二泊三日の沖縄旅行に行ってきました。三日間とも雨にたたられ、「ここは本当に沖縄か」と言うくらい寒く、青い空もコバルトブルーの海も見られませんでした。
それでも、行ってよかった。
実際にその場に行くのは新聞や本で読みテレビで見る映像とは違って、自分の体験となって響いてきます。五感が、沖縄という土地の歴史の重みを覚えます。
これから三回にわたって、沖縄レポートをお届けしたいと思っています。
私たちの泊まった北谷(ちゃたん)町は、近年リゾート地として開発が進み、近くのアメリカンビレッジは地元の若者と観光客で深夜まで賑わう街です。
ところが、そこからひとつ国道を隔てると、そこは嘉手納米軍基地。羽田空港の二倍という面積に学校、スーパー、ボーリング場、映画館やゴルフ場があり、一部は日本人も立ち入ることができます。3500メートル級の滑走路を2本持ち、今話題の中部国際空港より大きいのです。沖縄の航空管制の指令はすべてこの基地が出していると言われます。そのため民間旅客機が那覇空港に離着陸するとき、数百メートルという低空飛行で数十キロ手前から進入しなければならないそうです。
私たちをこの嘉手納基地を望むことができる展望台に案内してくれた地元の牧師によると、この嘉手納基地の広い土地を数万人の地主が所有し、その地代を日本政府から受け取っています。受け取ることを拒否する人もいますが、一般に比べてかなり賃貸料が良いので、土地は頻繁に売買されます。地元の人が皮肉交じりに言っていたのですが、基地の地主になった途端、100デシベルを越える騒音が気にならなくなるとか。市や町などの公共団体も土地から収入を得ているため、公共財政のかなりの部分を基地に頼っているという現実があります。
高給をもらえる基地職員採用試験のための塾まであるところに、沖縄の抱える矛盾が浮き彫りにされています。
基地の撤退はすべての沖縄県民の悲願ですが、それに代わる産業誘致と手厚い保障が、真剣に考えられなければならないでしょう。
基地と隣り合わせの町
沖縄には全国の米軍基地の実に四分の三が集中しています。そして全国の他の基地にはない沖縄の特徴は、それら基地が住宅地の真ん中にあるということなのです。基地のために土地を奪われ、山の方に住宅が追いやられたり、また基地のまわりを住宅がドーナツ型に取り囲むように建っているので、日米地位協定の「運用の改善」前は、救急車などの緊急車両さえ、ぐるりと大回りしなければならなかったそうです。
一番驚いたのは、嘉手納基地の周辺の国道のすぐそばに弾薬庫があるということでした。まわりには住宅やレストランがあって、たくさんの車が走っているのです。ここからイラクや世界の他の地域に武器弾薬が運ばれていく。もしテロリストに狙われたらどうするのでしょう。
「核もここから運ばれていたでしょうね」と地元の人が事も無げに言われたことばが印象的でした。
ヘリコプター墜落現場
普天間基地のある宜野湾市の、沖縄国際大学のヘリ墜落現場にも行ってきました。昨年8月に起きた事故です。校舎の壁が真っ黒、前の立ち木も燃えて黒こげになっています。また写真では見づらいですが、壁にヘリの残した数本の傷が生々しく残っています。
ここも、住宅の真ん中でした。狭い道路を隔ててすぐの民家にまで破片が飛んで、ふすまを破ったそうです。大学が夏休みのときでまだ幸いでしたが、もし一歩間違えればたくさんの命を巻き込む大惨事になるところでした。
嘉手納基地の一部は、また数年後に返還されるそうです。
今は国道58号線の片側をリゾート施設、片側を広大な草むらが占めていますが、数年後にはそこも、ホテルやリゾート施設に生まれ変わるかもしれません。雇用もそれだけ生まれるでしょう。
そのときの沖縄をもう一度訪れてみたくなりました。