過程とは根本的に異なっているのです。
そして、私はこの聖書の記述を信じています。つまり、進化論を信じていないことになります。
これを読んで、なんと無知蒙昧なと、びっくりする方もあるでしょう。クリスチャンでない方はそうですが、クリスチャンでもそう思う人は多いはずで、「やっぱりBUTAPENNはコチコチの保守的エバンジェリカルだったか」と思われるでしょう。
私の乏しい経験から言うと、クリスチャンの半分は、この聖書の示す純粋な創造論を信じていません。
「進化のプロセスの背後に神の御手が働いているだけだ」という考え、いわゆる「創造的進化論」が、特に日本では主流なのです。
日本ではと言いましたが、欧米では神の創造を科学によって証明しようとする人々の活動は決して小さくありません。これを「創造科学(科学的創造論)」と呼びます。この説の詳しい説明は、Script1のTERUさんのエッセイ「神さまの証明」を読んでいただくのが一番わかりやすいでしょう。
ところで、私はこの「創造科学」というものを、否定はしないが、実はあまり賛成もしていないのです。
科学とは人間の目に見える領域を証明するものであり、一方、「信仰とは……目に見えないものを確信させるものである」(ヘブル人への手紙11:1)。
どちらが優れている云々ではなく、取り扱う領域が違うのです。
したがって、創造論を科学的に証明しないと自分の信仰が保てないという人は別にして、私個人としては、聖書の記述を科学的に証明する必要を感じていません。
もし神が人間を越える存在であるなら、その神について書かれた聖書を、人間の理性ですべて証明することは不可能でしょう。
また、「神が人間となって地上にくだり、人間の罪のために十字架にかかった」という、理性では捉え難いことを、みずからの人生の事実としていったん認めるなら、他の何物も信じられないものはないわけです。
このあまりに非合理的な考えを、私は知識としてではなく感覚として体験しました。
子どもを出産することによってです。
9ヶ月前までは影も形もなかった命が、時を経てひとりの人間としてこの世に産み出される。この神秘的な事実を、私は神の創造のわざとして受け止めるしかありませんでした。
自作小説「セフィロトの樹の下で」の中で、ロボット工学者とロボットとのあいだで、こういう会話を交わさせました。
「混沌の中から秩序は生まれる。アミノ酸のスープをかき回したら生命が生まれたようにね。ガラクタをかき回したら、心のあるロボットができたというわけだ」
「ひどい侮辱を受けているような気がします」
このロボットの答えが、私の信仰をあらわしています。
人間とは、偶然にできたにしては崇高すぎる存在です。しかし同時に、進化したにしては愚かすぎる生き物でもあるのです。