今週はずっと「夜叉往来」を書いていました。京都修学旅行編。京都のいろいろな場所を舞台として夜叉を追うストーリーです。その中で実際に取材したのは嵯峨野だけ。あとは全部インターネットで検索して情報を集めています。
なまじ兵庫県に住んでいて、その気になれば京都へは日帰りで行けるだけに、やはり取材に行ったほうがよいのではと思うことしきり。もしこれがドイツとかだったら、潔くネット情報だけで書けるんですけどね。
実際に行った場所では、「緑の色はどうだったか」「道は登りだったか平坦だったか」そんな感覚的に細かい描写までできます。もっともあまり書き込みすぎて、くどくなってしまう恐れもあり、私のような素人作家では、むしろ取材しないほうがストーリー中心に進められるのかもしれません。
さて前置きが長くなりましたが、今日は真言陀羅尼について。
ごぞんじのように、「夜叉往来」では、夜叉追いが唱える真言陀羅尼が重要な役割を果たしています。真言と陀羅尼はほぼ同じ意味で、「真言」は原語の意訳語、「ダラニ」はその音写訳らしいです。
私はもっぱら「真言陀羅尼」(平河出版社)をタネ本と使っています。真言のことならほぼ網羅した、真面目な学術書です。
仏教の壮大で難解な理念は、私ごときではとうてい理解することはできないので、表面的な意味だけすくいとって使わせてもらっています。たとえば、第六話に出てきた天鼓雷音如来の真言などは、語感から連想して、電波に関係する場面に使いました。
こんなふうにファンタジーの魔法のような使い方をするのは、私が仏教徒でないからできることかもしれませんね。
もっとも、仏教信仰の中でも、真言をおまじないのように使うことがないわけではありません。安倍晴明や陰陽道などで有名になった「アビラウンケンソワカ」という真言は、もともと地・水・火・風・空の五大要素を表すことばですが、歯痛用のおまじないとしても用いられているそうです。
真言を小説に引用するとき一番困るのは、ことばがあんまりカッコよくないということです。
夜叉を祓う場面に意味がぴったりだなと思われる真言でも、「トコニヤ・モコニヤ・チョボニ・タンボニ・オボキ・モコシ・フンジャリ・ホンジャリ……」と続くと、ああ、使えない。少々意味は犠牲にしても、かっこいい真言を優先したくなります。
でもあるときは、短くてかっこいい真言だと思ったら、修行者の隠所(つまりおトイレ)作法の真言だったということもありましたよ(涙)。