前回にひきつづき、長崎・平戸旅行のレポートです。
歴史の残る街を訪ねるというのはいいですね。
何百年も前、当時の人々がこの柱に触れ、この石畳を歩いていたと感じることができる。単に見知らぬ土地をめぐるというだけではなく、時間をさかのぼることのできる旅には深みがあります。
二日目は、生月島を中心とする平戸島めぐりの観光で、平戸観光バスの17人乗りのマイクロバスを頼むことにしました。
細かい移動がともなう行程のあと、夕方までに平戸から長崎に移動という超ハードスケジュールだったのですが、貸切バスのおかげで、大変効率よく回ることができました。
平戸島観光
ホテル (―貸切バス―) 生月町博物館島の館 ― ガスパル様 ― カトリック山田教会 ― 幸四郎様 ― カトリック紐差教会 ― 平戸切支丹資料館 ― 川内峠 ― 長崎へ
まず訪れた「生月町島の館」は、生月島で明治まで盛んだった捕鯨の歴史と、かくれキリシタンの展示が充実している博物館です。
学芸員の方と、ボランティアガイドのおふたりによって懇切に説明を受けることができました。
16世紀終わりに外国宣教師の布教によって、生月島の領主、籠手田氏と一部氏が改宗し、島民たちも続々とキリシタンとなりました。
最初は神社でミサが行われていたようですが、やがて山田地区に大教会が誕生し、常駐の宣教師はいなかったものの、信仰はますます盛んになりました。
ところが秀吉の伴天連追放令が出され、藩主松浦隆信が1599年に亡くなったとき、息子である法印鎮信は大のキリシタン嫌いであったために、過酷な弾圧が始まりました。
まず、父の仏教式の葬儀に出席するよう、生月領主の籠手田・一部氏に命じたのです。これは棄教せよということだと悩んだ両氏は、家族と家臣、島民ら600人を連れて長崎へ逃亡します。
教会は焼き払われ、さらに島民の脱出が続きました。同じく信者であった奉行・ガスパル西玄可は、島にとどまり人々を導くことを決意します。
しかし1609年、「黒瀬(クルス)の辻」で斬首。妻と長男もともに殉教し、その墓は「ガスパル様」として祀られています。
徳川幕府の禁教令以後も、宣教師が生月への潜入を試みては処刑され、多くのキリシタンが殉教しました。彼らが亡くなったと伝えられる場所は、さんじゅあん様(中江ノ島)、だんじく様、幸四郎様、千人塚など、かくれキリシタンの聖地となって生月島のあちこちに残っています。
探索役の役人の設置や、踏み絵・宗門人別改といった制度によって、残された一般信者たちは、潜伏という形をとらざるを得なくなっていきます。
「幸四郎さま」 昔ははだしで入ったとされる聖地。 パブロー幸四郎は、もともと踏み絵を踏ませるために島に来た役人だったが、信徒を射ようとした矢が自分の目にあたり、驚いてみずからも信仰を持ったという。後に殉教した。 |
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中江ノ島は江戸時代に多くのキリシタンが処刑された地でもあり、「さんじゅあん様」として生月のかくれキリシタンにとって最大の聖地である。 毎年一度、聖水を取りにこの島へ渡るが、どんな旱魃のときでも、オラショを唱えれば岩から水がしみでてくると言われている。 |
彼らは「津元(つもと)」という組織をつくり、親父役、御爺役といったリーダーのもとで行事を行ないました。
行事のときは、納戸に隠していた木箱を取り出し、ご神体であるメダイ、十字架、お掛け絵などを祭壇に祀り、その前でオラショ(教義や祈りをあらわす歌)を唱えたのです。そのため、かくれキリシタンはキリスト教信仰のことを「納戸神」と呼ぶようになりました。家の入り口近くには、荒神や水神を祀り、座敷には弘法大師と仏壇、神棚まで作って、役人の目を逃れていたといいます。
「オラショ」はラテン語の聖歌が伝えられているうちに、意味は不明となり、メロディを聞いてもご詠歌のようにしか聞こえませんが、たとえば「らおだて」の原曲は「Laudate Dominum(主をたたえよ)」であり、「ぐるりよざ」は「O Gloriosa Domina(栄光の聖母よ)」が原曲であることが、研究者によってわかってきています。四百年、口伝のみによってその原型が保たれていたことは、驚くべきことでしょう。
キリシタン弾圧の手は徐々に緩み(生月島には捕鯨という重要な産業があったことも幸いしたようです)、納戸神も木箱に隠す必要はなくなってからも、かくれキリシタンたちは、その信仰形態をずっと守りました。寺の檀家や神社の氏子としての行事を行ないながらも、それ以外に膨大なキリシタンとしての行事をこなしました。
たとえば、葬式の際は、仏教の僧侶が到着する前に「戻し」(死者に聖水をかけオラショを唱える)を行ない、葬式が終わってからは、「今のお経は間違いです」と言う意味の「返し」の行事を行なったところもありました。
何百年もそのような信仰を続けていくうちに、行事は次第に仏教や、農耕行事と結びついた土着の宗教と習合し、独自の形態へと変化していきました。
「お掛け絵」と呼ばれるキリストやマリアを描いた掛け軸は、「お洗濯」と言って幾度も書き直され、日本的な風貌になっていきました。
また拝む対象も、キリストやマリアだけではなく、次第に島で殉教した人々「ガスパル様」や「ハッタイ様」へと変わっていきました。表面上は棄教するふりをしながら生き残ることを選択せざるを得なかった彼らは、信仰を守り通した殉教者を崇拝することによって、その生を赦され、信仰を受け継ぐ強いあらたな決意に導かれていったのでしょう。
