このコラムは、「ブログコラムス」で「BUTAPENNのTIPS for American Life」というタイトルで連載していたものです。「ブログコラムス」が現在休止中なので、今までの5回分(掲載4回、未掲載1回)を再録していきます。
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第三回「学校へ行こう!(2)」
うちの息子たちが通ったアメリカの公立小学校は、開かれていた。
文字通りの意味で、鍵のかかった校門もなかったし、ごつい体の警備員もいなかった。治安の悪いと言われるアメリカで、これだけ無防備なのは不思議なほど。
保護者たちも「教室を見学したい」といえば、すぐ招き入れられた。ボランティアのクラスマザーも交替でいるし、「今日はうちの子の誕生日なので、クラスでお祝いしてほしい」と言って、カップケーキやアイスクリームやジュースを持参して配るお母さんも多かった。
とにかく、教室に教師以外にいつも誰かがいる。私はこのシステムはとてもよいと思う。今、日本で問題になっている「いじめ」「学級崩壊」を食い止める力は、地域社会が学校に関わることだと言われる。親がまず、教室でのわが子を普段から見つめることが、教室の密室化への歯止めになると私も思っている。しかしこんなことを日本で言うと、大反対になることは目に見えるようだ。教師は、面子がつぶれ、子どもの気が散って授業が進まないと反対するだろうし、母親は、働いているのでそんな暇はありませんと訴えるだろう。アメリカにも、フルタイムで働いているお母さんは多い。そういう人は、夜のPTAミーティングのお手伝いをしたり、週末にクラスで飼っている生き物を家に持ち帰って世話をするという方法で、参加していた。
男性たちも、直接学校の授業には関われなくても、地域のリトルリーグやサッカーチームのコーチとして参加する。まだ日の明るい夏時間の夕方5時。サラリーマンがその時間にグラウンドに駆けつけることができることが、11時過ぎないと帰宅しないワーカホリック日本人駐在員の妻たちには、とても不思議だった。
私たちが滞在していた頃は日本のバブル末期だったが、アメリカは反対に未曾有の大不況で、学校の予算もどんどん削られていく頃だった。
なんと遠足の予算まで削られてしまい、子どもたちは遠足に行けなくなったのだ。そのとき、 校長はPTAに援助を求め、PTAは学校でバザーを開いて、遠足費用を捻出したのである。
学校は社会のもの。だから、学校活動に参加することは社会人の務め、という土壌がアメリカにはあった。そしてそれを率先して行う人は尊敬の対象だった。
少し毒吐きモードになるのをお許しいただきたいが、日本に帰国して同じようにPTAに関わろうとしてショックを受けたのは、日本ではPTAや地域活動に関わるのは、「抽選でいやいや」もしくは「そういうことが大好きな、めだちたがりの人」だと思われていたことだ。
学校は一部の人のものではない。自分の子どもが一日の大半を「生きる」場所だ。時間がないから、興味ないから、で済まされる軽い場所ではないのだ。
さて、アメリカの教育システムも良いところばかりではない。教師は安月給である。有体に言って、日本に比べれば教師の質は決して良くない。
のんびりし過ぎてるなあ、というのが私の第一印象。体育の時間と言っても、跳び箱もマット運動も鉄棒もない。ただグラウンドでボール投げをしているだけ。おいおい、みんな遊んでるだけだよ、という授業だった。音楽の時間も歌うだけ。それもそのはず、音楽の専門教師は数校かけもちで、週に数時間、高学年の希望者にフルートなどの楽器を教えるだけだった。
教室での授業も、低学年は日本に比べればのんびりしている。私はこれは、日本語と英語の違いのせいだと思う。日本人は小学一年生になると、いきなり、ひらがな・カタカナ・漢字(1年ではおよそ80字)を習わねばならない。ところで欧米では、アルファベット26文字で事足りるのだ。もちろん、英語にもスペリングなどという厄介なものはあるのだが、この文字数の差が、低学年の授業の進度に与える影響は大きい。
算数はたいてい、日本から来た子どもがトップを取ることが多い。親の教育熱心もあるが、日本人は九九という計算システムを持っていることをまず誇るべきだと思う。ただし気をつけなければいけないのは、アメリカでは掛け算は12の段まであることだ。12×12=144まで覚えないといけないので、あわててしまう。
