テレビ朝日系列で日曜朝やっている「題名のない音楽会」。
その司会者を務めておられるのが佐渡裕さんですが、そのオープニング曲が「キャンディード」序曲であったことを、今回はじめて知りました。
なるほど、故バーンスタインの最後の愛弟子と呼ばれる佐渡氏にとって、彼の作品である「キャンディード」は思い入れの強い作品なのでしょう。
その佐渡氏が芸術監督を務めている兵庫県立芸術文化センターで、24日から「キャンディード」の全国公演がスタートしました。
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「キャンディード」は、18世紀の哲学者ヴォルテールの著書を原作として、「ウェストサイドストーリー」で有名なレナード・バーンスタインが50年前にミュージカルとして上演、さらにそれを、演出家ロバート・カーセンが大胆な解釈とアイディアによって、現代世相にマッチしたオペラに仕立て上げました。
つまり、18世紀のフランス、1950年代のアメリカ、そして21世紀という三つの世界が融合しているのです。
「題名のない音楽会」ですっかり耳慣れた序曲(ヴェルディの「トロヴァトーレ」のアンヴィルコーラスに似てませんか?)の間、テレビの画面を模した舞台では、1950年の古き良きアメリカのフィルムが映し出されています。このテレビの枠を通して見ることで、観客はオペラ全体を先ほどの「三つの時代と世界」として寓意的に見ることができるような気がします。
ストーリーははちゃめちゃな喜劇であり、ファンタジックです。
ウェストファリアという国に住んでいる男爵一家は、哲学者の家庭教師に教えこまれた「この世は完璧な世界である」という最善説(オプティミズム)の中で生きています。この世のすべての不幸も、こじつけの楽観論で解釈してしまうのです。
やがて、男爵令嬢クネゴンデと、使用人キャンディードが恋に落ちます。つつましい幸せを夢見ているキャンディードと、華やかで貴族的な生き方にあこがれるクネゴンデの話は最初からまるでかみ合っていないのですが、そのことにふたりは気づきません。
身分の差ゆえにふたりは引き裂かれ、屋敷から追い出されたキャンディードは兵隊となって、悲惨な戦場に駆り出されます。
設定ではドイツの一地方という.Westphaliaは、カーセンの演出では、「West Failure」(西欧の失敗)とつづられています。この戦争は「West Failure」と「East Failure」の戦いだという20世紀の縮図となっているのです。
キャンディードは阿鼻叫喚の地獄を通り、敵兵たちにレイプされてこと切れているクネゴンデの死体を発見します。
このときに、彼の歌う「Candide’s Lament」は、涙をさそうほど美しい歌です。
ところが、ここからがこのオペラの、とんでもないコミカルなジェットコースターストーリーの始まりです。
死んでいたはずのクネゴンデは、次の場面では生き返って、マリリン・モンローそっくりの女優となり、演出家を色仕掛けで手玉にとってスターダムへとのしあがるという、したたかな生き方を始めます。
ここで観客は、この劇のリアリスティックな見方を完全に捨てさせられます。
キャンディードは、船の難破、地震、共産主義者狩りによる死刑という難事を次々とくぐりぬけていきます。
ヴォルテールの時代の宗教裁判と、20世紀のアメリカのレッドパージがうまく重なっています。
クネゴンデとの再会の喜びもつかのま、殺人を犯してしまったキャンディードは新天地アメリカに渡り、石油を掘り当てて大金持ちとなるも、騙されて有り金を取られという波乱の人生を送りますが、クネゴンデに会えることだけを希望にがんばります。
アメリカの権威と楽観主義が完全に失墜し、混とんとした世界に私たちは突入していることを、実在の欧米の政治家たちの仮面をかぶった人物たちが登場して、浮き彫りにしてくれます。
旅路の果てに、ふたたび再会したクネゴンデはすっかりあばずれていて、彼はようやく、清らかでも誠実でもない彼女の本性に気づきます。
失意の中でキャンディードは、人間の幸せは極端な楽天主義にもなく、極端な悲観主義にもなく、自分の運命は自分の手で切り拓いていくものだと悟って、クネゴンデを赦します。
最後の大合唱「Make Our Gardens Grow(畑を耕そう)」の背後で、巨大なテレビ画面は、地球規模の公害と汚染によって荒れ果てていく21世紀の大地を映し出しています。私たちも「自分の畑を耕す」=自分にできることから始めようということを、このオペラは最後に訴えているようでした。
地震の場面では、神戸=阪神淡路大震災のことがセリフに盛り込まれていましたが、果たして東京公演でも同じセリフが聞けるのでしょうか。
兵庫公演は8月1日まで。東京公演は、8月6日から8日までです。