今日、クリスチャンのミーティングで、外国の宣教師のお話を聞く機会がありました。
その中で、
「日本人は特に、子どもが自分を超えるように育てるのが苦手」
ということばが心に留まりました。
親子の関係だけではなく、教師が生徒を、師が弟子を育てるとき、自分を超えることを期待せず、逆に抑えつけてしまう要素があるという趣旨だったと思います。
イエスのことばに、
「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、また、それよりもさらに大きなわざを行ないます」(ヨハネ14:12)
とあるように、どんなに不甲斐ない弟子でも(実際、イエスの弟子は師を見捨てて逃げてしまった)、イエスはその弟子を信頼したのです。
振り返って、私は自分の子どもの無限の可能性を信じて子育てをしてきただろうか。自分を超えてほしいと願って(かと言って、あれもこれもと過大な要求をせずに)接してきただろうか、と考えさせられます。
むしろ、子どもが大きくなるにつれて、「駄目じゃん」と決めつけてしまうことのほうが多かったような気がします。
今日のお話で、もうひとつのテーマは、
「親は自分の弱さを、きちんと子どもに見せなければならない」
というものでした。これは、特に父親にとっては、むずかしいことだろうと思います。
子どもの前で自分の非を認め、素直にごめんと言える親。取り繕わず、子どもの目線まで降りていって、同じ気持になれる親。放蕩息子の父親のように、なりふりかまわず、ころげるように走りよって、子どもを抱きしめてやれる親になりたい。
聞いているうちに、このことと、最初の「子どもが自分を超えていくことを信じる」ことは、実はひとつのことなのではないかと思いました。
両方に共通するのは、実は親自身がそのようにして見守られてきたという安心感です。これからも、神に、そして周囲の人々に見守られていくという未来に対する確信です。
もしそれがあれば、自分にどんなに力がなくても、疲れ果てても、子どもの未来を信じて明日を待つことができるはずです。自分の弱さをとことんまで認めて、家族に地域に、助けを求めることもできるはずです。
たとえどんな事情があっても、子どもの命を絶って、未来に実を結ぶべきすばらしい芽を摘み取ることだけは、絶対にしてほしくはありません。
なぜなら、子どもは必ず、親より大きな存在になれるのですから。