このコラムは、「ブログコラムス」で「BUTAPENNのTIPS for American Life」というタイトルで連載していたものです。「ブログコラムス」が現在休止中なので、今までの5回分(掲載4回、未掲載1回)を再録していきます。
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第二回「学校へ行こう!(1)」
私がカリフォルニア州に滞在していた頃は、日本はバブル真っ最中だった。どこそこの会社がアメリカの有名なビルディングを買ったとか、そんな景気のいい話が飛び交い、日本からの駐在員もぞくぞくとアメリカに押し寄せていた。
ちなみに帰国前年にバブルははじけ、とたんに駐在員の数は激減した。当時もてはやされた日本の国際化なんて、それくらいのものだった。企業も政府も目先の景気に左右され、全然長期的視野に立っていない。
アメリカに来る日本企業駐在員の多くは若い夫婦で、幼稚園や小学校低学年の子どもを連れていた。もちろん我が家も例外ではなく、赴任当時に二人の息子は3歳と5歳。
そうなると、まず一番の難関は、子どもの幼稚園、小学校選びである。うちの子どもは、行った年の9月から下が幼稚園、上が小学校のキンダー(5歳児クラス)に該当した。
ロサンゼルスのような大都市近郊には、日本人学校というものがちゃんとある。しかし、95%の親は、子どもを現地校に入れる。子どもに英語をマスターさせ、バイリンガルにするための絶好の機会だからだ。
私立幼稚園(ナーサリースクール)は、原則は親が送り迎えするものだから、とりあえずよい幼稚園を見つけるために遠くまで東奔西走することになる。日本人同士の情報網を使い、近所のアメリカ人に尋ねまくる。私はクリスチャンなので幼稚園は教会付属と決めていたが、近くは満杯。ちょっと遠いが、トーレンスの隣のレドンドビーチ市によいところが見つかったときは、とにかくうれしかった。
そして小学校。日本と同じで校区というものが決められているから、学校選びは即、家選びである。家探しは半年前に単身赴任していた夫にまかせるしかない。彼は赴任当初、休みという休みは、全部不動産屋回りに費やした。平日は慣れない環境での激務。休日は家探し。疲れ果ててホテルのバスの蛇口を出しっぱなしで寝てしまい、部屋中を水浸しにしたという笑えないエピソードまで作った。
アメリカでは学校ごとに決まった教育税というものが校区内の住民の不動産ごとに課せられる。教育税の高いところは学校の質がよいということになり、コミュニティのステータスが高いということになり、みなこぞって住みたがる。教育税分が含まれるから賃貸家賃も高い。その代わり、地元住民が教育に物申すことができる。教育のローカルコントロールである。
余談だが、アメリカ人はコミュニティのステータスということにとにかく並々ならぬ関心を持っている。ステータスが高ければ自分の家の地価が上がるからだ。そのために家にペンキを塗り、前庭の芝生を青く保つのは住民の義務なのだ。芝生にタンポポが生えていたというだけで、近所の人から怒鳴り込まれたという話も伝わっている。
日本人駐在員には、小学校探しに際してもうひとつの条件がある。日本人が少ないということだ。
学校に日本人が多ければ、子どもたちは話の通じる日本人同士で固まってしまう。子どもはその方が楽しいのだが、そうするとなかなか英語を習得しない。
またカリフォルニアの法律では、一学年に一定以上の同じ外国語を話す生徒がいる場合、その子たちのための特別のバイリンガルクラスを作り、二ヶ国語で授業をすることが定められている。そうなるとますます英語を覚えない。だから、日本人は少ないほうがよいのだ。
かの国に大挙して押しかけておいて、明らかに矛盾した話だ。親のエゴだ。
短い滞在期間で英語はすぐにペラペラになれ、しかも漢字も九九も絶対に忘れてはならないと口を酸っぱくして教え込む。膨大な漢字ドリル、計算ドリルを与える。そうでないと帰国したときに困るから。イジメられるから。
私たちは心ならずも、そういうことを子どもに強要した。子どもはたまったもんじゃない。体はアメリカにいながら、目は半分日本を向いている。帰国子女へのイジメが国内でも話題になっていた頃なので、ぴりぴりしている。親がそういう心構えでは、子どもに英語を覚えろというのは無茶である。日本のことをすべて忘れて現地の生活をエンジョイしなさいというのは、当時は無理な話だった。
