いろいろありましたが、義父が昨日ようやくICUを出て、一般病棟に移りました。まだ意識が定まっていないので、ずっとそばに付き添って話しかけています。
ときどきはっきりしたことも言えるようになってきました。付き添いの私たちが昼ごはんを食べに行って帰ってきたら、「薄情やな」と文句を言ったり、「コーヒー高いな」などと最新の世情にも強いところを見せています(笑)。
あとは、少しずつでも、ものが食べられるようになってくれたら良いのですが。
さて、このごろ認知症の妻の将来を悲観して、病気の夫が妻を殺害…という事件が立て続けに起こっていますね。「半落ち」という小説も、警察官の夫が認知症の妻を殺すお話でした。
あれを聞いて、私はなんだか、とても他人事には思えないのです。
義父の再手術が決まったとき、同じことがうちの家でも起こりうるかもしれないと思い、朝に義父母の部屋を見るのが恐いと思ったこともありました。
何も殺さなくても、残していく妻を安心して福祉の手に委ねることはできなかったのかと思う方もおられるでしょう。
しかし実際のところ認知症という病気は、家族でないと扱えない側面があります。そして同時に、家族だから耐えられないという別の側面もあるのです。
認知症とひとくちに言っても、うちの義母のように、毎日の掃除や洗濯、簡単な食事の支度など、日常生活はしっかり送れている場合が多いのです。
しかしそれでも、何かを伝えても、一度でわかってもらえることが、だんだん少なくなりつつあります。一時間ほどすると、短いときは五分ほどすると、話をしたことすら、きれいに忘れている。
極端なときは、ひとつづきの会話の中で、延々と同じことばを繰り返す羽目になります。
私は先日、認知症の定義をひとことで言い表わしているのではないかと思うような体験をしました。それは、
「かぼちゃの煮物を作ってくださいと頼むと、上手な味付けでおいしく作ってくれる。しかし、煮物を作ったことを忘れてしまう。そして、『このかぼちゃ、おいしいね』と、嫁の私をほめてくれる」
という笑い話のような実話です。
実際、義母は私にいつも感謝してくれます。「同居してくれて、助かっている、ありがたい」と口癖のように言うので、面映いくらいなのです。こういうとき、人間は記憶を忘れてしまっても、その人の本質や美点は残るのだなあと感激することもあるのです。
しかし、その逆の体験をすることもあります。人間のエゴが覆い隠すことなく現われるときがあり、そのときは、情けなく哀しい思いをしてしまうのです。
人は年老いると、自分が昔のようではないということを、ときどき認めることができません。
だから、何か大事なことを忘れても、自分の中であらゆる理由づけをします。「ちゃんと聞いていなかった」「声が小さいから聞こえなかった」「そのとき、別の部屋にいたから聞いていなかった」という言い訳が、とっさに出てしまうのです。
今回の入院でも、義父が入院して手術したという事実さえ、忘れ去られるときがありました。
デイケアで外出して家に帰ってくると、「お父さんどこへ行ったの?」という具合です。
一回目の手術が終わって数日したときも、「お父さんはいつ手術するの?」と訊かれました。
「もう月曜日に手術は終わったよ。6時間もずっと病室で待っていたでしょ」
と答えると、「そうだったか」とびっくりしたように言い、
「毎日考えることがいっぱいあるから、つい忘れてしまった」
と弁解したのです。
その時私は、怒ってもしょうがないと思いつつも怒りを止めることができませんでした。
「他のことは全部忘れてもいいけど、お義母さんにとって一番考えなければならないのは、お義父さんのことでしょう」
と怒鳴ってしまったのです。
怒鳴りながら、本気で怒ってしまった自分が情けなくてたまらなくなりました。
そう言わせているのは病気のせいなのに。見えすいた言い訳させているのは、人間のなけなしのプライドなのに。
後で、そのことを夫に打ち明けたところ、夫は私を責めずに、「息子の僕でさえ、本気で腹が立つことがあるよ」と慰めてくれたのです。
そのことを思い出すと、今でも泣けてしかたがありません。
ちょっと暗い話になってしまいました。次回は認知症の明るい側面について語りたいと思います。
ご家族の苦労も大変でしょうが、親しい人間でもやっぱり疲れますね。
親の知り合いとかと話す時に、認知症で苦労するのが電話で、30秒毎に同じ言葉を繰り返しつつも、とにかく終らない。善意であるが故に、電話を切るに忍びなく、電話が終った時にはぐったりしますよ。そんな訳で、ときたま『嫌われる人間になれば良かった』って思う事がありますね。
まさに「ぐったりと疲れる」というのが、認知症と付き合うときの実感ですね。
私なんぞ嫁という立場ですから、よけいに「いい子」にならなければならないというプレッシャーがあるのです。
世の中「いい子」でいたいという願望に苦しめられている人がどれだけいるでしょうか。「嫌われる人間」というのは、今の社会では案外と貴重なのかもしれません。
お互い、もっと嫌われるために精進しましょう(笑)。