ところが油断してはいけない。次第に学年が進むにつれて、加速度的に高度になるのだ。2年生になると、「アメリカの歴代大統領について、レポートを書いてきなさい」という宿題が出た。当たり前のことだが、英語で、である。私はそれを聞いて蒼白になって、子どもを連れて図書館に走った。図書館の本をほとんど丸写しで、なんとかリンカーンについてのレポートを数ページにまとめさせた。
外国人だから余計に、英語で書くのが大変だったこともあるが、よく考えれば、日本では2年生程度で「豊臣秀吉」や「徳川家康」についてのレポートを書かせるだろうかと思う。
3年になると「理科の自由研究」のレポートの宿題が出た。うちの子は3年生で帰国したが、日本人子女がもっと高学年になると、学校の宿題は親の手にも負えなくなり、家庭教師を雇って教えてもらうところが多かった。自分で調べ、考えをまとめて小論文にするという訓練を、アメリカの小学生が低学年のうちからやっていたのは、驚くべきことだった。
前回にも書いたが、英語をひとことも話せない外国人児童を教育することは、受け入れる学校側も並大抵ではない苦労が伴うと思う。
しかし、移民の国であるアメリカはそういうことに比較的慣れている。「ESL=English as Second Language」というプログラムがあって、英語を母国語としない生徒の教育に組織的にあたっていた。普段は他の生徒といっしょに授業を受けるが、決まった時間になると、ESL専門の教師に別室に連れていかれ、ほとんどマンツーマンで英語の初歩の教育を受ける。
この「取り出し授業」とも呼ばれるスペシャルプログラムは、アメリカの学校のあらゆる場面で見られる。英語がしゃべれないESL児童も、学習障害の児童も、また特定の分野において優れた才能を持っている児童も、個別の「取り出し授業」を受けることで、普段は他の子どもたちと一緒のクラスにいることができる。
またまた余談になるが、「スペシャル」という英語が私はとても好きだ。日本語に訳した「特殊」「特別」ということばにはマイナスイメージを抱いてしまうのだが、「スペシャル」にはもっと積極的な意味があるように思う。
たとえば、誕生日を迎えた子は、その日一日「スペシャルパーソン」と呼ばれて特別扱いをしてもらえる。列に並ぶときも一番前になることができる。そして「スペシャル」であることを楽しむのだ。
「みんな同じでなければならない、同じでなければ不公平」、とは教えない。誰もがスペシャルであるし、スペシャルになりうる。障害でも才能でも、同じようにスペシャルと呼ばれる。
人種間の差別さえいまだに根強く残っているアメリカの現実を見るとき、それは絵空事であり、理想にしかすぎないかもしれない。でも教育の現場では、理想が堂々とまかり通らなければならないはずだ。
日本はこの数十年、「競争を廃し、すべてに公平を期す」教育を推進してきた。その結果、子どもたちはスペシャルであることを恐れ、スペシャルであることを互いにイジメの種にするようになっている。私はそれを、憂うべきことだと思う。
さて最後になるが、学校は子どもだけのものではない。アメリカには大人が通う学校、すなわち「アダルトスクール」というものがある。
市の経営によって各所に設けられていて、市民は自由に参加することができる、授業料も安い。
シニアシティズン(高齢者)はタダ同然。
クラスもさまざまあって、大人向けの公式のESLクラスから、エクササイズ、パッチワーク、トールペイントなど、いわゆる市営カルチャーセンターの趣も持っている。
私も時間の許すかぎり、ここを目一ぱい利用させてもらった。4年間ずっと通い続けたジャズピアノのクラスは、白髪のシニアシティズンばかりだった。全然楽譜が読めないのに、皺だらけの手で20年代のジャズをポロポロンと弾くおじいちゃん。粋でカッコよかった。言葉の話せない外国人の私が演奏すると、大喝采してくれた。朝鮮戦争に従軍したときの、日本の記憶を懐かしそうに話してくれる人もいた。
私にとってアダルトスクールは、かけがえのないアメリカの思い出である。
【おことわり】 この情報は十年ほど前のものであり、現在は変わっている場合もあります。また、アメリカは州によって大きく事情が違うので、その点ご了承ください。