「子どもはことばを覚えるのが速いから、すぐにペラペラになりますよ」
とよく聞かされたが、実情はそんなものではない。
最初の1年は、大混乱の時期だ。教室にいてもまったく先生や友だちの言うことがわからない。自分のことを主張することもできない。表面上は簡単な日常会話程度はすぐ話せるようになる(しかもカンペキな発音で)ので、親は安心してしまう。だが、英語を使いながら脳の中で本当に混乱なく思考できるようになるまでには、3年はかかる。それなのに、ほとんどの日本人駐在員の子女は1年から5年で帰国してしまうので、それこそあっというまに英語を忘れるのだ。次男は帰国して3カ月で英語がしゃべれなくなった。何のために苦労したのかわからない。
現場の先生も大変だと思う。やっと英語でコミュニケーションができるようになったと思えば、平均3年で帰国。また全然わからない子が交替でやってくる。
私たちのコミュニティには多くの外国人が住んでいた。香港、韓国、台湾、エジプト、アルメニアなど、国もさまざまだ。でもほとんどは、アメリカの市民権を得て永住することを目的にして暮らしている。入れ替わりが激しいのは日本人だけだった。
「日本人の子どもは教え甲斐がない。すぐに日本に帰ってしまうから」
それが一部の先生たちのホンネだと聞いた。それでも彼女らの大多数は、わけ隔てなく日本の子どもに愛情を注いでくれた。
アメリカの教育制度にも社会にも多くの問題がある。けれども、全然ことばのわからない外国人の子どものことを教師が「I LOVE YOU! I’M PROUD OF YOU!(あなたが大好き。すばらしいわ)」と(たとえタテマエでも)受け入れてくれることに、私は一生忘れないほどの深い感銘をおぼえたのだった。
さて、めでたく家も決まり、長男が小学校に通い始めた。入学の前に校長による簡単なインタビュー(知能検査を兼ねた面接)があるのだが、日本語を話せる教師が同席してくれ、問題なくパスした。
またまた余談になるが、この面接では、不合格になる子もたまにいる。そうすると一年間入学を延ばされることになる。また学齢に達しているのに、親の意向でわざと一年、入学を延ばす子どももいる。特に9月から12月生まれ(日本で言う早生まれになる)の子どもは、1年入学を延ばせば知能的・身体的に同じクラスの子どもより有利になるからだ。日本ではそういうことは許されないと思うが、アメリカでは許可される。それ以外にも、先生と合わないからクラスを変えてくれ、などという要求をぽんぽん出す。自分を主張することが当たり前の国なのだ。
アメリカは州ごとに学校制度が違うが、カリフォルニアのこの学区の場合は、小学校はキンダーガーテン(5歳児クラス)から5年生までの六学年。中学校は6年生から8年生まで、9年生から12年生までが高校である。キンダーは小学校の中でも別棟で囲いがあり、遊具つきの専用の庭もあって、ちょうど小学校付属幼稚園という趣きである。
9月から新学年スタートだが、入学式も始業式もない。数週間すると、オープンクラスという夜のミーティングが開かれる。いわゆる授業参観であるが、子どもの授業風景を見るのではない。単語や計算問題のプリントを綴じたバインダーや水彩画などの展示物を見て、あとは先生とコーヒーを飲みながら話すだけだが、働いている人も夫婦そろって行けるのがいい。
ところで、ここの学校にはクラスごとに教師とパートタイムの補助教師がいて、それ以外に「クラスマザー」がいる。
クラスマザーとは、要するに教室のお手伝いのボランティアのこと。教師だけでは手が回らない部分を保護者が手伝うのだ。することというのは、計算問題をやっている子どもの横で教えたり、プリントのマルつけ(ただし○ではなくV印)、子どもの描いた絵の掲示、水彩絵の具の補充、工作教材や掲示物の制作、など。高学年ではもっと高度なことをしているのだろうが、うちの子は低学年なので、この程度である。ことばが通じなくてもできることばかりなので、さっそく私も週一回やることにした。
「今日はクラスマザーに行くからね」と言うと、息子たちはうれしそうな顔になる。母親である私自身も、子どもが外国語の中でどんなふうに過ごしているのか見たい。結局このクラスマザーは滞在中ずっと続けた。
【おことわり】 この情報は十年ほど前のものであり、現在は変わっている場合もあります。また、アメリカは州によって大きく事情が違うので、その点ご了承ください。