ひめゆりの塔
ここは、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の「ひめゆり学徒隊」の方々の慰霊碑のあるところです。
沖縄で初めてというほど、ずらりと並ぶ観光バス。たくさんの人が献花し、祈りを捧げていました。
その隣に、昨年改装されたという「平和祈念資料館」があります。
私たちはその展示室の中、かつての壕の様子を模した展示の前で、幸いにも語り部を務めておられる体験者のお話をうかがうことができました。
米軍が上陸する直前の3月23日、沖縄女師・一高女の生徒222人は、深夜突然に南風原(はえばる)にある陸軍病院に配属命令を受けました。現地に赴くとき、彼女たちは「病院は国際法によって攻撃を受けないことになっているから大丈夫」と励まし合っていたと言います。
病院とは言え、そこは数十メートルの横穴がいくつも掘られた壕の中でした。そこで前線から送られてくる負傷兵の看護に彼女たちは忙殺されていくのです。
その悲惨な有様をここで具に書くことはしたくありません。ぜひ、現地に行って、実際に語り部の方から聞いてほしいのです。
私たち一行も、もしこれが本やテレビで知らされた事実だとしたら、これほど衝撃は受けなかったでしょう。その地を訪れ、そこの空気を嗅ぎ、実際の体験者の息遣いを感じながら聞いたからこそ、自分のことのように受け止められたのです。メディアを否定するわけではありませんが、行かなければわからないことはあるのです。
ただ、うかがった中のひとつのエピソードだけを書きたいと思います。
医薬品や満足な施設もない場所で、ましてや高温高湿の沖縄の地で、負傷した兵士の治療法は手足を切断するしかなかったと言います。麻酔もなく、わずかな缶に入れた油の灯りだけで、次々と四肢が切断され、その手足を捨てに行くのは、ひめゆりの女生徒たちの仕事でした。
最初は震えるばかりだった彼女たちも次第に無感情になっていきます。手足を肩にかついで外に捨てに行く。そのとき、米軍の砲弾でやられる人もいました。生理も止まり、彼女たちが見交わす互いの表情は、すでに若い女性のものではありませんでした。
そののち、米軍の攻撃はどんどん激しさをまし、彼女たちは南風原陸軍病院の壕を捨てなければなりませんでした。動けない重傷者には青酸入りのミルクを渡し、一行は南端に向かいます。
そして、6月18日、突然の「解散命令」。戦場の真ん中に放り出されて、何の生きる術もない人々は逃げ惑います。そして「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」との非情の教えに従い、兵も一般人も、手榴弾で命を断ち、あるいは米軍の攻撃で命を失いました。
この「解散命令」のあとの数日に亡くなったひめゆり学徒たちが、死亡した136人のほとんどを占めるのです。この解散命令こそは沖縄の人たちの生きる権利を踏みにじった、日本のおかした最も赦されざる行為であったと私は思います。
話をしてくださった語り部の女性は、どう考えても75歳は過ぎていらっしゃるはずでしたが、30分以上その場でじっと立ち尽くして、淡々と語られました。
「私はいつまでこうして語ることができるかわかりません。私たちの話はビデオに撮られ、後継者にも直接伝えています。
ひとりでも多くの人に、ここへ来て真実を知っていただきたいのです。このひめゆり資料館は昨年改装されましたが、一切公の援助を受けていません。入館料だけで維持しています。それは、展示についてどこからも指示を受けないためです」
その毅然とした声は、大勢の雑音の中で小さかったけれど、澄ませていた私たちの耳には、とても大きく響きました。
摩文仁(まぶに)の丘
ここの「沖縄平和祈念資料館」にも多くの戦争に関する貴重な展示があり、また海を臨む摩文仁(まぶに)の丘の上には、「平和の礎」という、沖縄戦におけるすべての戦死者の名前を刻んだ記念碑が立っています。
けれど、ここで私が一番ショックを受けたのは、資料館の一階の「子ども・プロセス展示室」にあった、ひとつのクマのぬいぐるみでした。
これは、戦時下のボスニアで使われた爆弾入りのぬいぐるみです。これを見つけた幼い子どもたちが、抱きかかえて家に持って帰ると爆発するようになっているのです。
これほどむごいことを計画し、実行に移すことができるほどに人間たちを変えてしまえるのが、戦争というものなのです。
糸数壕(アブチラガマ)
正直言って、最後に訪れたここほど、慄然とする戦跡はありませんでした。
ここは、案内してくれた地元の牧師さえ訪れたことがないほど、まだ公開されて新しい戦跡です。修学旅行の班行動で訪れる人が少しずつ増えていると聞きました。
ガマというのは、さんご礁が侵食されてできた自然の洞窟です。沖縄戦のとき、多くの地元住民がたくさんのガマを避難場所として使っていました。
そして玉城(たまぐすく)村にある糸数壕も例外ではありません。やがて、日本軍の陣地や倉庫として利用されるようになり、あのひめゆり学徒隊も、南風原陸軍病院が手狭になったため、一部が負傷兵とともにこちらに移動してきました。
全長270メートルのガマの中には発電機、かまど、井戸なども備えられていましたが、やがて戦争が激化し、ガマの中は負傷兵で埋め尽くされました。脳傷や破傷風患者であふれ、住民は爆撃の激しい中でガマを追い出され、行くあてもなく砲弾の犠牲となりました。
最初、いくつかの懐中電灯は持ってきていたのですが、それでは足りない、ひとりにひとつ必要と言われ、観光案内センターで借りました。
屈まないとくぐれないほど狭い入り口の階段を降りると、驚いたことに、まったく灯りというものがないのです。豆電球ひとつ、非常灯ひとつないとは思いませんでした。
生まれてはじめて経験する真の闇。懐中電灯をかざしてさえ、数十センチ前の足元がかろうじて見えるだけです。まるで光が闇に吸い込まれていく感じ。しかも床はぬらぬらと滑り、手すりのないところさえあります。
一行10人には、高齢者も12歳の子どももいます。正直これは行けないと思いましたが、とにかく進みました。
一歩前に進むのさえためらうほどの闇。細長い洞窟を順路に従っていくと、懐中電灯に照らし出される甕などの遺品の残骸や、「死体安置所」などの立て札があちこちに見えます。息苦しく、また幻覚さえ見えそうな恐怖に駆られました。戦時下の絶望と死の恐怖の中、とてもここで正気を保つことはできないと思いました。戸外の明かりが行く手に見えてきたときは、どれほど光というものに感謝したでしょう。
ぜひ、多くの方にここを訪れてほしいと思います。ただ底のすべらない靴で、しかも大勢で行くこと(ひとりでは死ぬほど怖い)。また当然のことながら、探検気分ではなく、しっかりと戦争の事実を見据えていくことが必要でしょう。