暑いですね。みなさまいかがお過ごしですか。
きょう私は実家で、「純情きらり」のお昼の再放送を、私の両親と見ました。主人公は、婚約者を戦地に送り、今また弟をも送り出そうとしています。弟の専攻の物理の本を、夜なべで一文字一文字紙に書き写し、「千人針の代わりだから」と言って持たせている場面がありました。
千人針って若い人はご存じないかも(と言って、私も見たことありませんが)。戦地に行く家族のために、妻や母が街頭に立ち、道行く人に一針ずつ祈りをこめて縫ってもらって、その布を出征する兵士に持たせるのです。
「千人針はなあ。シラミがたかるから、捨てさせられるんや」と、父が言いました。
私の父は、先の大戦中は上海に留学していました。彼の父親、つまり私の祖父が中国で貿易商をしていたからです。
しかし、やがて敗戦の影が色濃くなり、学徒動員で駆りだされた工場では、友人とふたりでベートーヴェンの「運命」を口ずさみながら作業したといいます。「武士道とは死ぬことと見つけたり」のことばに酔っていた青春でもありました。
食料も不足し始め、近隣の農家に米を徴用に行くのは、大学の上級生の仕事でした。徴用とは体のいいことばですが、要するに略奪してくるのです。農家の人たちが必死で隠している大切な米を、無理矢理取り上げる。中国の人にとっても、日中の架け橋となるという理想に燃えて、ここに来たはずの学生たちにとっても、なんと残酷な行為だったことでしょう。
昭和二十年の2月になって、ついに父にも召集令状が来ました。
入隊してわずか数日で、下着にシラミがつくほど不衛生な状態。飲み水は、井戸の水を汲んで、ミョウバンを放り込んで、さらに上澄みを煮沸してようやく飲むことができるのです。揚子江沿いに進軍しているうちに、父は喉の渇きに耐えられなくなり、ひとくちだけ浅瀬の水をすくって飲みました。それから三ヶ月、父はずっと下痢に苦しみました。
夜は散発的なゲリラの銃弾の音が聞こえてきましたが、結局父は一度も銃を撃つことなく、敗戦の日を迎えました。
軍が現地解散となり、ふたたび上海に戻ったのですが、他の都市と違い上海はいたって平穏だったそうです。
日本人に対する略奪などもここでは起こらず、近隣では日本人の薬屋が相変わらず経営を続けていました。日本人は「倭僑」と記した腕章をつけることを義務付けられましたが、上海の人々は敗戦の後もなお、日本人に非常に好意的だったと言います。
自分の家にたどり着くと、別の都市で貿易をしていた祖父が戻ってきました。「やあ無事か」と喜び合いました。
父が祖父に「金持っとるか」と訊くと、「ある」という答え。
後に祖父は、中国で築いた財産をすべて没収されてしまいますが、そのときはまだ裕福でした。
父はもらった銭で、毎日映画館通いをして、好きな洋画をたっぷり見たそうです。
薬屋の娘との縁談も持ち上がりましたが、やがて復員船の順番が来て、日本に帰りました。
悲惨で残虐だと言われる戦争の直後、上海はこんなのんびりした状態だったことを聞き、驚くばかりです。いまだ戦争の全体像も知らなかった当事者たちは、意外に淡々と隣人たちと日々の暮らしを紡いでいたのかもしれません。
だからと言って、日本人が憎まれるようなことは何もしていないと主張するつもりはありません。米の強制徴用の話からもうかがい知ることができるように、戦争は当事者双方にとって、人間としての信頼と尊厳を踏みにじる残酷な行為だということは、決して間違えようがありません。
謝罪しろ、補償しろ、いや謝罪した、補償した、という話ばかりが声高に聞こえてきますが、人間として一個人として隣人として、もう一度話し合うことはできないものなのでしょうか。
父は80歳になろうとしています。戦争の話が当事者たちから直接聞けるのも、あとわずかかもしれません。
今日は61回目の終戦記念日です。
私の父は終戦当時旧制中学の学生で、戦火を逃れて母(私の祖母)や妹(私の叔母)たちと疎開していた九州の某県で終戦を迎えたそうですが、
『あの時沖縄に残っていたら、鉄血勤皇隊(※)に召集されて、もしかしたら戦死していたかもしれない』
と、ある日TVの沖縄戦特集を見ながらポツリとつぶやいたのを憶えております。
また疎開中かの地でもいろいろあったようですが、当時のことはあまり語ろうとはしません。
父にとって戦争の記憶は、いまだに口に出すのも辛い記憶なのだということを感じる次第であります。
※沖縄戦では、中学生以上の学生が多数戦場に動員され軍事活動等にあたっていました。
有名な「ひめゆり部隊」は女子学生、「鉄血勤皇隊」は男子学生で編成された部隊です。
うちの父は、召集はされたものの、実際の戦闘は経験していないのです。だからこうやって語ってくれるのかもしれません。
沖縄の地上戦については、去年の旅行でその一端を学びました。あまりにもむごい。故郷の美しい山河や親しい人々をなくされたお父上が口を閉ざすのも当然だと思います。
「鉄血勤皇隊」は寡聞にしてまったく知りませんでした。
「ひめゆり部隊」について学んだことは、日本軍は非戦闘員の彼らを統制下に入れて連れ回した挙句、いきなり戦場の真ん中で解散するという愚行を侵したこと。せめて最後まで責任を取り降伏まで導いてくれていたらと思います。