明治になって禁教令が解かれ、生月島にもふたたび宣教師が入ってきたとき、島の多くの潜伏キリシタンたちは、カトリックへ「復活」することを望まず、かくれキリシタンとして生きることを選びました。それは迫害を恐れたこともひとつの理由ですが、同時に祀っていた神棚や仏壇も捨て切れなかったこと。あまりにもカトリックの教義とかけ離れてしまった自分たちの信仰を捨てるにしのびなかったことも大きな要因でした。
「島の館」が発行している「生月島のかくれキリシタン」には、こうあります。
今日の生月島のかくれキリシタン信仰は、オラショをはじめとする16世紀カトリック信仰(キリシタン信仰)の信仰形態にその起源を発し、当時から(場合によっては作り替えつつ)継承されてきた聖具などを御神体としているが、精神的には禁教時代の地元殉教者(およびその聖地)に対する尊崇を中心とした信仰だと定義できる
今も生月島には、6つの組、500人におよぶ「かくれキリシタン」がいますが、減少の一途をたどっているということです。
命を懸けてキリストの教えを守りながら、そこからかけ離れてしまった信仰の姿に、私たちは大きな驚きと衝撃を覚えました。
いったい自分がその時代に生きていたら、どういう道を選んだのだろう。美しい自然の風景を満喫するとともに、重い命題が与えられた地でもありました。
平戸から長崎へ
生月島を出てからは、平戸島の東半分を反時計回りにめぐりました。
カトリック紐差教会に来たときは、ちょうど正午の鐘が町に鳴り響いていました。
平戸切支丹資料館を見学したあとは、川内峠の広い草原の真ん中で昼の弁当を食べ、一路バスで長崎に向かいました。
長崎と聖コルベ記念館
長崎は、ポーランド出身のマクシミリアノ・マリア・コルベ神父が1930年から6年間宣教に訪れたところでもあります。
相互リンク先の「The Moon River Story」のサイトマスター「太郎じぃ」さんの洗礼名が、コルベ神父にちなんでいると教えていただいたこともあって、個人的にも、長崎に行けばぜひ訪れたい場所でした。
四百年前のキリシタン迫害のときだけではなく、第二次世界大戦もキリスト教迫害の時代です。
太平洋戦争中の日本も、国家神道の名の下に日本や韓国のクリスチャンたちを弾圧しました。また、ヒトラーに率いられたナチスドイツも、ポーランドのキリスト教指導者たちを捕らえ、強制収容所に押し込めていったのです。
日本での宣教を終えてポーランドに戻ったコルベ神父は、アウシュビッツの強制収容所に入れられました。そこで、ひとりの脱走者への見せしめに10人が餓死刑を宣告されたとき、妻子のために死にたくないと叫ぶポーランド将校の身代わりとして、刑を受けることを申し出たのです。二週間の刑でも命を保った神父は、毒殺されました。
「人がその友のために命を捨てる、それよりも大きな愛はない」の聖句を身をもってあらわした生涯だったのです。
予約も何もしていなかったのに、本河内教会の神父が案内に立ち、展示品のひとつひとつを丁寧に説明してくださいました。
その夜は、「全日空ホテルグラバーヒル」に泊まり、夕食後はライトアップされたグラバー邸を散策して、二日目の旅が終わりました。
グラバー邸は、夏季は夜9時半までオープンしています。 ライトアップされた邸内は、とてもきれいでした。グラバーは維新志士たちを援助したことでも有名です。 グラバーの妻ツルは、「蝶々夫人」のモデルにもなった人ですが、オペラの悲劇的な最期とは違って、幸福な結婚生活をまっとうしました。 |
参考書籍: 「生月島のかくれキリシタン」(平戸市生月町博物館・島の館発行)
参考ウェブサイト:
キリシタン千夜一夜(たけちゃんのホームページ)
「中世音楽合唱団・龍翁炉辺談話」オラショとグレゴリオ聖歌とわたくし
長崎!懐かしい!…とか思ってたら僕の名前があったのでビックリしました(笑
私が知っているところでは、コルベ神父様はアウシュビッツ強制収容所の餓死刑で2週間、耐えた後での毒殺だったと思います。
隠れキリシタンに関しては、非常に興味深いですね。キリスト教迫害の歴史の中で、信者が信仰を保ち続けた。その事だけでも、充分深いものがあるのですが、宗教そのものを考える場合でも、これは興味深い事例なのだと思います。宗教の伝播と再構築といったところでしょうか。
それにしても、こうしたテーマある旅は良いですね。長崎をはじめ、九州には古い教会も多いですし、一度教会巡りなどしてみたいものです。行き当たりばったりな鈍行列車の旅ではなく…(^^
太郎じぃくん、ロシアからおかえりなさい。勝手にお名前を掲載させてもらいました。
やはり「2週間」でしたか。11日と聞いた覚えがある一方、ほとんどのサイトでは2週間とあって、迷っていたのです。さっそく修正しますね。しかし水も食料も与えられない餓死刑での2週間は、驚くべきことです。いかに心の平安と希望が人間を生かすか、ということでしょう。
キリスト教は日本での土着化が失敗している面もあります。生月島のかくれキリシタンをその土着化の例と見るかどうかですね。何が変わって何が変わらなければ、キリスト教の本質が保たれるのか。
就職したら海外逃亡も困難になると思われますので(笑)、次は長崎を目指してください。