近くに住む親戚に不幸があって、きのうがお通夜、今日は告別式に行ってきました。
私も主人も50年生きてきて、火葬場に行くのは実は初めてでした。昔は、喪主のほかわずかな者しか、お骨上げには立ち会えなかったような気がします。今は親族がずらりと並んで、長い箸を渡されて立会います。斎場の係の方も、「これが喉仏、これが膝のお皿」と、とても親切丁寧に説明してくださいます。
まず最初に喪主が喉仏と歯を小さな壺に収めた後は、人間の立ち上がる順番のとおりに、つま先から順に骨を壺に収めて行き、最後に頭蓋骨を収めるのだそうです。
これも西日本と東日本では作法が違うそうで、東日本ではすべての骨を骨壷に収めると聞きましたが本当でしょうか。私たちの場合は斎場の係員が選んでくれるごく一部の骨を骨壷に収めました。
焼いた骨というのは、本当に真っ白になるのですね。そして驚くほど軽い。これが三日前の夜まで生きて動いていた人なのです。
私の家に、亡くなられた人から自筆で記した葉書が届いたばかりでした。その葉書を今も手元にして、厳粛な思いに満たされます。
お通夜とお葬式は、浄土真宗・本願寺派で行われました。参列者に一冊ずつお経の本が渡され、お経とともに開いたのが、「白骨の章」という文章です。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」という有名な文は、ここから出ていたと知りました。
私はクリスチャンなので、復活の希望が説かれるキリスト教式の告別式との違いばかり感じていましたが、あのお骨を見ていると、この「白骨の章」の意味がしみじみわかるような気もしました。
亡くなった人は、今年の1月に奥様を亡くしたばかりでした。よほど愛し合っていたのでしょう。
あまりの突然の別れに、喪主である息子さんは挨拶のときにも涙で声が出ませんでした。けれど、本当に辛いのは、家に帰ったときでしょう。ともに暮らしていた家族を失うのは、じわじわと皮膚にしみこむように寂しさが募るものです。
この遺族の上に、また愛する人を失って寂しいお正月を迎えようとしているすべての人に、慰めがあることを祈ってやみません。