ご存知のように、私は「ABOUNDING GRACE」という小説サイトを運営しています。
恋愛、ファンタジー、SF、和風伝奇と、節操もなく多ジャンルの小説を書いていますが、ひとつだけこれだけは書かないぞ、という心に決めたテーマがあります。
それは、「不倫」。
主人公が不倫をして、その結果不倫相手と結ばれたり、離婚したりするという小説は絶対に書かないと決めているのです(ただし、登場キャラのひとりが不倫した、という小説ならあります。たとえば、短編「暁色」は父親が不倫し、その結果の苦しみを背負っている主人公を書いたものです)。
今手がけているコラボ企画(続きをアップせずに、ずいぶんお待たせをしていますが……)「ビスケット&ドーナツ」のドーナツサイドの主人公、「不倫願望」を持つ香澄を描くのは、私にとっては自分の殻を破る大事件。まさにこのポリシーとのせめぎあいでした。もちろんポリシーを破るつもりは毛頭ありませんので、この小説の結末は健全な方向に向かう予定です。
去年末に終わった日曜9時の「恋の時間」は久々に毎週かかさず見たドラマですが、ふたりの姉妹のお話でした。婚約者のいる元恋人との情事を寸前で思いとどまった姉には好感を覚えたものの、その妹は不倫の末、結局ふたりの子どもを残して夫と離婚、不倫相手と結ばれてしまったという結末が大ショックで、後味の悪いことこの上ありませんでした。
なぜ私はそれほど不倫を毛嫌いしているのか。自分自身がひとりの妻として夫の不倫が赦せない、という、いわば保身的な理由ももちろんあります。でも何よりも、私がクリスチャンであるということが大きく関わっているのです。
実は、ある人とのメールのやりとりの中で、ひとつの質問を受けました。それは、
【「不倫=犯罪」なのでしょうか】というものです。
この場を借りて、クリスチャンとしての立場でお答えするなら、答えはイエスです。「不倫は文化」などでは全くなくて、立派な罪です。
「罪」という英語には2種類あって、ひとつは社会によって裁かれる罪「crime」があります。これには刑法による罰則規定があり、懲役や罰金によって償うことが可能です。もうひとつはもっと深い、魂が犯す罪「sin」があります。これは死をもってしか償うことはできません。
不倫は、間違いなく「罪=sin」です。
キリスト教的な言い方では、不倫は「姦淫」と呼ばれます。「姦淫するなかれ」というのは、旧約聖書の「モーセの十戒」の第七戒にあたります。
キリスト教というのは「契約の宗教」と呼ばれるほど、神と人間の契約を大切にします。
「聖書」には「旧約聖書」と「新約聖書」がありますが、この「約」は「翻訳の訳」ではなく、「約束の約」です。「古い約束が書かれた聖書」「新しい約束が書かれた聖書」という意味です。
神が人間に与えた最初の約束とは、「私の命令を守りなさい。そうすればあなたは幸せになる」というものでした。
ところが、人間というのは約束を破りたがる性質があるようで、最初の人間アダムとエバはしょっぱなから、神との約束を破ってしまいました。食べてはならないといわれた「善悪の知識の木」の実を食べてしまったのです。
人間の歴史とは、何回も神と約束を交わし、そのたびに人間の側が一方的に破るという歴史でした。
神はそのことを嘆いて、「結婚したのに、ほかの男と浮気する姦淫の女」に人間を喩えています。
「あなたがたの母をとがめよ。とがめよ。
彼女はわたしの妻ではなく、
わたしは彼女の夫ではないからだ。
彼女の顔から姦淫を取り除き、
その乳房の間から姦通を取り除け。」
ここに引用したのは、旧約聖書のホセア書という箇所です。
神は、人間に対する愛と裏切られた苦しみを教えようと、預言者のひとりであるホセアに命じて、不倫願望バリバリ(笑)の女ゴメルと結婚させます。ゴメルは結婚して最初のうちは夫の子どもを生んでいますが、やがて不倫を犯し、その後に生まれた子どもふたりも不倫のためにできた子どもであったらしく、「わたしの民でない」「愛されない」(ひどい名前だなあ)という意味の名前をつけられています。
ゴメルは何度も家を飛び出して他の男と不倫を重ね、ついにやくざに騙されたのか、売られてしまいます。
そのとき、神は夫ホセアにこう命じます。
「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」
ホセアは、哀れな生活をしている妻を探し出し、借金を清算して家に連れ戻します。そのときにホセアが妻に言ったことばは、
「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。私も、あなたにそうしよう」でした。
なんという大きな愛でしょう。
もう一度、声を大にして言います。「不倫は罪」です。
戦前の日本では、正妻の他に「おめかけさん」を持つことが男性のあいだではなかば公然とまかりとおっていて、それで多くの女性が苦い人生を歩んできたことはご承知のとおりです。
それなのに今の時代は、男性ばかりか女性に対しても、婚外恋愛が奨励されているような感さえあります。ありのままの自分を大切にすることと、野放図な欲望のままに行動することが、完全に履き違えられているのです。
その結果、配偶者や子どもたちがどれほど辛い思いをすることになるかに目をつぶって、「キライな人と無理していっしょにいてもしょうがない」「本当に好きな人と過ごすのが幸せ」「子どもにとっても、不仲な両親を見せるほうが不幸」などと理屈を並べています。
不倫をしている人は、結婚という大切な契約を自分の都合で破っているのです。「約束を破る人間」になれと子どもに勧めているのと同じことではないでしょうか。人間の尊厳を貶めるという模範を示していることではないでしょうか。
長い人生の中で、配偶者以外の人に魅かれることは皆無とは言えません。しかし、自分の身体に爪を立ててでも、そこから目をそむけるのが、結婚という契約を交わした者の最低の義務ではないでしょうか。
もちろん、過ちを犯すことは誰にでもあります。弱さのゆえに幾度も罪を犯してしまう人間のために、神は「新しい契約」、つまり、イエスキリストの十字架の死によって、信じる者すべての罪を赦すという約束をくださいました。
赦されない恋をしている人は、本当の赦しを得るために、そこから抜け出す勇気を持ってほしいのです。そして、もし配偶者の不倫に苦しんでいる人がいるなら、神が人間を赦してくださったように、もう一度赦してあげてほしいのです。
英語では、「罪」に二種類の罪があったように、「幸せ」にも二種類あります。ひとつは「幸福」happy、うつろいやすい一時的な幸せのことです。もうひとつは「祝福」blessedで、永遠にわたる、決して奪い去られることのない幸せのことです。
「好きな人といるのが幸せ」
本当に、そうですか。もしあなたがそれで「幸福」になっても、あなたを含めてあなたの愛する者たちは、決して「祝福」された人生を歩むことができないのです。
失礼します。
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ご笑覧ください。
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