この旅行記も第三回、最終日に入ります。
長崎は、若いころからずっと行きたくて果たせなかった地。山があり海があり、同じく山海にはさまれた神戸の近くで暮らす私にとっては、親しみを覚える街です。
さて、この街での歴史の旅をご案内する前に、ひとこと。おほん。
……長崎ペンギン水族館に行きたかったああぁァ!!(笑)
長崎市街地観光
ホテル ― 大浦天主堂 (―タクシー―) JR長崎駅前 (―路面電車―) 浦上天主堂(―徒歩―)長崎永井隆記念館・如己堂 ― 平和公園 ―原爆資料館 (―路面電車―) みなとめぐりクルーズ (―路面電車―) JR長崎駅前 (―バス―) 長崎空港 (―飛行機―) 大阪空港
宿泊した「長崎全日空ホテルグラバーヒル」を出たときは、あいにくの雨。大浦天主堂は徒歩でごく近くなのですが、雨の中での観光となりました。
大浦天主堂は1864年に完成したという国宝建築物です。
初めは、幕府と各国のあいだに結ばれた通商条約に基づき、大浦に居留し始めたフランス人のために建てられた教会で、「フランス堂」と呼ばれていました。
「フランス堂には、サンタマリアがいらっしゃる」と浦上で潜伏していたキリシタンたちは言い交わし、数人が確かめに行きました。
「わたしの胸、あなたの胸と同じ。サンタマリアの御像はどこ?」
礼拝堂を訪れた信者たちが、フランス人神父の耳にささやいた言葉がこれだったといいます。
ここで、浦上の潜伏キリシタンとカトリック教会が七世代、250年ぶりに歴史的邂逅を果たしたのです。
さて、俗っぽい話になりますが、大浦天主堂の門前の坂には、ずらりとお土産屋さんが並んでいて、比較的安いのでおすすめ。
カステラ、びわゼリー、からすみなどの長崎名物がすべてここで買えます。美しいガラス工芸を扱っている店には、同行者の中年女性一同(笑)群がりました。また、この土産物店の一角では、コルベ神父が長崎に来て最初の一年間住んでいた家の暖炉が保存され、公開されています。
ホテルをチェックアウトして、JR長崎駅のコインロッカーでいったん荷物を預けたあとは、路面電車に乗って、浦上天主堂に向かいました。路面電車は一回大人100円子ども50円。安くて観光に便利。間隔も5分?10分おきくらいでほとんど待たなくてすみました。一日乗車券は大人500円ですが、この日私たちは三回しか乗らなかったので、その都度100円を支払うことにしました。
浦上天主堂
私たちは幸いにも、伝手を通して信徒の方に教会の中を案内していただき、お話を一時間にわたって聞くことができました。
大浦天主堂での歴史的邂逅によって、浦上のキリシタンたちは、カトリックへ「復活」を果たしました。
浦上の村民たちはたちまち4つの秘密教会を作り、宣教師による巡回ミサが行われるようになりました。
また、これに力を得て、「キリシタンであるから寺請制度を拒否する」という書き付けを町方に提出しました。
あわてた長崎奉行所は探索を開始。1867年7月早朝3時、村を急襲し68名の信徒を捕縛し、牢に入れます。これが、後に「浦上四番崩れ」と呼ばれる迫害の発端となりました。
村人たちは、棒、鞭、水責めと凄惨な拷問を受けます。ついにひとりを除いて全員が改宗の証文に爪印を押して「転ぶ」ことを選びます。
ところが、村に帰っても、教えを捨てて転んだ彼らを、家族は家に入れてくれない。三日三晩彼らは泣きながら山中で過ごしました。
たったひとり、高木仙右衛門という人だけが拷問に屈せず、今でいう保護観察処分となって村に戻ってきました。村人は彼を歓呼の声で迎え、そして彼を仲立ちにして互いに赦し、転んだ信者たちもふたたび信仰を回復したそうです。この赦し合いがなければ、浦上のキリシタンはこのとき全滅していたかもしれないと、説明をしてくださった信徒の方がおっしゃっていました。
後に浦上のキリシタンたちは、新生明治政府によって一村総流罪という極刑に処せられ、三千人あまりの村人のうち五分の一以上を、流配先で飢えと病のため失うことになりました。
1873年(明治6年)、キリシタン弾圧に対する諸外国の激しい抗議に驚いた政府は、ようやくキリシタン禁制を解き、1614年から262年にわたるキリシタン弾圧は終わりを告げました。
浦上はまた、原爆の投下中心地でもあります。当時9千人いた信徒は一瞬にして7千人を失いました。
手前は1914年に建設され原爆によって破壊された旧会堂の壁と石像、向こう側が1980年に改装された会堂です。
会堂右には被爆60周年を記念して、被爆したマリア像に捧げられたチャペルが新しく献堂されました。
