山の手線の電車に乗り込んですぐに、彼を見つけた。神経質そうな横顔は、私のほうを向いたとたんに、こわばった。
智哉は、私の元婚約者。直前になって結婚をとりやめた相手だ。
「……お久しぶり」
紺のスーツの胸には、かつて私も勤めていた会社の社章。見覚えのあるネクタイ。少し太って、少し歳を取った以外は、何も変わっていない。
あまりの気まずさに、次の駅で降りようかとも思ったが、取引先に向かう途中なのでそうもいかない。彼も同じだろう。
午後イチの車内はガラガラに空いていたので、どちらともなく隣り合って座った。
「どうしてるの」
ふたりのあいだに自然にできた二十センチの隙間が、三年の歳月と心の距離を表わしている。
「有紀と結婚したよ」
私と智哉が別れる原因となった女性の名前。
「もうすぐ、子どもも生まれる」
「そう。おめでとう」
智哉が幸せになったことを喜んでいるのに、心からの祝福を伝えたかったはずの言葉は、なぜかみっともなく声がかすれていた。
「めでたいはずないだろう。有紀はどこまで行っても、日陰の身だ。式も挙げていない。ことあるごとにおまえと比較され、今でもおまえの幻影におびえている」
「まさか、どうして」
「どうして? いい身分だな。人をさんざん不幸にしておいて、自分は新進気鋭の画家さまのそばにぴったりくっついて、アゲマン気取りか」
押し殺すような声で言い終えた智哉は、私に視線をぶつけることもなく、ただひたすら真正面を向いていた。
「……ごめんなさい」
その後はひとことも言葉を交わさずに、私は自分の降りる駅で降りた。
喉がカラカラで、汗をびっしょりかいていた。道を歩く足取りも、営業用の笑顔も、カクカクと動く木彫りの人形みたいだった。
そのくせ、体の深いところが、じんとうずいている。彩音に満たしてもらったはずの場所は、いつのまにか、ぽっかりと胡桃のような空洞ができていた。
「CLOSE TO YOU 第4章」
お題使用。「瓢箪堂のお題倉庫」http://maruta.be/keren/3164