沖縄の歴史
「沖縄県には大きな公文書館があるんですよ」
と、私たちを空港から乗せてくれたタクシーの運転手が、教えてくれました。
「他県にはない公文書館が沖縄にあるのは、沖縄が戦後「琉球政府」という、日本から見ると外国だったからです。だから、アメリカや日本と交わした外交文書が多数存在するのです」
少し誇らしげだと感じたのは私の気のせいかもしれません。でも、沖縄県民の中に今も自分たちの文化に対する誇りがしっかりと根づいているように思えます。
それ以前にも、沖縄は15世紀から19世紀まで「琉球王国」という独立国でした。沖縄の中には多数の城(グスク)跡が保存されており、そのタクシーが連れて行ってくれた読谷(よみたん)村の座喜味城跡も、15世紀初頭、琉球王国統一の頃の城跡で、他の城跡とともに世界遺産に登録されています。
しかし、沖縄の歴史と言えば真っ先に思い出すのが、やはり第二次世界大戦末期の「沖縄戦」と呼ばれる地上戦でしょう。1945年の3月から7月までの90日にわたる戦いで、日本軍・米軍・一般住民合わせて20万人が亡くなったといわれています。
米軍はまず、沖縄中部西岸、ちょうど私たちが宿泊した北谷町のあたりの海岸から4月1日上陸しました。「鉄の暴風」と言われるほどの圧倒的な戦力による攻撃で、日本軍も住民も南へ南へと撤退し、首里以南の南部戦線において多くの犠牲者を出しました。現在、ひめゆりの塔や摩文仁の丘など南部に戦跡が多いのはそのためです。
沖縄戦において、日本軍は本土上陸を少しでも遅らせるために、壕を掘り、持久戦に持ち込もうとしました。
沖縄の地上戦は、実は悲惨な地下戦でもあったのです。
旧海軍司令部壕
地元の牧師の運転するワゴン車に乗せていただいて出発した、「南部戦跡めぐり」。
まず訪れたのが、那覇の南東、豊見城(とみぐすく)市の「旧海軍司令部壕」でした。
ここは、450メートルにも及ぶ地下陣地で、穴を掘りコンクリートと杭木で固めたかまぼこ型の通路が縦横に張り巡らされ、発電機も備えられた広い壕です。しかし4千人もの兵士が収容され、下士官は通路に横たわるか、立って寝るしかありませんでした。この壕から彼らは、外に出たら決して無事では戻れぬ地上への戦闘に出撃していたのです。
米軍の猛攻を受け、敗北を決定的にされた6月13日、司令官大田實海軍少将らは自決を遂げました。その直前に司令官が打った海軍あての電報の一節、
「沖縄県民カク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」
という文はあまりにも有名です。
資料室にある、妻子を思いやる一兵士の手紙には、涙を禁じえませんでした。彼らも故郷ではよき夫よき父であったはずなのに……。
このように悲惨な戦争の現場を見て、声もない私たちでしたが、そこでさえもマシだったと思えるような戦跡を、その日は見ることになります。
少し長くなったので、戦跡めぐりの後半は後日アップしたいと思います。
butapenn様へ、中山です。私のブログサイトへ御連絡頂き、誠に有り難う御座います。どうやら同年代の女史の御方ではないかと思いましたが、旦那様との沖縄旅行の記事を興味深く拝読いたした次第です。また、ユニークな小説も今後の御発展を期待しております。私自身は開高健氏の影響を多分にうけている売れない文士であろうかと自負いたしておる所存です。これからもおつきあいください。
中山さん、いらっしゃいませ。
拙ブログの記事を熟読くださいまして、ありがとうございます。
物書きを自負する者同士、これからもよろしくお願いいたします。
同年代とは何をおっしゃいます。人生の経験値豊かな博士に比べれば、私などまだまだ若輩者でございます。
ベンツを駆って、アウトバーンスピードで後続車をぶっちぎる日々でいらっしゃるとか。くれぐれも気をつけてお出かけください。