このところ、メディアで認知症が取り上げられることが多くなっています。先週土曜も3時間の特別番組がありました。50歳代、早い人は30歳で発症する「若年認知症」に対する知識も広まっています。
脳血管障害や過重なストレスが原因のひとつとも言われている認知症は、若い人にとっても決して他人事ではありません。
ひとりの重篤な認知症患者には、三人の介護者が必要だそうです。超高齢化社会の到来する日本社会にとって、これほど重い荷物はないのではないでしょうか。
かくいう私の周囲にも、認知症がおります。幸い、徘徊などを伴わず、身の回りのことも自分でできる程度の、ごく軽い症状ですが、それでも日常接する者にとっては、けっこう辛いものがあります。
朝になると、「○○がない」と言って、探し物を始める。
「とりあえず、代わりのこれがあるから」と納得させますが、次の朝には、まるで昨日のことがなかったかのように、「○○がない」と、また探し物が始まるのです。そのうち、「○○を捨てられた」と話が変わっていきます。
数分前に交わした会話も忘れてしまいます。会話の内容だけではなく、会話をした事実そのものも忘れてしまうのです。一方で、一度インプットされた間違った思い込みは、何度説得しても、容易に捨てようとしません。
いずれも、粘り強く何回も話せばよいのですから、たいした労力ではありません。だが、それが毎日だと、家族はひどく疲れます。
あれほど、しっかり者だったのに。なんでもてきぱきとこなす人だったのにと、悲しくなるのです。
子どもを育てる苦労と比較するとわかります。子どもはやがて成長し、今日できないことも明日できるようになっていきます。だが、認知症患者は、今日できることが明日できなくなるのを、家族は見続けなければならない。
周囲の辛さはそれだけではありません。
物忘れがひどく、今まで簡単にできていたことも滞ってくるのを見ると、表面は穏やかに接しても、心のどこかに、その人に対する嫌悪感や苛立ちが生まれてきます。
「ごはんをこぼしてるよ」という言葉にも、「また」「何度言っても」「だからおまえは」という余計なことばがどんどん付随します。
小ばかにしたような家族の言動を、患者本人は敏感に感じ取って傷ついてしまうのです。感情の起伏が激しくなり、失敗を隠そうとしたり、ごまかしたりするのは、当然のなりゆき。
家族もつい怒鳴ったり、叱ったりしては、あとで非常な後悔に襲われています。優しくできない自分の醜さを、いやと言うほど思い知らされてしまいます。
たぶん来年はもっとひどくなる。そんな先が見えない絶望にとらわれないために、患者も家族も、お互いに一日をせいいっぱい生きるしかないのです。
今年の4月から、市町村の地区別に「統括支援センター」という制度ができました。介護保険で、「要介護」の下に「要支援1」「要支援2」という新しい区分ができ、「介護予防」という点が重視されるようになりました。
病気にもよりますが、認知症はごく初期に適切なリハビリをすれば、進行を食い止めることも、回復さえも不可能ではありません。認知症への認識が進み、従来の介護認定では「自立」とみなされていた初期の認知症患者にも、支援の手が届くようになりつつあります。
患者も家族も、家にばかりいないで、多くの人々と接することが大事なのです。
近所のお店の人に理解してもらうことによって、患者ひとりで買い物にも行けます。多くの目が注がれていれば、徘徊を未然に発見することもできるでしょう。患者との不毛な会話に疲れ果てている家族も、思い切り話を聞いてもらえる場所を必要としています。
お互いが閉じこもらないで、互いの助けを気軽に求められるコミュニティが、今の日本に欠けている理想なのです。