弁解すれば、俺にとってアンジーとのキスは、動物の子どもが互いの毛を舐めるような、ごく自然な行為だった。
二週間、ひとつの完全な世界を創り上げるために、ともに苦闘した戦友同士。感謝と尊敬と。高揚と解放感と。
ほんの少しの征服欲もあった。
夜更けの工房の中、俺たちは丸太みたいにゴロゴロころがって、ふざけあった。
いっときの興奮がおさまって起き上がろうとする俺の首に、彼女は腕を回した。
「サイオン。次の絵も一緒にやろう。その次も。あたしたち、ずっと一緒にタグを組もうよ」
それは、魅力的な誘惑だった。
彼女の刷師としての腕があれば、俺はさらに素晴らしい作品を生み出せる。この街から世界中に俺の絵を発信することができる。
眼鏡をはずしたアンジーの碧い瞳がうるんだように、見上げている。俺はもう少しで、その中に堕ちそうになった。
「ダメ」
大きく息を吸い込んで、全身の毛穴から拒絶のことばを吐き出した。
「この一作だけでおしまいだ」
「なぜ」
「俺は、日本に帰る。大切な人がいるから」
「あたしと絵を創るよりも、大切なの?」
「うん」
アンジーは埃をはらって立ち上がった。「なあんだ、がっかり」
工房を出たとたん、イーストリバーから冷たい風が吹きつけ、俺の体によどんでいた熱の塊を、ひとつ残らず剥がしていった。
携帯を開くと、昨日の日付でメールが入っていた。
『ええ、彩音。あなたを愛してる。あなたがどこにいても、何をしていても』
ああ、琴音さん。
なんて周到で狡猾な罠なんだ。素敵すぎる。これじゃ、男は絶対に逃げられないよ。
夜明けを迎えようとする藍空を仰ぎ、俺は両腕を伸ばした。背中から翼が生えて、今すぐにだって日本へ飛んで帰れそうな気がした。
「CLOSE TO YOU 第4章」
お題使用。「瓢箪堂のお題倉庫」http://maruta.be/keren/3164