カトリック浦上教会は、7300人の信徒が所属、三人の司祭がおられるそうです。毎朝6時の早朝ミサと、土曜に一回、日曜には三回のミサが行われています。一回のミサに千人の出席があるそうですが(それでもびっくり、うちの教会は100人だものなあ)、それでもその数は年々少なくなり、ミサにまったく出席しない信徒も多いのだそうです。
「今は、あらたな迫害の時代です」と、案内をしてくださった方はおっしゃいました。「だから私たちは、祈る教会になりたいと願っているのです」
そのことばをお聞きして、私たちは深くうなずきました。その瞬間、プロテスタントとカトリックの信仰とのあいだには何の隔てもないと、喜びをもって思いました。
原爆の爪跡
浦上天主堂のすぐそばに「如己堂」というわずか二畳の木造の家があります。
ここは、長崎医科大学で放射線科の医師だった永井隆博士が、晩年を過ごした家です。
永井博士は浦上教会のカトリック信徒であり、また妻の緑さんは、浦上のかくれキリシタン組織のリーダーである「帳方」の子孫でもありました。
1945年8月9日、浦上地区に原爆が投下されたとき、永井博士は次々と運ばれてくる負傷者たちを寝食を忘れて治療しました。原爆での被爆以前に、劣悪な状況でのレントゲン検査によってすでに白血病におかされていた博士は、何度も気絶しながらの処置であったと言います。
家に戻ることができたのは、三日後。
自宅は焼灰と化し、台所があった場所には緑さんの遺骨と、ぼろぼろに溶けたロザリオだけが残っていました。
永井博士は、疎開して無事だったふたりの子どもと三人で、友人に建ててもらった如己堂に住まいながら、六年後43歳で亡くなるまで原爆症の研究と、「長崎の鐘」「この子をのこして」などの膨大な著作活動を続けました。
如己堂のそばには、「長崎市永井隆記念館」と「帳方屋敷跡」の石碑があります。
そのあとは、平和公園、原爆資料館を見学し、「長崎港クルージング」のみなとめぐりコースに乗船しました(60分)。出航するとすぐ、右手に三菱重工業長崎造船所が見え、自衛隊のイージス艦が建造中でした。ちょうどその日も一隻が進水したということで、私たちの泊まっていたホテルでは大きな祝賀会が行われる模様でした。
グラバー邸でも、「三菱重工ドックハウス」の瀟洒な建物群を見学しました。昔も今も、造船産業が長崎の経済を支えていることがうかがいしれます。
旅の最後に立ち寄ったのは、JR長崎駅からすぐ。「日本二十六聖人殉教の地」でした。
豊臣秀吉の最初の伴天連追放令に従わず、京都で宣教を続けていた、おもにフランシスコ会の宣教師および日本の伝道者・信徒たち二十六名(うち20名は日本人、最年少は12歳)が、耳を削がれ、京都市中を引き回されたあと、一ヶ月かけて徒歩で長崎まで向かった末、ここ西坂の丘で磔にされたというものです。
碑のそばには「日本二十六聖人記念館」があって、当時の遺品や絵画など、さまざまな展示があります。
旅の終わりに
この丘で、私たちの日本のキリシタンたちの歴史をたどる旅は終わりました。
それは、四百年前の禁教令の時代のみならず、原爆やアウシュビッツ収容所にまで思いを馳せる旅でした。
自分の信仰を最後まで貫いて死ぬことを選んだ人。信仰を受け継ぐために生きることを選んだ人。
家族とともに暴力の犠牲になることを厭わなかった人。家族のために生きようとあがいた人。
いったい、どれが正解でどれが間違っているのか、ほかの誰にも判断することはできません。
苦痛に満ちた死を免れても、その後の生はもしかすると、死よりむごい日々だったことでしょう。
私たちは信教の自由の中で、迫害もなく生きています。しかし、信仰に生きようとするクリスチャンの数は、増えるどころかむしろ減ってきているのです。
案内してくださったカトリック信徒の方がいみじくもおっしゃったように、「今はあらたな迫害の時代」なのかもしれません。
「キリシタン」であることを隠して生きることを強いられた人々のように、今はおのれの「人間性」を隠し、誤魔化して生きることを、人々は強いられているのかもしれません。
BUTAPENNさんこんばんは
3部作拝見しました。すごく内容が濃い旅だったんですね(^^
自分の駆け足旅とは雲泥の差(汗
自分も以前長崎に行ったとき 大浦大聖堂とその前の通りでカステラを土産に買って帰ったらうちの犬が人の目を盗んで一本丸々喰ってたという思い出があります。
どうも、夜野さん、いらっしゃいませ。
せっかく平戸城の情報を教えてくれたのに、生かせずにすいませんでした。
閉館時間にせかされて天守閣まで駆け上ったら、息がきれちゃって。
島原城も行きたかったです。「白亜のクリスマスツリー」だなんて素敵。次回はぜひ。
お犬さまがカステラ食べちゃったんですか!
私は三千円の「からすみ」を買ったんですが、もしそれを食べられたりしたら、きっと卒倒します。好きなんですよ。
からすみ、犬は食わんかなあ。