やっぱり連続更新記録は三日で終わりましたわねえ。(←いばるな)
さてきのうの日曜は、教会でクリスチャンの友人たちと話す時間がありました。クリスチャンが集まると、ケーキとお茶しながらでも、死や老いなどというホンネなテーマで語り合います。
お父さまが亡くなられた方の体験談を聞きながら、私の頭には、ある新約聖書の一節が思い浮かんできました。
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。
(ヨハネによる福音書21章18節 新共同訳)
これは、イエスが復活されたあと、ガリラヤ湖畔で弟子のペテロ(ペトロ)に言ったことばです。
ペテロは、十字架にかかる直前のイエスを三度「知らない」と言って否みましたが、まるで挽回のチャンスを与えられたかのように、三度イエスから「あなたは私を愛するか」と尋ねられます。
その直後に、イエスは上のような予言をしたのです。
年齢を重ねて老境に達すると、今まで持っていた地位や役職を取り上げられ、物心両面での不足を覚える。自分の体さえ自分で動かすことがままならなくなる。
それはまるで、一枚一枚自分の着ていたものを脱いでいく作業に似ています。
しかも、徐々にそうなるならまだいいのですが、ときには病気や退職で一気にすべてを失うことが起こり得るのです。
人はそんなとき、抗います、抗いつつも、ときには弱く力のない自分に絶望します。過去への執着のあまりに昔の話を毎日繰り返したり、預金通帳を絶対に手離さず、隠しまわったあげく無くしてしまう悲喜劇も起きる。それを見ている家族も、元気だったころを知っているだけにつらいのです。
ペテロも、十二使徒のリーダーである自負と責任感に満ち溢れていました。私の経験から言えば、こういう人は老いの入り口で苦しみます。イエスはそんな彼を労わるために、「おまえも年を取ると、他の人に帯を締めてもらうようになるんだよ」と諭したのかもしれません。
上手に年を取ることはむずかしい。
昨日できたことが今日できなくなる自分を受け入れる。自分が後生大事にかかえていた職も健康も能力も誇りもひとつずつ脱ぎ捨てる。
裸でこの世に来たように、裸で天に帰っていくという人生最大の大事業が、人間の晩年のテーマなのでしょう。
人は誰かを愛するとき、自分の大事なものさえ平気で捨てられるもの。
だとしたら、すべてを脱ぎ捨てていく老いとは、人間が神に捧げられるもっとも美しい愛のかたちだと言えるのかもしれません。